第50話 文化祭の相談なのに、まだ何も決まらないのがいちばん危ない
放課後の教室は、昼間より少しだけ本音が出やすい。
窓の外では、春の夕方が校舎の壁をやわらかく染めている。部活へ向かう声は廊下の向こうへ流れ、教室の中に残っているのは、帰り支度をしながら雑談する生徒と、文化祭のことをまだ諦めきれない何人かだけだった。
前のほうの席を寄せて、黒峰恒一、夢咲ことね、朝霧凛の三人は簡単な打ち合わせを始めていた。
担任から渡されたメモ用紙が一枚。
書かれているのは、
文化祭企画候補を三つほど
必要な準備の見通し
次回のクラス話し合いで出すたたき台
たったそれだけだ。
たったそれだけなのに、恒一はもう少し疲れていた。
「で、どうする?」
ことねがシャーペンを指でくるくる回しながら言う。
「さっきも言ったけど、うちのクラスって女子多いし、映えるやつ強いと思うんだよね」
「その“映える”の中身が問題」
凛が即座に返す。
「見た目だけで決めると、準備で死ぬ」
「死ぬってほど!?」
「死ぬよ。装飾系は地味に時間もお金も飛ぶし、写真映えだけ狙って内容スカスカだと当日も持たない」
「うっ……」
ことねが言葉に詰まる。
その反応を見て、恒一は思わず苦笑した。
「今の、わりと図星だったんだな」
「だってかわいいやつやりたいじゃん!」
「夢咲さんはそこから入るよね」
「入るよ! 文化祭なんて一年に一回だよ!? 地味に終わるの嫌じゃない?」
「地味と堅実は違う」
凛が淡々と言う。
「あと、かわいいと回るは別」
「朝霧さん、たまに言い方が店長なんだよな」
「事実しか言ってない」
ことねは不満そうに頬を膨らませて、それから恒一を見る。
「黒峰くんは?」
「何が」
「どっち寄り?」
「どっち寄りって言われてもな……」
恒一はメモ用紙を見た。
文化祭。
クラス企画。
映え。
準備。
買い出し。
放課後残り。
その単語を並べるだけで、すでに面倒な未来が見える。
「正直、楽そうなのがいい」
「うわ、男子の本音」
ことねが即座に言う。
「いや、でも黒峰くんのその気持ち、めっちゃ分かる」
「分かるならそんな目で見るなよ」
「だって、その“楽そうなのがいい”ってたぶん全員思ってるもん。でも言いにくいだけで」
ことねはシャーペンを机へ置いて、少し前のめりになった。
「だからこそ、最初にちゃんと“何が楽で何がしんどいか”を整理したいの」
その言い方に、凛がわずかに眉を上げた。
「夢咲さん、今ちょっとまともだった」
「ちょっとって何!?」
「いや、かなり」
「最初からかなりまともだよ!?」
「勢いが先なだけで」
「だからその言い方!」
三人の間に小さな笑いが生まれる。
その空気のまま、ことねはメモ用紙へいくつか丸を書いた。
「じゃあ、いったん候補を出そう。まず飲食系」
「飲食は準備と衛生管理が重い」
凛がすぐに言う。
「でも売上は強い」
「そこは強いよね」
ことねがうなずく。
「次、展示系」
「準備期間長い」
「でも当日は比較的回る」
「あと、女子多いクラスだと可愛くしやすい」
「そこ結局捨てないんだ」
「捨てないよ!」
ことねは胸を張った。
「うちのクラスの強み、たぶんそこだもん」
恒一は、そのやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力が抜けているのを感じていた。
文化祭の準備は面倒だ。
でも、ことねが空気を回し、凛が現実を切り分けていくこの感じは、思っていたより悪くない。
「じゃあ中間で、体験系とか?」
恒一が言う。
二人が同時にこちらを見る。
「体験系?」
「うん。展示だけだと弱いけど、飲食ほど重くなくて、参加型にするやつ」
「……たとえば?」
ことねが聞く。
「簡単なゲームとか、診断っぽいやつとか」
そう言った瞬間、ことねの目が少し光った。
「あ、それちょっといいかも」
「でしょ」
「待って、黒峰くん今、普通にちゃんとアイデア出した」
「なんだその言い方」
「いや、もっと“楽なのがいい”の一点張りかと思ってたから!」
「楽なのがいいのは本音だけど、どうせやるなら回るほうがいいだろ」
「今の、ちょっとかっこよかった」
「夢咲さん、そこでいちいち口に出すのやめて」
凛がすぐに刺す。
「え、なんで!? よかったらよかったって言うじゃん!」
「言う必要ない時もある」
「朝霧さんって、ほんとそこで変に照れ隠し入るよね」
「入ってない」
「入ってる」
「入ってない」
その短いやり取りに、恒一は少し笑ってしまった。
凛がそちらを見る。
「何」
「いや、お前ら、もう少し普通に会話できないのかって」
「黒峰くんにだけは言われたくないんだけど」
ことねが即答する。
「なんでだよ」
「だって黒峰くん、最近“普通”って言いながら一番普通から遠いところ歩いてるし」
言い返せなかった。
匿名の焼き菓子。
差し入れの価値観会議。
学食の代替肉ハンバーグ。
図書室での本音。
幼馴染の宣言。
生活導線後輩の観察。
欠点フェチ美術少女の視線。
たしかに、どこが普通だと言われると困る。
「……否定しないんだ」
ことねが苦笑した。
「否定できないからな」
「それもそうか」
少しだけ、空気がやわらぐ。
◇
「ねえ」
しばらくして、ことねが急に声のトーンを落とした。
「ん?」
恒一が顔を上げると、ことねはメモ用紙へ視線を落としたまま言った。
「文化祭ってさ、準備期間のほうが実は危なくない?」
「危ないって何が」
「距離感」
その単語が出た瞬間、凛が無言になった。
さっきまでさらさらと書いていたメモの手も止まる。
「……やっぱりそこ気にするんだ」
凛が言う。
「そりゃするでしょ」
ことねは即答した。
「だって、放課後残るとか、買い出し行くとか、教室に二人だけになるとか、絶対増えるよ?」
「増えるね」
「朝霧さん、そこで平然と肯定しないでよ」
「でも事実だし」
その返しがあまりにも凛らしい。
ことねは恒一を見た。
「黒峰くんも少しは気にしてるでしょ」
「少しどころじゃない」
「だよね!」
ことねは安心したような、困ったような顔をした。
「いやもう、ほんとにさ……匿名メモで頭いっぱいの時に文化祭って、タイミング最悪じゃない?」
「それは本当にそう」
恒一が頷くと、凛も珍しく素直にうなずいた。
「うん。それはそう思う」
「朝霧さんも?」
「私も」
凛は少しだけ視線を逸らした。
「今の状態で“誰とどこまで一緒に動くか”が増えるの、かなり面倒」
「だよねえ……」
ことねが机へ突っ伏しそうになる。
「しかも絶対、クラスの子たち見てるし」
「見てるね」
「朝霧さん、ほんとに容赦ないな」
「夢咲さんが言わせてる」
そこへ、少し遅れて朱莉が来た。
「まだやってたんだ」
「やってるよ」
ことねが顔を上げる。
「火乃森さんも入る?」
「少しだけ」
朱莉は前の席に軽く手をついた。
「何の話?」
「文化祭準備って距離感壊れやすいよねって話」
ことねが言うと、朱莉は一拍置いてから頷いた。
「壊れやすいね」
「即答だ」
「だってそうでしょ」
朱莉は自然に続けた。
「放課後の残り方一つでも見られるし、買い出しの組み方でも意味つくし、“一緒にやってる時間”が長いだけで勝手に空気できる」
「もうやめて、言語化しないで」
ことねが本気で言う。
「でも火乃森さんのそれ、かなり正確」
凛が静かに言った。
「嫌なほどね」
恒一も同意した。
朱莉は少しだけ目を細める。
「でしょ。だから、変に曖昧に動かないほうがいい」
「曖昧に?」
「うん。なんとなく二人で行く、とか。なんとなく一緒に残る、とか。そういうのが一番あとで面倒」
その言葉は、匿名メモの件とも少し重なった。
曖昧なまま残るものは、きれいでもあるが、面倒も増やす。
「……火乃森さん、そこは名前のない優しさ嫌い派って感じ出るね」
ことねが苦笑混じりに言う。
「出てる?」
「出てる」
「でも、間違ってないでしょ」
「間違ってないのが困るの!」
ことねは本気で悩ましそうだった。
「ねえ、もうさ、文化祭の買い出しとか完全にルール決めたほうがよくない? 誰と誰で行くとか、最初に」
「それはありかも」
凛がメモを取りながら言う。
「曖昧にすると、あとで全部面倒になる」
「二人とも、なんでそんなに現実的なんだよ」
恒一が言うと、ことねがじとっと見てきた。
「黒峰くんが一番そういう現実に巻き込まれる立場だからだよ」
「それ言われると弱い」
「弱いでしょ」
「弱いな」
観念して言うと、ことねがちょっとだけ笑った。
◇
ひと通り企画の候補をメモし終えたころには、教室の人もだいぶ減っていた。
夕方の光はさらに深くなり、机の影が長く伸びている。
「じゃあ、次はこれをクラスに出す感じかな」
ことねがメモ用紙を見ながら言う。
「展示系、体験系、軽食系の三方向で」
「軽食系は衛生面の確認必須」
凛がすぐに補足する。
「うんうん、そういうのは朝霧さん担当で」
「勝手に役割決めないで」
「でも向いてるし」
「否定はしないけど」
「しないんだ」
ことねが嬉しそうに笑う。
その横顔を見て、恒一は少しだけ思った。
匿名のメモのことはまだ片づいていない。
でも、こうやって別の話をして、別の課題を前にして、三人で普通に考えている時間もある。
その“普通に考えている時間”の中にさえ、少しずつ距離が混ざってくるのが厄介なのだが。
「黒峰くん」
ことねが呼ぶ。
「ん?」
「今、ちょっとだけ顔やわらいだ」
「そうか?」
「うん」
「それはたぶん、文化祭の話で匿名メモのこと忘れてたからじゃない?」
凛が言う。
「朝霧さん、そこですぐ戻すのやめて」
「でも本当だし」
「本当でも!」
ことねが抗議して、三人で少し笑う。
その笑いのあと、ふと凛が小さく言った。
「でも、たぶんこういうのなんだろうね」
「何が?」
恒一が聞くと、凛は少しだけメモへ目を落とした。
「一つのことだけで頭いっぱいになってても、別のイベントは勝手に始まるってこと」
その言葉は、やけに現実的だった。
匿名の差し入れも、メモも、まだ終わっていない。
答えも出ていない。
でも文化祭の準備は始まる。
そこでまた新しい距離ができる。
人は待ってくれないし、イベントも気持ちの整理が終わるまで待ってくれたりしない。
「……ほんと、それだな」
恒一が静かに言うと、ことねが少しだけ真面目な顔になる。
「だから、余計にちゃんとしないとなんだよね」
「何を」
「距離感」
その一言は、軽くなかった。
「曖昧にしすぎるとぐちゃぐちゃになるし、気にしなさすぎても傷つくし」
「夢咲さんにしては、今日はずいぶん本質寄りだね」
「なにその言い方!」
「でも合ってる」
凛がそう言うと、ことねは少しだけ照れたように視線を外した。
黒峰恒一は、そのやり取りを見ながら思う。
文化祭準備は、まだ始まったばかりだ。
企画も決まっていない。
買い出しも、係分けも、放課後作業もまだこれから。
なのに、距離感だけはもう先に壊れ始めている。
そしてたぶん、それはもう止まらない。




