第49話 文化祭準備は、まだ始まってないのに距離感だけ先に壊れる
月曜の昼休みが終わったあとも、黒峰恒一の頭のどこかには、あの短い一文が残り続けていた。
甘すぎないものを選びました。
たったそれだけだ。
たったそれだけなのに、焼き菓子だけが置かれていた時より、ずっと厄介だった。
焼き菓子はまだ“匿名の差し入れ”だった。
だがメモがついたことで、それはもう、誰かが自分に向けて考えて選んだものだと、はっきり分かってしまった。
考えすぎるな。
急いで答えを出すな。
そう思っても、気になるものは気になる。
五時間目の授業中ですら、ノートを取る手が一瞬止まりかけた。教師の声は聞こえている。黒板の内容も追えている。けれど、その合間合間で、ふっとメモの文字が浮かぶ。
甘すぎない。
選びました。
その“選びました”の部分が、妙に残る。
誰かが選んだ。
自分に向けて。
それを匿名のまま置いていった。
嫌ではない。
でも、簡単に嬉しいとも言い切れない。
その中途半端さが、最近の自分らしいと言えば、自分らしかった。
そんなふうに気持ちが少し浮ついたまま、六時間目の終わりを迎える。
終礼のチャイムが鳴る。
担任が教室へ入ってきた瞬間、いつもより少しだけ空気がざわついた。
ああ、これ、たぶん別件で何かある。
そう思った予感は、すぐに当たった。
「えー、来月の文化祭について、今日から少しずつ話を進める」
来た。
教室のあちこちで、ぱっと表情が変わる。楽しそうに顔を見合わせる女子、めんどくさそうに机へ突っ伏しそうになる生徒、もう企画を考え始めているらしい数人。
そして黒峰恒一は、その言葉を聞いた瞬間に、また別の種類の嫌な予感を覚えていた。
文化祭。
クラス企画。
係決め。
買い出し。
準備。
放課後作業。
つまり、距離が壊れやすいイベントの集合体である。
「……終わった」
思わず小さく呟くと、すぐ横からことねが反応した。
「まだ始まってもないのに!?」
「いや、もう見えるだろ。絶対やばいって」
「それは、まあ……うん、ちょっと分かるけど」
ことねは言いながらも、目は少しだけきらきらしていた。
文化祭という単語にわくわくしているのと、ここからまた距離感が壊れそうな予感に半分頭を抱えているのと、その両方が顔に出ている。
通路側では凛が小さく息を吐いた。
「買い出しとか、放課後残りとか、だいぶ面倒そう」
「朝霧さん、そこ即座にそこ行くんだ」
「行くでしょ。今の状況で文化祭って、どう考えても距離詰まるイベントだし」
「やめてよ、それを最初に言うの」
ことねが本気で嫌そうな声を出す。
窓際から朱莉が、静かに、でもはっきり言った。
「でも、凛の言ってることは正しいよね」
「火乃森さんまで」
「だって正しいし」
そこへ担任の声が重なる。
「まず、文化祭実行委員を男女一名ずつ決める。それから企画の方向性をざっくり出す。今日はそこまででいい」
その瞬間、教室の空気がまた一段階変わった。
男子一名。
星ヶ峰学園の男子の少なさを考えれば、もう候補なんてほぼ決まっているようなものだ。
嫌な予感しかしない。
「黒峰くんだよね、たぶん」
ことねがぼそっと言う。
「やめろ」
「いやでも、そうじゃない?」
「やめろって」
「だって男子少ないし、変に逃げようとすると逆に押されそうだし」
ことねのその読みは、残念ながらかなり当たっていた。
担任が教室を見渡す。
「男子は……」
間。
そして当然のように。
「黒峰、できるか?」
「なんで当然みたいに来るんですか」
教室に笑いが起こる。
担任まで少し笑っている。
最悪だ。
「人数的に頼みやすいのと、お前わりとちゃんとやるから」
それは褒められているのか、便利に使われているのか分からない。
でも断りづらいのは確かだった。
「……まあ、やりますけど」
そう答えた瞬間、教室の空気が軽く弾む。
嫌な予感しかしない。
そして、次に担任が言った。
「じゃあ女子は、やりたい人いるか?」
数秒の沈黙。
ここで誰が手を挙げるか。
それだけで、もう新しい火種になる。
ことねが、わずかに体を揺らす。
凛が、ほんの少しだけ眉を動かす。
朱莉は表情を変えない。
しおんは静かに前を見ている。
手が挙がった。
「はい」
夢咲ことねだった。
教室のあちこちで「おお」と小さく声が漏れる。
ことねは少しだけ照れた顔をしながら、でもまっすぐに前を見ていた。
「夢咲か。ほかにいるか?」
担任が聞く。
もう一人、手が挙がる。
「はい」
朝霧凛。
「うわ」
今度はことねが本音で声を漏らした。
凛はちらっとことねを見る。
「なに」
「いや、なにじゃないでしょ!」
「別に、私がやっちゃだめってことないでしょ」
「そういう意味じゃないけど、でも今このタイミングで!?」
担任が苦笑しながら言う。
「じゃあ二人だな。どっちかに絞ってくれ」
教室の空気が、ものすごく面倒な温度になる。
ことねが口を開く。
「え、いや、私……」
凛も言う。
「別に、夢咲さんがやりたいなら――」
「いやその言い方だと私が譲らせたみたいになるじゃん!」
「そういうつもりじゃない」
「でも聞こえ方ってあるでしょ!」
「夢咲さんが最初に“今このタイミングで”とか言うからでしょ」
会話が早い。
そして、思っていたより両方とも引かない。
担任が困ったように頭をかいた。
「……じゃあ、二人とも実行委員補佐でいいか?」
教室の空気が一瞬止まる。
補佐。
つまり、黒峰+ことね+凛の三人体制。
「うわ」
今度は恒一が言った。
担任が見る。
「何だ、その反応」
「いや、ちょっと、だいぶ面倒そうだなって」
また笑いが起きる。
でもそれは、教室全体がうすうす同じことを思っていたからだろう。
ことねが小声で言う。
「黒峰くん、今それ言っちゃうのひどくない?」
「本音だよ」
「私も少し思ったけど!」
ことねも本音を言った。
凛がそこでようやく小さく笑う。
「思ってるじゃん」
「だって朝霧さんいると、絶対ちゃんとしなきゃ感強いし!」
「何それ」
「そのままの意味だよ!」
担任はその三人を見て、半分呆れ、半分安心したような顔をした。
「まあ、黒峰、夢咲、朝霧で進めてくれ。どうせこのクラス、まとめる役と回す役と現実見る役が必要だし」
その分類が妙に正しかったのが悔しい。
◇
終礼後、教室には文化祭の話題が一気に広がった。
模擬店がいいだの、展示がいいだの、映えるやつがいいだの、予算がどうだの。女子の多い教室だけあって、意見の数もテンションも高い。
その中心に、さっそくことねと凛がいた。
「で、どうするの?」
ことねが机を寄せながら言う。
「何を?」
「だから、文化祭の実行委員補佐でしょ!」
「もうそこからかよ」
「そこからだよ! こういうの、最初に方向性決めないと絶対あとでぐちゃぐちゃになるし」
「夢咲さんがそういう時だけ妙にまともなの、ちょっと面白い」
凛が言う。
「なにその言い方!」
「普段もまともだけど、勢いが先だから」
「朝霧さんは言い方がいちいち棘あるんだよなあ……」
「事実しか言ってない」
そのやり取りを聞きながら、恒一は机に肘をついた。
「なあ」
「なに?」
ことねが振り向く。
「なんで俺まで当然みたいに真ん中いるんだよ」
「そりゃ男子枠だからでしょ」
「あと、ちゃんとやるから」
凛が補足する。
「二人とも言い方が便利な人材扱いなんだよ」
「だって便利じゃん」
ことねが悪びれずに言う。
「否定できないのが余計に嫌だな」
そこへ、朱莉が静かに近づいてきた。
「文化祭、始まる前から面倒そうだね」
「面倒だよ」
恒一が即答すると、朱莉は少しだけ笑った。
「でも、こういうのって結局、誰が一緒に動くかで空気変わるよね」
「火乃森さん、その言い方やめて。今ちょうど気づかないふりしようとしてたとこだから」
ことねが真顔で言う。
「無理でしょ」
朱莉はあっさり返す。
「買い出し行く人、放課後残る人、衣装とか道具どうするか、全部“誰と動くか”の話になるんだし」
その言葉が、ものすごく現実的だった。
そうだ。
文化祭は、ただ楽しいイベントではない。
誰と何を準備するか。
誰とどこへ買い出しに行くか。
誰とどこまで遅く残るか。
そういう“距離の発生装置”だ。
「……やっぱ終わってるな」
恒一が本音を漏らすと、ことねが笑う。
「まだ始まってないって」
「始まる前から終わってる」
「その言い回し、ちょっと好きかも」
「変なとこで感心するな」
しおんも静かに近づいてきた。
「文化祭、たぶん忙しい」
「雪代、それはもう全員知ってる」
「うん。でも」
しおんは少しだけ目を細めた。
「忙しい時のほうが、普段見えないの出るから」
それは、しおんらしい怖い言い方だった。
「やめてよ、今の時点でそれ言うの」
ことねが半分本気で言う。
「ただでさえ匿名メモで揺れてるのに、次は文化祭で距離感壊れるとか、情報量多すぎるでしょ」
「壊れるかはまだ分からない」
凛が言う。
「でも、近くはなる」
「朝霧さん、そういう精密な現実見せるのやめて!」
「でも本当だし」
そこへ、いろはがいつの間にか後ろの席へ座っていた。
「文化祭って、かなりいいよね」
「何が」
恒一が聞く。
「作業してる途中の顔、いっぱい見れる」
「お前は本当にぶれないな」
「ぶれないよ」
いろはは平然としている。
「疲れてるのに、ちゃんとしようとしてる顔とか、言い返したいのに飲み込んでる顔とか、かなり出るし」
「鳴瀬さん、その視点で文化祭見ないでくれる?」
ことねが言う。
「見ちゃう」
「やめて!」
教室に小さな笑いが起きた。
◇
その日の放課後、結局、三人で最初の打ち合わせをする流れになった。
教室の前方。
日直用の簡単なメモ用紙。
そして黒峰、ことね、凛。
「で、とりあえず企画どうするの」
凛が言う。
「候補いくつか出すしかなくない?」
ことねが答える。
「うちは女子多いし、写真映えするやつがいいって意見は絶対出ると思うんだよね」
「でも予算と準備の手間考えないと詰む」
「朝霧さん、現実!」
「現実担当なので」
「それ担任にも言われてたね……」
そのやり取りを聞きながら、恒一は半分気が遠くなっていた。
文化祭準備。
匿名のメモ。
差し入れの続き。
それに加えて、これから“誰と動くか”の話まで乗ってくる。
「黒峰くん」
ことねが呼ぶ。
「ん?」
「今、だいぶ嫌そうな顔してる」
「してるだろ」
「してるね」
凛が珍しく素直に同意する。
「でも、やるしかないでしょ」
「分かってるよ」
恒一はため息をつく。
「分かってるけど、タイミングが悪いんだよな」
「匿名メモの件と重なってるから?」
ことねが聞く。
「それもあるし、今の状態で文化祭って、余計に周りが見てきそうだし」
「たしかに」
ことねは苦笑する。
「“誰が一緒に準備してるか”とか、絶対また言われる」
「だから最初に役割をちゃんと分けるしかない」
凛がメモ用紙へ目を落としながら言った。
「なるべく曖昧にしない。そうしないと余計に面倒になる」
その現実的な切り方が、今の恒一には少しありがたかった。
「朝霧さんってさ」
ことねがぽつりと言う。
「こういう時ほんと助かるよね」
「何急に」
「いや、だって私だけだとたぶん勢いで“とりあえずかわいいやつ!”って言って終わるし」
「それはある」
恒一が言うと、ことねが不満そうに見る。
「黒峰くんもひどい」
「でも事実だろ」
「まあ事実だけど……」
凛は少しだけ視線を逸らした。
「夢咲さんが回してくれるのも助かるよ。私は空気作るの苦手だし」
ことねが目を丸くする。
「え、朝霧さんがそんなこと言うの珍しくない?」
「珍しくない。言う必要ないだけ」
「いや今のはちょっと嬉しいかも」
ことねは素直にそう言って、少し笑った。
その笑顔を見ながら、恒一はふと思う。
匿名の差し入れはまだ答えが出ていない。
でも日常は待ってくれない。
新しいイベントは新しいイベントで、勝手に始まってしまう。
そしてその中で、また別の距離ができていく。
文化祭準備は、まだ始まってないのに距離感だけ先に壊れ始めていた。
そしてたぶん、その壊れ方は、これからもっと本格的になる。




