第51話 係決めひとつで、教室の空気はすぐ恋愛っぽくなる
翌日の朝、黒峰恒一は教室へ入る前から少しだけ覚悟していた。
文化祭の話が始まった以上、次に来るのはたぶん――係決めだ。
企画案を出しただけで終わるほど、クラスという生き物は甘くない。
誰が何をするのか。
誰がどこまで残るのか。
誰と誰が一緒に動くのか。
そのへんが曖昧なままだと、女子の多いクラスでは一瞬で空気が濁る。
そして今の星ヶ峰で、その“濁りやすい中心”に自分がいることも、もう嫌というほど分かっていた。
「……入りたくねえ」
教室の前で小さく呟く。
「入って」
すぐ横から返ってきたのは、朝霧凛の声だった。
振り向くと、凛がいつもの落ち着いた顔で立っている。鞄を肩にかけ、朝の光を背にしているせいか、妙にきりっと見える。
「聞いてたのかよ」
「その距離で言えば聞こえるでしょ」
「普通、聞こえても流すだろ」
「流して遅刻されたら面倒だから」
「遅刻するとは言ってない」
「でも入りたくない顔はしてた」
そこへ、少し弾んだ声が重なった。
「おはよー!」
夢咲ことねだ。
今日も朝から元気だ。元気なのに、こちらの顔を見るなりすぐに笑った。
「うわ、黒峰くん、ほんとに嫌そう」
「夢咲さんまで」
「だって分かるもん。今日たぶん係決めでしょ?」
ことねはそう言いながら、自分でも少しだけ緊張している顔をしていた。文化祭が楽しみなのは本当だろう。だが、楽しみなだけで済まないこともちゃんと分かっている顔だ。
「で、入らないの?」
ことねが聞く。
「入るよ」
「じゃあ最初からそう言いなよ」
「心の準備ってものがあるんだよ」
凛が小さく息を吐いた。
「黒峰、最近そういう準備多いね」
「言うな」
三人で教室へ入る。
朝の空気はいつも通りに見えて、でもいつもより少しだけ落ち着かなかった。
数人が前の席に集まって話している。
すでに文化祭のことを話題にしているグループもある。
何人かの視線が、自分たち三人へ向いたあと、すぐに外れた。
ああ、もう見られてる。
そう思った瞬間、少しだけ胃が重くなった。
◇
ホームルームが始まるなり、担任は黒板へ大きく「文化祭」と書いた。
「昨日、企画のたたき台は出たな。今日は係をざっくり決める」
やっぱり来た。
教室のあちこちで椅子が鳴る。
みんな、一応は前を向いている。
でも、それぞれの頭の中ではたぶん別のことも動いている。
「細かいことは後で調整する。ただ、準備班、装飾班、会計・備品班、広報・呼び込み班、この四つくらいに分けたい」
担任の説明が続く。
「それぞれ人数を見て割るから、やりたいものがあれば言ってくれ」
その瞬間、教室の空気が少しだけざわついた。
やりたい係。
この言葉は単純に見えて、今のこの教室では全然単純じゃない。
どの班なら誰と一緒になるか。
どの班なら放課後残るか。
どの班なら買い出しがあるか。
つまり、どの班なら誰と近くなれるかまで、もう薄く透けて見えるのだ。
「うわー……」
ことねが小さく呻く。
「何」
凛が聞く。
「今、“やりたい係”って言われた瞬間に、絶対みんな一回“誰がどこ入るかな”って考えたでしょ」
「考えたね」
凛が淡々と認める。
「認めるんだ」
「だって本当だし」
ことねがちらっと恒一を見る。
「黒峰くん、今の聞いてさらに顔死んだよね」
「死ぬだろ、こんなの」
そこへ、後ろの席から静かな声が入った。
「でも、曖昧にしないほうがいい」
雪代しおんだった。
いつの間にか近くまで来ていたらしい。
相変わらず足音が薄い。
「しおん先輩もそう思う?」
ことねが聞くと、しおんは小さく頷いた。
「うん。何となくで動くほうが、あとで空気変になるから」
「しおん先輩のその“空気変になる”って、なんかすごい説得力あるよね……」
ことねが言うと、しおんは少しだけ目を細めた。
「最近、そういうの多いから」
まったくその通りだ。
◇
「じゃあ、やりたい班、今のうちに候補だけでも言ってくれ」
担任が言う。
「準備班は当日まで一番動く。装飾班は美術寄り。会計・備品班は細かい管理。広報・呼び込み班は外向きの対応が多い」
その説明が終わる前に、ことねが手を挙げた。
「広報・呼び込み、ちょっと興味あります!」
やっぱりそこへ行くか。
明るくて、人を巻き込むのが上手くて、空気を作ることに抵抗がない。夢咲ことねにいちばん似合うのは、たしかにその班だろう。
担任が頷く。
「夢咲な。合いそうだな」
「えへへ、ですよね」
ことねは少し照れながら笑う。
その横で、凛は小さくため息をついた。
「絶対そこ行くと思った」
「朝霧さん、その言い方やだ」
「いや、褒めてるよ」
「ほんと?」
「夢咲さんが会計とか座って数字合わせてるところ想像できないし」
「それはちょっとひどい!」
教室に笑いが起こる。
だが次の瞬間、その笑いは少しだけ別の種類へ変わった。
「私は会計・備品でいいです」
凛が手を挙げたのだ。
これもまた、似合いすぎている。
「朝霧、そっちな」
「はい」
凛は平然としている。
ことねがすぐに身を乗り出した。
「朝霧さん、そこに行くんだ」
「何、その驚き方」
「いや、準備班とか行くかなって思ってた」
「なんで」
「黒峰くんと動くならそっちかなって」
さらっと言うな。
教室の空気が、また薄くざわめいた。
担任すら一瞬だけ咳払いをした。
凛がことねをじっと見る。
「夢咲さん、そういうの今ここで言う?」
「え、だって思ったから……」
「思っても、口に出していいことと悪いことがある」
「朝霧さん、それ自分が言われたら一番嫌なやつじゃない?」
「嫌だよ」
「認めるんだ……」
凛は肩をすくめた。
「でも私は、会計とか備品のほうが向いてる。準備班って、結局“やる気ある人が何となく集まって何となく頑張る”になりがちだから」
「うわ、めっちゃ分かる」
ことねが真顔になる。
「そうそう。文化祭準備ってそうなりやすいんだよね。誰が何やってるか曖昧なまま、ノリで進んで、最後だけ修羅場になるやつ」
「だから、私はそっちの修羅場を減らす役のほうがいい」
その言い方が、いかにも凛だった。
現実的で、でも、ちゃんとクラス全体を見ている。
ただ冷たいわけではなく、“全体が回るために必要な位置”へ自分を置く感覚がある。
そのとき、恒一はようやく少しだけ気づいた。
ことねは、人を呼ぶ方向で近づく。
凛は、全体を回しながら必要な場所へ立つ方向で近づく。
同じ文化祭でも、その入り方が全然違う。
◇
「黒峰、お前は?」
担任が聞く。
「準備班か、会計側の補助か、そのへんだろうけど」
全員の視線が集まる。
「……準備班、ですかね」
恒一がそう答えると、教室のあちこちで「あー」という反応が起きた。納得の声だろう。男子が少なく、力仕事もありそうで、目立たないようでいて中心にも入りやすい。準備班はたしかに無難だ。
だが、無難なだけに危ない。
「やっぱそこだよね」
ことねが小声で言う。
「でしょ」
「でしょ、じゃないんだよなあ……」
ことねはメモ用紙へ何か書きながら、少しだけ唇を尖らせる。
その表情を見て、恒一が聞く。
「何だよ」
「いや」
「いや、じゃ分からん」
「だってさ」
ことねは少しだけ声を落とす。
「準備班って、一番“何となく一緒に動く”が発生しそうじゃん」
それは、ものすごく嫌な意味で正しかった。
黒板の前で担任が、他の生徒の希望も聞きながらざっくり振り分けをしていく。
その中で、広報・呼び込みにことね。
会計・備品に凛。
準備班に黒峰。
もうこれだけで、どのタイミングで誰と何をやるかの予感が立ち始めている。
朱莉がそこで、静かに手を挙げた。
「装飾、入っていいですか」
担任が少し驚いた顔をした。
「火乃森が装飾?」
「だめですか?」
「いや、だめじゃないけど、準備とか広報行くかと思ってた」
「そこまで器用じゃないので」
その答えが朱莉らしくて、少しだけ笑いが起こる。
ことねが振り返る。
「火乃森さん、装飾なんだ」
「うん」
「なんかちょっと意外かも」
「そう?」
「いや、もっと“全体見る側”かなって思ってた」
朱莉は少しだけ考えてから答えた。
「全体見るより、“目に見える形で残るもの”のほうがまだ性に合ってる」
その言い方が、妙に朱莉らしかった。
隠すより、ちゃんと見える形。
名前のない優しさが少し嫌いだと言った彼女にとって、装飾という“見える仕事”はたしかに似合うのかもしれない。
しおんは最後まで少し悩んでいたが、担任に聞かれて静かに答えた。
「展示寄りの手伝いならできます」
「じゃあ装飾寄りで入ってくれ」
しおんが小さく頷く。
ことねが思わず言う。
「待って、それって火乃森さんと雪代さん同じ班?」
「そうなるね」
朱莉が答える。
「なんか……すごい静かなのに、圧ありそう」
「夢咲さん、その感想どうなの」
凛が言う。
「でもちょっと分かるじゃん!」
たしかに、絵面を想像するとちょっと強い。
◇
ホームルームが終わったあと、前方に残った数人で軽く話し合いが始まった。
ことねは広報の候補を元気よく拾い、凛は必要な備品メモを整理し、朱莉としおんは装飾の方向性を静かに話している。
その様子を見ながら、恒一は少し不思議な気持ちになっていた。
匿名の焼き菓子も、メモも、まだ何も答えは出ていない。
なのに、文化祭という別の流れの中で、またそれぞれの“らしさ”が新しく見えてくる。
ことねは、人前へ出ることを怖がらない。
凛は、全体を壊さないように裏から締める。
朱莉は、見えるものをちゃんと作りたい。
しおんは、静かなまま必要な場所へ入る。
そして自分は、その全部を少しずつ見てしまっている。
「ねえ」
ことねが急に声をかけてきた。
「ん?」
「これさ、絶対あとで買い出しとか発生するよね」
「するだろうな」
「で、その時に誰と誰が行くかでまた空気変わるよね」
「やめろ」
「いや、でも絶対そうじゃん!」
「やめろって」
凛がその会話へ入る。
「だから今のうちに、なるべく役割ベースで割ったほうがいいって言ってる」
「朝霧さん、その“なるべく役割ベースで”って便利だね」
「便利じゃない。必要」
「でも、役割で割っても結局誰かと組むことになるよ?」
ことねが言うと、凛は少しだけ黙った。
その沈黙が、逆に本音だった。
「……なる」
「なるよね」
「でも、その時に曖昧にしないほうがまし」
「うわー、現実的……」
ことねが顔をしかめる。
「でも、その現実的なとこ助かるんだよなあ」
恒一がぽつりと言うと、凛がこちらを見る。
「何それ」
「いや、本音」
「そういうの、いきなり言わないで」
「なんでだよ」
「……調子狂うから」
その小さな声は、ぎりぎりでことねにも聞こえたらしい。
「え、今のちょっとよくない?」
ことねがにやっとする。
「夢咲さん」
「ごめん、でも今のは拾うでしょ!」
教室の空気に、小さな笑いが混ざる。
その笑いの中で、黒峰恒一はなんとなく理解していた。
文化祭の相談なのに、まだ何も決まっていない。
企画も確定していない。
役割もざっくりだ。
買い出しも、準備日程も、何ひとつ具体化していない。
なのに、この“まだ何も決まっていない状態”こそが、いちばん危ない。
曖昧なままの距離。
曖昧なままの期待。
曖昧なままの役割。
そこへ今の自分たちが入ると、何でも意味を持ってしまう。
文化祭準備は、やっぱり面倒だ。
でも、その面倒くささの中で、また新しい何かが動き始めていることも、もう見えてしまっていた。




