第47話 差出人不明のやさしさは、答えを急がせるためにあるんじゃない
金曜の放課後、黒峰恒一は珍しく、誰にも呼び止められずに教室を出た。
もちろん、本当に“誰にも”ではない。
夢咲ことねは、下駄箱へ向かう途中で「今日、ちょっと元気なかったらちゃんと寝てね」と言った。あれはあれで、名前つきで、ことねらしい優しさだった。
朝霧凛は委員会へ向かう前に「机の中のやつのこと考えてご飯雑になるなら、来週も言うから」と相変わらず怒るみたいに言った。あれももう、凛なりの気遣いだと分かってしまっている。
火乃森朱莉は「月曜までそのまま持ってるなら、さすがにちょっと引く」と言いながら、最後に「でも捨てるのも違うよね」と小さく付け足した。結局この幼馴染は、言い方が不器用なだけで、ちゃんと見ている。
雪代しおんは、帰り際にただ一言だけ、「急いで決めなくていいと思う」と言った。声は静かだったくせに、その一言だけずっと胸の中へ残っている。
小鳥遊ましろは、自分のクラスへ戻る途中に「焼き菓子、まだ食べないなら、湿気だけ気をつけてください」と生活感のある忠告をして去っていった。
鳴瀬いろはは、「困ってる時間も今だけだから、ちゃんと困っといて」と意味の分からない、でも妙に残る台詞を置いていった。
毒島ひよりは昼休みに、「感想がまだ整理できてないなら、それも一つの途中です」と、やっぱり食べ物の話みたいな顔で、でも食べ物だけでは済まないことを言っていた。
つまり、自分は誰にも呼び止められていないわけではない。
ただ、今日は珍しく、放課後の“続き”がなかっただけだ。
図書室へ行く約束もない。
購買へ寄る流れもない。
学食の限定メニューに巻き込まれることもない。
モデルを頼まれることもないし、栄養バーを机へ置かれることもない。
駅へ向かう道を、一人で歩く。
春の夕方の空気は少しだけひんやりしていて、昼間のざわつきが引いたあとの静けさを持っていた。電線の向こうの空は薄い橙から青へ溶けていく途中で、帰宅する人たちの影が長く地面へ伸びている。
一人だ。
それを、少しだけ久しぶりだと思ってしまった自分に、恒一は苦笑した。
「……だいぶ慣らされてるな」
誰かが隣にいること。
誰かに見られていること。
誰かの言葉が頭の中へ残ること。
それが最近の自分の日常になりつつある。
そして、その“日常になりつつあるもの”の中で、今一番しつこく引っかかっているのが、鞄の中の小さな焼き菓子だった。
◇
駅前の横断歩道で信号待ちをしながら、恒一はふと鞄の持ち手を握り直した。
そこに、入っている。
薄茶色の小さな紙袋。
丁寧に折られた口。
丸いシール。
主張しすぎない甘さを選んだらしい焼き菓子。
名前はない。
メモもない。
返し先もない。
なのに、そこにはたしかに誰かの手の温度みたいなものだけが残っている。
「……なんで、まだ持ってるんだろうな」
口に出した瞬間、自分で分かってしまった。
捨てるほど嫌じゃない。
食べるほど簡単でもない。
もっと言えば、自分はたぶん、答えを急ぎたくないのだ。
誰が置いたのか。
どういうつもりなのか。
その人は何を考えて、どんな気持ちで、あの朝の教室へそれを置いたのか。
それをすぐ知ってしまったら、今ある“分からないまま揺れている感じ”は消える。
分からないことは面倒だ。
はっきりしないものは落ち着かない。
でも、だからといって、すぐ名前をつけたいわけでもない。
青信号へ変わり、人の流れと一緒に歩き出す。
ことねは言っていた。
匿名にはしたくない、と。
自分が渡したって、ちゃんと分かってほしい、と。
朱莉は言っていた。
名前のない優しさは少し嫌いだ、と。
優しくするなら、ちゃんと見える形でやりたい、と。
凛は言っていた。
匿名なんて向いてない、と。
ちゃんと届いてるか分からないやり方は性に合わない、と。
しおんは言っていた。
名前を出すと、今までの感じが変わることもある、と。
だから、まだ壊したくない距離なのかもしれない、と。
ましろは言っていた。
自分ならもっと分かりやすく置く、と。
先輩が困る置き方はしたくない、と。
いろはは言っていた。
名前がないほうが、受け取る側の顔が一番素直になる、と。
ひよりは言っていた。
食べ物を匿名で渡すのは、かなり信頼している相手か、外した時の責任を取りたくない人のどちらかだ、と。
みんな違う。
みんな、自分のやり方で何かを渡したがる。
みんな、自分のやり方で近づいてくる。
それをここ数日、嫌というほど見てきた。
だから今の自分は、“犯人は誰か”より先に、“もしこの子ならどう渡すか”を考えるようになっている。
その時点で、もうただの犯人探しではない。
◇
改札を抜けたあとも、恒一の足は少しゆっくりだった。
電車の窓に映った自分の顔を見る。
疲れているわけではない。
でも、落ち着いているとも言いきれない。
何かを考えている時の顔だ。
「……誰なんだろうな」
もう一度、そう思う。
でもその“誰”には、以前みたいな焦りがなかった。
分からない。
分からないままだ。
でも、分からないままでもいい気がしている。
もしこれが、誰かの本気の好意だったら。
もしこれが、恋愛とは少し違う気遣いだったら。
もしこれが、ただ“少し元気がなさそうだったから”みたいな素朴な優しさだったら。
どの可能性も、今の自分には切り捨てられない。
そして切り捨てたくない。
答えを急いでしまえば、楽になることはあるだろう。
でも、楽になることと、大事にすることは同じじゃない。
名前がないまま置かれたものを、すぐに“誰それの好意”“ただの気遣い”“たいした意味はない”と分類してしまうのは、どこか乱暴な気がした。
それはたぶん、自分がこの数週間で、いろんな“違う近さ”を見てしまったからだろう。
ことねの明るさには、ちゃんと熱がある。
朱莉の当然みたいな距離には、昔からの時間がある。
凛の怒り方には、不器用な優しさがある。
しおんの静かな視線には、言葉にしきれない揺れがある。
ましろの生活に合う動き方には、じわじわした近さがある。
いろはの“描きたい”には、感情ごと見抜くような熱がある。
ひよりの“食べてほしい”には、一緒に向き合いたいという気持ちがある。
どれも違う。
どれも雑に一つへまとめられない。
そうやって見てしまったから、匿名の焼き菓子もまた、簡単な一言で片づけたくなくなっている。
◇
家に着き、部屋へ入る。
制服の上着を椅子へ掛け、鞄を机の横へ置く。
部屋の中は静かだった。窓の外から、遠くの車の音が薄く聞こえるくらいだ。
恒一はしばらく立ったまま、鞄を見た。
やがて腰を下ろし、ゆっくりと中から紙袋を取り出す。
机の上へ置く。
夕方の薄い光の中では、学校の教室で見た時より少しだけ柔らかく見える。
主張はない。
なのに、目は離れない。
「……開けるか?」
問いかける。
当然、返事はない。
袋へ手を伸ばしかけて、止める。
いま開けてしまえば、少しだけ何かが進む気がする。
でも、その“進む”が、今ほしいものなのかは分からなかった。
しおんが言っていた。
急いで答えを出さなくていいと思う、と。
いろはが言っていた。
困ってる時間も、たぶん今のうちだけだから、と。
ひよりが言っていた。
感想がまだ整理できてないなら、それも一つの途中だ、と。
途中。
答えを出していない状態。
でも、何もないわけではない状態。
「……中途半端だな」
自分で笑ってしまう。
けれどその中途半端さこそが、今の自分の正直な場所なのだろう。
まだ選ばない。
まだ決めない。
でも、何も始まっていないわけではない。
その事実を、今週だけでどれだけ思い知らされたことか。
◇
夜になっても、紙袋は机の上に置いたままだった。
結局そのまま開けず、風呂に入り、夕飯を食べ、課題を少し片づける。
何度か視界の端に紙袋が入ったが、それでも今日は手をつけなかった。
無視しているわけではない。
ただ、今はまだそこへ踏み込まないだけだ。
そのまま眠る。
◇
翌朝。
いつものように家を出て、駅へ向かい、電車へ乗り、星ヶ峰学園の校門をくぐる。
教室へ入ると、朝の光は昨日より少しだけ明るかった。週末前の金曜とは違う、月曜の空気がある。まだ少し眠そうな声、週末の話題を交わす女子たち、鞄の置かれる音。
恒一はまた、無意識のうちに机の上を確認していた。
何もない。
「……よかった」
今朝も小さくそう思った瞬間だった。
椅子を引こうとして、ふと手が止まる。
机の中。
ほんの少しだけ、白いものが見えた。
「……ん?」
眉をひそめる。
机の中へ手を入れる。
教科書もノートもまだ入れていない、空に近い空間。その奥に、小さく折られた紙が一枚だけ入っていた。
メモだ。
息が止まりそうになる。
ただの紙切れではない。
明らかに誰かが意図して入れた、小さな折りたたみメモ。
昨日まではなかった。
今朝、誰かが入れたのか。
それとも金曜の帰りに?
分からない。
分からないまま、その白い紙だけが、机の中で静かに待っていた。
黒峰恒一は、しばらく指先でそれをつまんだまま動けなかった。




