第48話 “甘すぎないものを選びました”――名前のない一言は、前よりもっと危ない
月曜の朝、黒峰恒一は机の中から出てきた小さな折りたたみメモを、すぐには開けられなかった。
教室の中はまだ朝の立ち上がりの途中だった。窓際から入る光が、机の列を白く照らしている。鞄を置く音、椅子を引く音、眠そうにあくびを噛み殺す声。どこにでもある、ただの朝の教室だ。
それなのに、自分の席のまわりだけが妙に静かに感じる。
机の中。
そこへ入れられていた、小さな白いメモ。
差出人不明の焼き菓子だけでも十分面倒だったのに、今度は“言葉”までついた。
紙はきれいに二つ折り。雑ではない。
でも、やりすぎるほど整ってもいない。
その中途半端な丁寧さが、余計に落ち着かない。
「……何だよ、これ」
小さく呟いた瞬間。
「黒峰くん?」
いつものように、いや、こういう時ほど絶妙なタイミングで、夢咲ことねがやってきた。
鞄を肩にかけたまま、ことねはまだ完全に席にも着いていない。なのにこちらの空気の違いだけはすぐに拾う。
「何それ」
言いながら、彼女の視線はすぐに恒一の手元へ落ちた。
「……メモ?」
「たぶん」
「たぶんって、今見つけたの?」
「今、机の中に入ってた」
その一言で、ことねの顔から朝の眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「え、待って。焼き菓子の続き!?」
「たぶんそうだろ」
「うわ、うわ、うわ……」
ことねはその場で小さく足踏みした。
完全に混乱している時のことねだ。
「これ、前より危ない!」
「第一声それかよ」
「だってそうじゃん!」
ことねはすぐに身を乗り出す。
「お菓子だけならまだ“匿名の差し入れ”だったじゃん? でも今度メモついたんだよ? それって、前より一段深くなってるってことじゃん!」
正論すぎて反論しづらい。
「まだ中身見てない」
「見てないの!?」
「見てないよ」
「なんで!」
「いや、開く前にお前来たからだよ!」
そのやり取りのあいだに、通路側から低い声が飛んだ。
「朝からうるさい」
朝霧凛だった。
今日も頬杖をついたまま、でもちゃんとこちらを見ている。
眠そうな顔をしているくせに、こういう時だけ反応が速い。
「朝霧さん、これ見て!」
ことねが半ば悲鳴みたいに言う。
「見てる」
「メモ!」
「見れば分かる」
「最近その返し多くない!?」
ことねが抗議するが、凛は流した。
「で、まだ開いてないの?」
「開いてない」
恒一が答えると、凛は少しだけ眉を寄せた。
「それはそれで黒峰らしいね」
「何だよその言い方」
「怖いなら怖いでさっさと開けばいいのに、ちゃんと構えるとこ」
「それ褒めてる?」
「半分」
また半分だ。
そこへ、窓際から静かな声が落ちた。
「開く前の音、今ちょっと固い」
しおんだ。
雪代しおんは相変わらず大きな動きをせず、自席からこちらを見ていた。
でも、その視線だけで十分にこの場へ参加している。
「固いって、何が」
ことねが聞く。
「黒峰くん」
しおんは短く答える。
「ちょっと身構えてる」
「そりゃそうだろ」
恒一が苦笑すると、しおんは小さくうなずいた。
「うん。前より、少しだけ」
前より。
それはたぶん、焼き菓子だけの時より、メモという“言葉”が加わったぶんの重さなのだろう。
朱莉もその頃には席へ着いていて、鞄を机へ置きながらこちらを見ていた。
「……で」
火乃森朱莉は静かに言う。
「開くの?」
教室の空気が少しだけ止まる。
開くか。
今ここで。
みんなの前で。
躊躇はあった。
だが、ここまで見られていて今さら一人で隠れて読むのも違う気がした。
「……開く」
そう言うと、ことねが「うわあ……」と小さく息を呑み、凛は頬杖をやめた。しおんの視線が静かに寄る。朱莉は何も言わないが、目だけは逸らさない。
恒一は、二つ折りの紙をゆっくり開いた。
白い紙。
短い一文。
文字は癖が強すぎない。丸すぎもしない。整ってはいるが、練習された綺麗さというより、普段から丁寧に書く人の字だ。
そこに書かれていたのは――
『甘すぎないものを選びました』
その一文だけだった。
短い。
でも短いからこそ、前回の焼き菓子と明らかにつながっている。
ことねが最初に反応した。
「うわ、前より危ない!」
「だからそれしか言わないのかよ」
「だって危ないよこれ!」
ことねは両手で頭を押さえる。
「“甘すぎないものを選びました”って、もう完全に“あなたのことを少し見てます”って意味じゃん! いや、少しどころじゃないかもしれないけど!」
凛が低く言う。
「少なくとも、“焼き菓子をただ置いただけ”よりは見てる」
「朝霧さんまでそういう言い方する……」
「だってそうでしょ」
凛はメモをじっと見ながら続けた。
「甘いものなら何でもよかったわけじゃないってことだし、“甘すぎるのは選ばなかった”ってわざわざ書くのは、黒峰がそういうの苦手じゃないけど、重すぎる甘さは避けたほうがいいって読んでるってこと」
「……いや、確かにそうだけど」
恒一はメモから目を離せなかった。
甘すぎないもの。
選びました。
“置きました”でもない。
“食べてください”でもない。
“選びました”。
その言葉には、決めた人の意志がある。
自分に向けて、考えて、選んだという事実が、短い一文だけで分かってしまう。
「これさ」
朱莉が静かに口を開いた。
「前より、だいぶ見てるよね」
ことねがすぐに頷く。
「だよね!?」
「うん」
朱莉は短く言った。
「前の焼き菓子だけなら、“とりあえず無難なやつを置きました”もありえた。でも、今の一文がつくと、“ちゃんと考えて選んだ”になる」
その冷静な整理が、逆に刺さる。
しおんが静かにメモを見ていた。
そしてぽつりと言った。
「前より、言葉が少し近い」
「近い?」
ことねが聞き返す。
「うん」
しおんはうなずく。
「“甘すぎないものを選びました”って、説明してるみたいで、でも言い訳にも近い」
「言い訳?」
今度は恒一が聞いた。
しおんは少し考えるようにしてから言う。
「“重くしすぎてないです”って、言ってる感じ」
その解釈は、妙にしっくり来た。
たしかにこのメモは、好意を強く押し出しているわけではない。
でも、ただの事務連絡でもない。
選びました。
あなたのことを少し考えて、重くならないようにしました。
そういう距離感がにじんでいる。
「……やだ」
ことねが小さく言う。
「こういうの、分かるようになると余計しんどい」
「分かる」
朱莉も珍しく即答した。
「しかも、これ、前より明らかに一歩踏み込んでるのが嫌」
「嫌っていうか、もう普通に気になる」
ことねは顔をしかめる。
「だってさ、ここまで書くってことは、黒峰くんが“甘すぎるものが得意じゃないかも”とか、“軽い甘さのほうが受け取りやすいかも”とか、そういうの見てるってことだよ?」
「うん」
凛が短く答える。
「だから、相手はだいぶ見てる」
その一言が、妙に重かった。
◇
そのとき、後ろの扉から小さな声がした。
「……何かありましたか」
小鳥遊ましろだった。
別クラスから来たらしい彼女は、空気の密度だけで異変を察したような顔をしている。
「ましろちゃん!」
ことねが振り向く。
「メモ!」
「メモ?」
ましろが近づく。
ことねが半ば説明を急ぐみたいに言った。
「机の中に入ってたの! 前の焼き菓子の続きっぽいやつ!」
ましろは目を瞬いてから、そっとメモを見た。
そして数秒だけ黙る。
「……前より、かなり見てますね」
やっぱりそこへ行きつくのか。
「小鳥遊さんもそう思う?」
朱莉が聞くと、ましろは頷いた。
「はい。“甘すぎないもの”って、先輩がどういうものなら受け取りやすいか考えてます」
「受け取りやすい、か」
恒一が小さく繰り返す。
ましろは少しだけ目を伏せた。
「しかも、“好きそうだから選んだ”より、“困らないものを選んだ”に近いです」
ことねが呻いた。
「そこまで分かるの……?」
「言葉の置き方がそうです」
ましろの分析は相変わらず生活感がある。
気持ちそのものより、“相手がどう受け取るか”に注目する見方だ。
「じゃあさ」
ことねが聞く。
「これ、どういう人っぽい?」
ましろは考える。
しおんも凛も朱莉も、それぞれ違う角度でその答えを待っていた。
「……自分の気持ちを強く出したい人ではないと思います」
ましろがゆっくり言う。
「でも、受け取ってもらえたかどうかは気になる人です」
その答えは、かなり具体的なようでいて、まだ多くを含んでいた。
押しつけたくない。
でも、届いたかは気になる。
強く出たくない。
でも、まったく何も残さないのも嫌。
そういう人。
「前より危ないね」
ことねがまた言う。
「さっきからそれしか言ってないよ、夢咲さん」
凛が呆れたように言う。
「でもほんとに危ないんだもん!」
ことねは少し身を乗り出した。
「だって、これって“私はちゃんと考えて選びました”っていう証拠じゃん! しかも、“甘すぎない”ってわざわざ言うの、黒峰くんがどう受け取るかまで気にしてるからでしょ?」
「そうだと思う」
凛が頷く。
「ただの匿名差し入れより、だいぶ重い」
「重くしないようにしてるのに、結果として前より重くなってるの、だいぶ不器用だよね」
朱莉が言う。
その言い方には棘はなかった。
むしろ少しだけ、分かってしまう側の複雑さが混ざっていた。
しおんはメモを見ながら、ぽつりと言う。
「でも、前より本音に近い気もする」
「本音?」
恒一が聞くと、しおんは静かに答えた。
「前は、置いただけ。今は少しだけ、“どうしてそれを選んだか”まで言ってるから」
たしかにそうだ。
前回の焼き菓子だけでは、善意か好意か、ただの気遣いか、その輪郭は曖昧だった。
でも今回は、“甘すぎないものを選びました”という一文がある。
自分の判断。
自分の気遣い。
自分が見ていたポイント。
それが、短い言葉の中へ入っている。
「……これ、どうすればいいんだろうな」
恒一が思わず漏らすと、ことねがすぐに反応した。
「それ! ほんとそれ!」
「答えになってない」
「だって私も分かんないし!」
ことねは頭を抱えたまま言う。
「開けて食べるのも一つだけど、食べたら食べたで“受け取りました”になるし。かといって放置も変だし。先生に相談する感じでももうないし」
「たしかに、今さら先生に持っていく空気でもない」
朱莉が静かに言う。
「悪意じゃないのは、もうなんとなく分かってるし」
「でも、だからって軽くもないんだよな……」
恒一がそう言うと、凛が少しだけ視線を和らげた。
「黒峰、前よりちゃんと困ってるね」
「褒めてるのか、それ」
「半分」
「また半分かよ」
そのやり取りに、ことねが少し笑う。
教室の朝の光の中で、机の上のメモ一枚が、またしても空気を変えていた。
◇
その日、午前中のあいだじゅう、恒一の頭のどこかにはあの一文が残っていた。
甘すぎないものを選びました。
甘すぎない。
選びました。
たったそれだけだ。
たったそれだけなのに、前回の焼き菓子より、ずっと近い。
なぜなら、そこには“あなたを見て選んだ”という線が入っているからだ。
しかも、その線を太くしすぎないように、ぎりぎりで抑えている感じがある。
見てる。
でも見すぎてないふりもしたい。
渡したい。
でも重くしすぎたくはない。
その不器用さが、余計に残る。
◇
昼休み前、恒一はふと気づいた。
このメモのことは、もう“前の差し入れの続き”としてみんなの中で確定している。
そしてその見え方が、また一段階だけ変わった。
前は、匿名のやさしさ。
今は、匿名のやさしさに言葉がついたもの。
それはもう、単なる偶然の焼き菓子ではない。
誰かが、もう一歩だけ近づいた痕跡だ。
差出人不明のメモ一枚が、前よりもっと危ない。
それはきっと、ここにいる全員がもう分かっていた。




