第55話 最初の作業日、五人いるのに妙に落ち着かない
火曜日の放課後は、朝の段階から少しだけ空気が違っていた。
黒峰恒一は一時間目の途中で、そのことにもう気づいていた。
教科書をめくる音の合間に、前の席の女子が後ろを振り返って何か小さく話している。休み時間になれば、「今日、残るんだよね?」だとか「提灯ってどこで買うのかな」だとか、文化祭準備の話が細く長く教室に流れていた。
そして、その流れの中心に自分たちがいることも、嫌というほど分かる。
火曜。
最初の作業日。
準備班、装飾班、広報班の動きが一番重なりやすい日。
ただそれだけのはずなのに、妙に意味が増える。
だから嫌だった。
でも、だからといって逃げられるほど子どもでもなかった。
「黒峰くん」
二時間目と三時間目の間の休み時間、ことねが机の横へ来た。
「なに」
「今日さ、終礼終わったらすぐ残れる?」
「残る予定だから丸つけたんだろ」
「いや、そうなんだけど。なんかこう……確認したくなるじゃん」
ことねは少しだけ笑った。
その笑い方には、いつもの明るさと、少しのそわそわが混ざっている。
「夢咲さん、朝から三回目だよ」
通路側から凛が言う。
「確認しすぎ」
「だって、最初の作業日だよ?」
「だからこそ確認しすぎると逆に落ち着かないでしょ」
「朝霧さんは落ち着きすぎなんだって」
「落ち着いてない」
「え、そうなの?」
「見せてないだけ」
その返しに、ことねが一瞬だけ目を丸くする。
すぐに、にやっと笑った。
「今のちょっと本音っぽい」
「夢咲さん」
「はいはい、追及しません」
追及する気満々の顔でそう言うなと、恒一は思った。
窓際では、朱莉としおんが小さく何かを話していた。
二人とも声は静かだ。けれど、机の上に広げた小さなメモへ視線を落としながら、かなり具体的な確認をしているのが分かる。
布の色。
飾りの位置。
入口から見た時の印象。
文化祭準備というより、もうだいぶ“始まる前の作戦会議”だ。
「……みんなちゃんとやる気あるんだな」
恒一がぽつりと言うと、ことねがすぐに返した。
「あるよ」
「夢咲さんはわかる」
「なにそれ」
「いや、わかるだろ。絶対こういうの好きだし」
「好きだけど?」
ことねは胸を張る。
「でも、好きなだけじゃなくて、ちゃんといい感じにしたいんだよ」
その“いい感じ”が前より少し具体的になっているのが、最近のことねだった。
凛が小さく息を吐く。
「その“いい感じ”の中身を現実に落とすのが大変なんだけど」
「朝霧さん、それ今日もう言った?」
「三回くらい」
「でも必要だから言うんだよね?」
「そう」
「ほんと真面目」
ことねはそう言いながら、少しだけ嬉しそうだった。
◇
終礼が終わると、教室の空気は一気に二つへ割れた。
帰る組。
残る組。
帰る生徒たちは、まだ教室に熱が残っているうちにさっと出ていく。部活へ向かう声、廊下へ流れる足音、机の中へ教科書を押し込む雑な音。
その一方で、残る側はなんとなく前のほうへ集まり始めていた。
「よし」
ことねが両手をぱんと合わせる。
「じゃあ最初だから、今日は“教室をどう使うか”の確認メインでいこっか」
「軽く仕切るの自然すぎない?」
恒一が言うと、ことねは肩をすくめた。
「誰も言い出さないで固まるよりいいでしょ」
「それはそう」
凛もすぐに同意する。
「最初に止まると、そのまま“なんとなく喋って終わった”になるから」
「朝霧さん、その最悪の未来めっちゃ見えてるね」
「文化祭あるあるでしょ」
朱莉としおんも前へ来る。
「で、何から見るの?」
朱莉が聞く。
「入口」
しおんが先に言った。
「最初に入ってきた時の見え方、最初に決めたほうがいい」
ことねがうなずく。
「うん、それ私も思ってた。写真撮るにしても、最初の印象って大事だし」
「入口に装飾寄せすぎると中が死ぬけどね」
凛が言う。
「予算も手間も最初にそこ持ってかれるし」
「朝霧さんって、ほんとに夢を現実の大きさに切るの上手いよね」
「褒めてる?」
「半分」
「黒峰と同じこと言うじゃん」
その会話のテンポが、少しだけおかしくて、恒一は肩の力が抜けた。
結局、最初にやることはかなり地味だった。
教室を歩いて、見る。
入口から入る。
窓際まで行く。
後ろへ回る。
机を少し動かして、通路の幅を確認する。
たったそれだけだ。
でも、五人でやると意外と情報量が多い。
「ここ、思ったより狭いね」
ことねが言う。
「机寄せたら、入口で詰まりそう」
「その代わり、正面に何か置いたら一気に空気変わる」
朱莉が見る。
「背の高いものは危ないから、吊るすか壁沿い」
「提灯っぽいの、ここに一本流したい」
ことねが天井側を指す。
凛がすぐに見る。
「画鋲とテープの制限確認しないと」
「朝霧さん、一回くらい“いいね”から入れない?」
「入れるよ」
凛は少しだけ間を置いた。
「いいね。でも、固定方法確認しないと危ない」
「後半が早いんだって!」
ことねが笑う。
しおんは教室の中央で立ち止まり、静かに周囲を見回していた。
「雪代、何か見えてる?」
恒一が聞くと、しおんは少しだけ首を動かした。
「明るい時間と暗い時間で、印象だいぶ変わる」
「どう違う?」
「今は窓から光入るから、布の色ちゃんと見える。でも放課後遅い時間だと、蛍光灯が勝つ」
「……なるほど」
朱莉が小さく頷く。
「じゃあ、昼の見え方と夕方の見え方、両方いるね」
「それ、結構大事だよね」
ことねも真面目に言う。
「当日は昼だけど、準備は夕方多いし」
「やっぱり一回、照明も意識して見たほうがいい」
しおんのその言葉に、凛がメモを取る。
「照明チェック追加」
「うわ、ちゃんと進んでる」
ことねが少し嬉しそうに言う。
「こういうの、最初の一日ってだいたい空回るのに」
「空回らせたくない人が何人かいるからでしょ」
朱莉が言う。
「今の、私も入ってる?」
ことねが聞く。
「入ってるよ」
「やった」
「そこ喜ぶとこ?」
「喜ぶとこ」
ことねは素直だ。
そういうところが、分かりやすい。
◇
途中で、準備班の女子が二人、少しだけ手伝いに来た。
机をどこまで寄せるか、どの棚を動かせるか、担任に確認がいるのは何か。その辺りをざっと共有して、二人はすぐに部活へ向かっていった。
教室に残ったのは、結局またこの五人だった。
別に、最初からそうしようと思っていたわけではない。
でも結果としてそうなる。
「……うわ」
ことねが、二人が出ていった扉を見ながら小さく言った。
「なに」
凛が聞く。
「いや、また五人だなって」
「別にいいでしょ」
「いいんだけど、なんか、“結局この五人に戻るんだ”感ある」
その言葉は少しだけ核心に触れていた。
匿名の焼き菓子。
メモ。
差し入れの価値観。
文化祭の買い出し候補。
いろいろ増えても、結局、空気が濃くなる時にここへ集まるのはこの五人なのだ。
恒一は、教室の後ろ側から前を見た。
ことねがいる。
明るくて、でも今はちゃんと考えている顔をしている。
凛がいる。
現実的で、必要なことを切っていく。
朱莉がいる。
見える形を作る側の目で、教室を見ている。
しおんがいる。
音も光も、空気ごと拾っている。
そして、自分がいる。
それが今の文化祭準備の最初の輪郭だった。
「黒峰くん」
ことねが呼ぶ。
「ん?」
「そこから入口見た時、どう?」
「どうって」
「圧ある? 狭い? 抜け感ある?」
「言葉の数が多いな」
「こういう時の語彙は多いよ!」
ことねは胸を張る。
恒一は少しだけ位置を変えて、入口側を見る。
机の並び、窓の光、黒板横の余白。
何も飾っていない普通の教室だ。
でも、少しだけ想像する。
「……思ったより、正面に一個あるだけで変わりそう」
「なに置く?」
朱莉が聞く。
「名前札みたいなやつ?」
「いいかも」
ことねがすぐ反応する。
「和風っぽい縦看板とか?」
「入口の横がいい」
しおんが静かに言う。
「真ん中だと詰まる」
「確かに」
凛が頷く。
「右寄せなら人流も死なない」
「こういう、みんなで“ちょっとずつ正解に寄せてく感じ”、文化祭っぽいかも」
ことねが言うと、朱莉が少しだけ笑った。
「今さら?」
「今、ちょっとだけ実感した」
「遅」
「火乃森さんひどい!」
そのやり取りで、教室に少しだけ柔らかい空気が流れる。
◇
しばらくして、ことねがふと机に腰を預けて言った。
「ねえ」
「なに」
恒一が答える。
「今日さ」
「うん」
「思ったより普通じゃない?」
その言葉に、全員が少しだけ止まった。
普通。
今、その単語を使うのか。
「どういう意味?」
凛が聞く。
ことねは少し考える。
「いや、もっとこう、火曜の初回作業日っていうから、変に意識しすぎて空回るかなって思ってたの」
「うん」
「でも、今のところちゃんと文化祭準備してるなって」
それは、たしかにその通りだった。
匿名メモの件も、買い出し候補の件も、空気としてはまだ残っている。
でも今この時間は、ちゃんと教室の使い方を見て、必要なものを考えて、作業として会話している。
「……まあ、そうだな」
恒一が言うと、ことねはちょっとだけ嬉しそうに笑った。
「でしょ」
「ただし」
凛が口を挟む。
「まだ最初の確認だけだからね」
「朝霧さん、そういう時ほんとに期待させてくれないよね」
「いや、変に期待して後で死ぬほうが嫌でしょ」
「それはそうなんだけど」
ことねは少しだけ頬を膨らませる。
朱莉が、ふっと視線を落として言った。
「でも、最初が普通だったのはいいことだと思う」
その声は静かだった。
でも、妙にやわらかい。
「最初から変な意味増えすぎると、どこでちゃんと作業してるのか分からなくなるし」
「……火乃森さん、今それちょっと深いね」
ことねが言う。
「別に深くない」
「深いよ」
ことねは少しだけ真顔になった。
「だって私たち、最近ちょっと何でも意味つけすぎてたし」
その一言で、場の空気が少し変わる。
何でも意味つけすぎていた。
それはたぶん、全員少しずつ思っていたことだった。
匿名の焼き菓子。
メモ。
差し入れの言葉。
買い出し表。
残れる日。
誰と誰が一緒に動くか。
もちろん、そこに意味がまったくないわけじゃない。
でも、意味ばかり見ていると、本来の作業そのものが見えなくなる。
「……夢咲さんにしては、いいこと言うね」
凛がぽつりと言う。
「“にしては”いらないでしょ!」
「でも合ってる」
「うっ……まあ、それならいい」
ことねは照れたように笑った。
その横で、しおんが静かに言った。
「たぶん、今日普通だったのは」
「うん」
「五人とも、ちょっとだけ気をつけてたから」
その言葉が、妙に腑に落ちた。
たしかにそうだ。
誰も雑に近づいていない。
誰もあからさまに引いてもいない。
少しだけ慎重で、少しだけ距離を見ながら、それでもちゃんと作業をしている。
それが今の“普通”なのだろう。
◇
帰る前、ことねが小さく伸びをして言った。
「じゃあ、今日はこんな感じで一回解散?」
「そうだな」
恒一が答える。
「次は買い出しの前に必要物一覧まとめないと」
「それ、私と朝霧さんで先に叩き台作る?」
ことねが言うと、凛が少しだけ考えてから頷いた。
「うん。そのほうが早い」
「じゃあ、明日のお昼ちょっと時間もらっていい?」
「いいよ」
そのやり取りを見て、朱莉が言う。
「装飾側も、布と札のイメージ少し出しとく」
「私も見る」
しおんが続ける。
「灯りの位置も考えたい」
「うわ、なんかほんとに進んでる」
ことねが少し嬉しそうに言った。
「文化祭っぽいね」
「今さら?」
また朱莉が言う。
「今日それ二回目」
「だって本当にそう思ったんだもん」
笑いが生まれる。
その笑いの中で、黒峰恒一は思っていた。
残れる日を書いただけなのに、なぜか少しだけ空気が近い。
でも今日は、その近さが嫌なだけではなかった。
ちゃんと作業をしたうえで、その距離がそこにあった。
それは少しだけ、救いに近かった。




