第54話 残れる日を書くだけなのに、なぜか少しだけ空気が近い
翌日の放課後、黒峰恒一は黒板の横に貼られた一枚の紙を見て、まだ何も始まっていないのに、もう十分始まっている気がした。
白いコピー用紙。
見出しはシンプルだ。
文化祭準備 放課後作業 参加可能日 記入表
それだけ。
たったそれだけの紙が、教室の前方に貼られている。
名前を書いて、残れる日へ丸をつけるだけ。
作業を回すためには当然必要なものだ。
必要なのは分かる。
分かるが、今のこのクラスで、それをそんな簡単な顔で貼るなと言いたかった。
「うわあ……」
横から夢咲ことねが小さく声を漏らした。
「やっぱ来たね」
「来るだろうとは思ってたけどな」
恒一が答えると、ことねは記入表を見上げたまま、半分笑って半分困った顔をする。
「これさ、ただのスケジュール表なのに、今のうちのクラスだと妙に生々しく見えない?」
「見える」
即答だった。
だってこれは、“誰がどの日に残れるか”の表だ。
言い換えれば、“誰と誰が同じ日に教室に残る可能性があるか”の表でもある。
文化祭準備という名目は健全だ。
むしろ学校生活のど真ん中にあるイベントだ。
なのに、匿名の焼き菓子とメモの件がまだ尾を引いていて、しかも黒峰周辺の距離感がクラスに薄く共有され始めている今、この紙は妙に危ないものに見えてしまう。
「朝霧さん、これどう思う?」
ことねが少し離れた位置にいた凛へ声をかける。
凛は腕を組んで記入表を見上げていた。顔は落ち着いている。でも、その落ち着き方が逆に“面倒だとはちゃんと分かっている人”のそれだった。
「必要」
「いや、それは分かるけど」
「あと、危ない」
「だよね!」
ことねがすぐに反応した。
「なんでそこでそんな冷静なの!?」
「冷静じゃないとやってられないから」
前にも聞いた気がするな、その台詞、と恒一は思う。
凛は視線を紙から外さないまま続けた。
「でも、貼るなら貼るで、これは早めに埋めたほうがいい」
「なんで?」
「空欄のままだと、あとから“誰に合わせたのかな”って見え方するから」
その言葉に、ことねが一瞬だけ黙る。
「……あ」
「でしょ」
「それ、かなり嫌だな」
「嫌だよ」
凛は淡々としている。
「たとえば黒峰が後から書いて、たまたま夢咲さんと同じ日に丸が多かったら、それだけで変な見え方する。逆に、わざとずらしたみたいに見えても面倒」
「やめて、朝霧さん。想像するだけで胃が痛い」
「でも実際そうなる」
正しい。
嫌なほど正しい。
恒一は思わず頭をかいた。
「なあ、もういっそ全部の日に丸しとけばだめか」
「だめ」
ことねと凛の声が綺麗に重なった。
「なんでそこだけ息ぴったりなんだよ」
「だって黒峰くん、それ絶対よくないもん」
ことねが言う。
「全部の日に丸って、“誰とでもいいです”にも“誰にも合わせてません”にも見えるけど、結局いちばん雑だから」
「しかもあとで本当に全部出ろってなる」
凛が補足する。
「そこまで善意で教師は解釈しないよ」
「現実……」
恒一が小さく呻くと、ことねが少し笑った。
「黒峰くん、最近“現実”でダメージ受けすぎじゃない?」
「だって最近、現実が強すぎるんだよ」
「それはそう」
ことねが納得したように頷く。
◇
そこへ、静かな足音が近づいてきた。
雪代しおんと火乃森朱莉だ。
朱莉は記入表を見るなり、少しだけ目を細めた。
しおんはいつものように一拍遅れて、でもたぶん誰より細かく見ている。
「やっぱり出たね」
朱莉が言う。
「うん」
ことねが頷く。
「しかも思ったより早く」
「早いほうがいいでしょ。曖昧なままのほうが揉めるから」
朱莉の言い方には、例によって無駄がなかった。
でも、彼女自身もこの紙の危なさは分かっている顔をしている。
「火乃森さんは、もう決まってるの?」
ことねが聞く。
「残れる日?」
「うん」
「ある程度は決まってる」
朱莉はそう言って、記入表の横へ置かれたペンを手に取った。
「家の用事と塾の日あるから、それ以外」
迷いがない。
さっさと名前を書いて、丸をつける。
その手つきがあまりにも自然で、ことねが感心したように見た。
「火乃森さん、こういう時ほんと強いね」
「何が」
「いや、変にためらわない感じ」
「ためらう意味ある?」
朱莉はペンを戻してから言う。
「残れる日は残れるし、無理な日は無理。それだけでしょ」
「まあ、そうなんだけど……」
ことねは少しだけ口ごもる。
その“まあ、そうなんだけど”の先にあるものを、たぶんこの場の全員が分かっていた。
ただの予定表。
でも、ただの予定表に見えなくなっているのが今のクラスなのだ。
しおんが、その空気の中で静かに言う。
「早く書いたほうが、余計な音がしない」
「音?」
恒一が聞くと、しおんは小さく頷いた。
「後から書くと、“合わせたのかな”とか“避けたのかな”とか、勝手に増えるから」
「うわ、雪代さんまで同じこと言う」
ことねが顔をしかめる。
「しかも“音がしない”って言い方、なんか妙に分かるの嫌だなあ……」
「嫌?」
「嫌っていうか、正しすぎて」
ことねは小さくため息をつく。
「ねえ、ほんとにさ、文化祭ってもっと“何やる?”でわちゃわちゃするイベントじゃなかったっけ。なんで今、“いつ残る?”でこんなに慎重になってるの」
「今のうちのクラスがそうだから」
凛が即答した。
「夢咲さん、もう諦めなよ」
「いや、諦めたくはないよ!」
「でも現実は見たほうがいい」
「だから朝霧さんは現実の擬人化か何かなの?」
「違う」
「違わない」
そのやり取りに、朱莉が小さく笑う。
「夢咲さんも結局、ちゃんと現実見てるじゃん」
「見てるよ!」
ことねがすぐ返す。
「見てるけど、たまには“文化祭楽しみー!”だけでいたいの!」
「それは分かる」
思わず恒一が言うと、ことねがぱっとこちらを見る。
「でしょ!?」
「でも、今の状況でそれだけは無理だろ」
「うん、それも分かる」
ことねは大人しく頷いた。
その頷き方が、ちょっとだけ可笑しかった。
◇
「で、黒峰はまだ書かないの?」
凛が聞く。
紙を見ていた恒一は、少しだけ眉を寄せる。
「……今書く」
「今書いたほうがいい」
「だから分かってるって」
ペンを取る。
名前を書いて、残れる曜日を見ていく。
月曜は家の都合で少し難しい。
火曜と木曜は比較的残れる。
水曜は部活勢が多いから作業少なそうだが、自分は残れなくもない。
金曜はその週次第。
そうやって丸をつけていく。
その動きを、なぜかことねがじっと見ていた。
「……なに」
恒一が言うと、ことねが少しだけ目を逸らした。
「いや、別に」
「別に、の顔じゃないだろ」
「だってちょっと気になるじゃん」
「何が」
「どこに丸つけるか」
「やめろ、それ言うと余計意識する」
「ごめん。でも気になるものは気になるし……」
その言い方は、ずいぶん正直だった。
凛がすぐに割って入る。
「夢咲さん、見すぎ」
「見てないって!」
「見てる」
「ちょっとだけだよ!」
「それを見てるって言うの」
「朝霧さんは見てないの?」
「私は必要があるから見てる」
「その言い方ずるくない!?」
会話が少し速くなる。
だが、その速さの下にある気まずさまで、最近の自分たちはもう隠しきれなくなっていた。
恒一は丸をつけ終えてペンを戻す。
「これでいいだろ」
ことねが一瞬だけ表を見た。
凛も同じように見た。
そして、二人がほぼ同時に口を開く。
「火曜多いね」
「火曜なんだ」
綺麗に被った。
「……なんだよ」
恒一が言うと、ことねが慌てる。
「いや、なんでも!」
「なんでも、じゃないだろ」
「ちょっと火曜多めだなって思っただけ!」
「俺の予定の都合だよ」
「分かってるよ!」
「ならいいだろ」
「いいけど!」
ことねはそこで口をつぐみ、少しだけ頬を膨らませた。
凛が呆れたように言う。
「夢咲さん、今のはだいぶ分かりやすい」
「うるさいなあ……」
「何が気になったの」
「だから、別に変な意味じゃなくて!」
「その前置き入れるとだいたい変な意味ある時だよ」
「朝霧さん!」
朱莉がそのやり取りを見て、ため息交じりに言った。
「もう、この紙の前で会話するのやめたら?」
あまりにもその通りだった。
「だって何言っても意味増えるし」
「増えるね」
しおんが小さく頷く。
「今の“火曜多いね”だけでも増えた」
「雪代さんまでそういうこと言う……」
ことねは頭を抱えた。
「でも、本当のことだし」
しおんは静かに言う。
「だから余計にだめなんだよ……」
ことねのその言い方に、少しだけ笑いが起きた。
◇
昼休み。
文化祭の記入表は、午前中のあいだにかなり埋まっていた。
誰がどの日に残れるのか、ざっくりだが見えるようになってきている。
それ自体は、作業を進めるうえでいいことのはずだ。
はずなのだが。
「うわ」
夢咲ことねが、昼休みの前方の席でメモ表を見ながら言った。
「なに」
凛がパンをかじりながら聞く。
「これ、思ったより偏ってる」
「どこが」
「火曜と木曜」
ことねが指で示す。
「残れる人、多いのそこだよ」
「そりゃそうでしょ。部活も塾も、曜日によって偏るし」
凛は冷静だ。
「問題はそこじゃなくて」
「え、そこじゃないの?」
「その中で、どの班がどう重なるか」
凛は表を見ながら続ける。
「準備班と装飾班が火曜にだいぶ被ってる。つまり、そこが主な作業日になりやすい」
ことねが言葉を失う。
「……うわ」
「さっきも言ってた」
恒一が言うと、ことねは真顔で返した。
「だって“うわ”ってなるでしょ、これは!」
朱莉がメモ表をのぞき込む。
「でも、避けようとして避けられる感じでもないね」
「そうなんだよね……」
ことねが弱々しく言う。
「だって予定表の結果だし」
「だから、変に気にしすぎないほうがいい」
凛が言う。
「事実としてそうなっただけなんだから」
「朝霧さんはそう言うけど、たぶんクラスの子たち絶対そこまでドライじゃないよ」
「それもそう」
凛が珍しく即答した。
即答するのかよ、と恒一は思ったが、たぶん凛もそこはちゃんと分かっているのだろう。
そのとき、別クラスからましろがやって来た。
「先輩」
「ん?」
「文化祭の表、見ました」
「早いな」
「話題になってたので」
やっぱり回るのか。
「で?」
ことねが聞くと、ましろは少しだけ考えてから言った。
「火曜、多いですね」
「またそこか」
恒一が小さく呻く。
「でも、複数で動く前提なら大丈夫だと思います」
ましろは落ち着いた声で続けた。
「誰か一人だけが浮く感じではないので」
その見方は、ましろらしかった。
空気そのものより、“誰が困るか”を先に見ている。
「ただ」
「ただ?」
ことねが聞く。
「先輩、疲れそうです」
「なんで」
「火曜、いろんな班が重なる日になりそうなので」
それはたしかにそうだ。
準備班、装飾班、広報班。
それぞれが少しずつ動く中心日になれば、人も音も増える。
つまり、気を使う量も増える。
「小鳥遊さん、その予測はたぶん当たる」
しおんが静かに言う。
「火曜、音多そう」
「もうやだ、その言い方リアルすぎる」
ことねが言いながら、自分でも少し笑った。
◇
放課後、教室の前方では文化祭のメモの続きが行われていた。
凛が表を整理し、ことねがクラス向けの説明文を考え、恒一は準備班の作業イメージを書き出す。
「ねえ」
ことねが言う。
「これさ、次にやるのって、結局“火曜の初回作業で何するか”の整理だよね」
「そうなる」
凛が答える。
「最初に動く日を決めないと、結局また何も進まないし」
「火曜かあ……」
ことねが少しだけ遠い目をする。
「そんな顔するなよ」
恒一が言うと、ことねは苦笑した。
「いや、なんかね。まだ何も始まってないのに、“火曜”って言われるだけで妙に具体的な感じするんだよ」
「それは分かる」
恒一も頷く。
「予定表って、なんか急に現実になるよな」
「うん。夢でも雰囲気でもなくなる」
ことねはメモ帳を閉じて、少しだけ真面目な顔をした。
「だからこそ、火曜をちゃんと回したい」
「珍しく委員っぽいな」
「珍しくじゃない!」
「でも、今日はかなりそう」
凛がさらっと言う。
「最初の作業日って、雰囲気決まるから」
「朝霧さん、それ昨日も言ってた」
「大事だから」
その会話を聞きながら、黒峰恒一はようやく少しだけ理解していた。
文化祭の準備は、企画そのものより、その前の細かい決め事のほうが空気を動かす。
誰が残れるか。
誰が買い出しに行くか。
最初の作業日に誰がいるか。
ただメモに丸をつけただけなのに、教室の空気はもう少しだけ恋愛っぽくなっていた。
そしてそれを、全員が気づかないふりをしながら、でも少しずつ認め始めている。




