第46話 差し入れの犯人は、案外どうでもよくなってきた
月曜の朝、黒峰恒一は自分でも少し驚くくらい自然な動作で、自分の机の上を確認していた。
教室へ入る。
窓の外の光を一瞬見る。
それから席へ向かう途中で、机の天板と引き出しの縁と、椅子の上までを軽く目で追う。
何もない。
「……よし」
小さく息をついて、恒一はようやく鞄を机へ置いた。
たぶん今の動きは、もう完全に習慣になりかけている。差出人不明の焼き菓子が置かれていた朝から、机の上に何か増えていないかを最初に確認する癖がついてしまったのだ。
やめたい。
できればやめたい。
でも、気になるものは気になる。
「黒峰くん」
すぐ横から声がして、恒一は顔を上げる。
夢咲ことねだった。今日も朝から明るい。明るいが、その明るさの中に、こちらの机を先に見た人間の顔が混ざっていた。
「今日もなかったね」
「見てたのかよ」
「いや、だって私も気になるし!」
ことねは悪びれずに笑って、それから少しだけ声を落とした。
「でもさ、最近思うんだけど」
「うん」
「“誰が置いたんだろう”ももちろん気になるんだけど、それより先に“誰ならどう置くんだろう”って考えるようになってない?」
図星だった。
恒一は少しだけ眉を上げる。
「……なってるかも」
「だよね?」
ことねは机の端へ軽く手をついた。
「私だったらちゃんと名前つけるし、火乃森さんなら普通に渡すだろうし、朝霧さんは栄養バーみたいに実用的なもの押しつけてきそうだし」
「押しつけてきそう、じゃなくて、実際押しつけられたけどな」
「それ!」
ことねが小さく笑う。
「で、ましろちゃんは絶対“困らない置き方”するし、鳴瀬さんはなんか感情までセットで観察してきそうだし、ひよりちゃんは食べ物の思想ごと語ってくるし」
「そこまで整理してるなら、もう犯人探しの会議じゃなくて、性格分析の会議だな」
「ほんとそれ」
ことねは頷いてから、少しだけ真面目な顔になった。
「なんかもう、“誰がやったのか”っていうより、“誰がどういうやり方をしたい人なのか”のほうが見えてきちゃってるんだよね」
まさに、その通りだった。
犯人はまだ分からない。
でも、ここ数日の会話だけで、それぞれの“渡し方”の輪郭はかなりはっきりしてきている。
ことねは、分かるように渡したい。
朱莉は、隠れずに渡したい。
凛は、必要なものを必要な時に届く形で渡したい。
しおんは、たぶん隠しきれない。
ましろは、相手が困らないように置きたい。
いろはは、受け取る時の顔ごと見たい。
ひよりは、味や相性や向き合い方まで含めて渡したい。
誰が犯人かは、まだ分からない。
でも、“誰ならどうするか”は見えすぎるくらい見えてしまっている。
「……面倒だな」
思わず漏らすと、ことねが苦笑した。
「うん。面倒。でも、ちょっとだけおもしろくもある」
「それ、本人の前で言うか?」
「ごめん。でも本音」
ことねのそういうところは、やっぱり嫌いになれない。
◇
昼休み。
弁当の時間になっても、差し入れの犯人当てが大きく盛り上がることはなかった。
少し前なら、誰かが口火を切っていたはずだ。
ことねが「で、今日も進展なし?」と聞き、凛が「ないでしょ」と返し、朱莉が「そもそも進展させる気あるの?」と静かに刺す。そういう流れになってもおかしくなかった。
だが、今日は少し違った。
「先輩」
最初に口を開いたのは、別クラスのくせに自然な顔で合流してきた小鳥遊ましろだった。
「昨日、ちゃんと寝ましたか」
「……第一声がそこなんだな」
「大事なので」
ましろはいつもの調子だ。
「目の下は昨日よりましです」
「観察結果の報告が朝礼みたいになってるぞ」
「でも、机の確認癖ついてますね」
「そこまで見てるのか」
「見てます」
即答。
ことねが横で肩を震わせた。
「もうさあ、ましろちゃんってほんとすごいよね。普通そこまで見てても、“あ、見てた”って顔しないじゃん」
「してませんけど」
「いや、してるんだって!」
ことねが笑いながら言うと、ましろは少しだけ首を傾げる。
そこへ、朝霧凛がパンの袋を開けながら口を挟んだ。
「でも、小鳥遊さんの言う通り、黒峰は最近、机を見る動きが一個増えてる」
「お前までか」
「分かりやすいんだからしょうがないでしょ」
凛はそれから、少しだけ真面目な声になった。
「ただ、前よりは変な引きずり方してない気がする」
「そうか?」
「うん」
凛はあっさり言う。
「前は“誰だろう”で止まってたけど、今は“誰ならこうするだろう”って方向にずれてる」
「それ、変化としていいのか悪いのか分からないな」
「少なくとも、頭の中で少し整理は進んでるってことじゃない?」
それは、たしかにそうかもしれなかった。
犯人が誰か、だけを考えていた時は、ただ答えが見えないだけだった。
でも今は、その答えに至るまでの“人の違い”ばかり見えている。
どういうタイミングで渡したいのか。
どういう形なら自分らしいのか。
何を重く感じて、何を大事にするのか。
答えそのものより、その周辺の輪郭が濃くなっている。
窓際の席から、朱莉が静かに言った。
「たぶん、そこまで来ると犯人って案外どうでもよくなるんだよね」
全員がそちらを見る。
朱莉は箸を止めて、少しだけ考えるように視線を下ろした。
「いや、どうでもいいっていうと変か。気にならないわけじゃないよ」
「うん」
ことねが促す。
「でも、もう“誰が置いたか”だけ聞かされても、それで全部すっきりする感じしないでしょ」
その言葉は、妙にしっくり来た。
もし今ここで、「犯人は誰々でした」と明かされたとしても、それで全部が終わるわけではない。
なぜ匿名にしたのか、どうしてこの菓子だったのか、自分はそれをどう受け取ったのか――そういうものは残る。
「火乃森さん、珍しくやわらかいこと言うね」
ことねが言うと、朱莉は少しだけ眉を寄せた。
「なにそれ」
「いや、もっと“犯人はっきりさせたい”派かなって思ってたから」
「気にはなるよ。でも」
朱莉は淡々と続ける。
「最近、みんなの“渡し方”のほうが見えすぎてるから、そっちのほうが引っかかる」
そこへ、雪代しおんが静かに言葉を重ねた。
「うん。私もそう思う」
しおんはいつも通り穏やかな顔のまま、けれどはっきりとこちらを見た。
「名前が分かっても、“どういう気持ちで、どういう距離で置いたか”は残るから」
「なんか今日、みんなだいぶ本質寄りじゃない?」
ことねが小さく言う。
「疲れるんだけど」
「でも、そのほうが黒峰くんは落ち着きそう」
しおんのその一言に、恒一は少しだけ言葉を失った。
落ち着く。
たしかに、自分は“犯人当てゲーム”みたいになるのが一番しんどかったのかもしれない。
誰だ、誰だと騒がれるより、誰がどういうふうに近づこうとする人なのかを静かに見ているほうが、まだ呼吸はしやすい。
◇
午後の授業を終え、放課後。
今日は珍しく、誰にもすぐには捕まらなかった。
ことねはクラスメイトに呼ばれて先に出て行った。
凛は委員会。
朱莉は教師に頼まれてプリント運び。
しおんは図書室。
ましろも今日は早めに下校らしい。
ひよりの姿は昼以降見ていない。
いろはだけは、見えていない時ほどどこかにいる気がするので油断ならないが。
教室に少しだけ静けさが戻る。
黒峰恒一は、鞄へ教科書を詰めながら、ふと手を止めた。
そのまま机に肘をつき、小さく息を吐く。
「……結局、俺なに考えてんだろうな」
誰もいないと思って漏らした言葉だった。
だが、教室の後ろ扉のほうで小さく音がした。
「珍しく独り言が長いね」
やっぱりいた。
鳴瀬いろはだった。
「お前、ほんとにタイミング悪いな」
「いいよ」
「いや悪い」
恒一がそう返すと、いろはは小さく笑いながら近づいてきた。
「でも、なんとなく分かる」
「何が」
「犯人のことより、誰がどういうふうに何かを渡すかのほうが気になってきてるんでしょ」
その言い方があまりにも自然で、恒一は苦笑するしかなかった。
「みんな見透かしすぎなんだよ」
「見透かしてるっていうか、出てる」
いろはは机の前で立ち止まり、首を少し傾げる。
「黒峰くん、今、犯人を知りたい顔じゃない」
「じゃあ何だよ」
「比べてる顔」
図星だった。
ことねなら、名前つきで渡す。
朱莉なら、隠れずに渡す。
凛なら、必要なものを押しつけるみたいに置く。
しおんなら、たぶん隠しきれない。
ましろなら、困らない位置とタイミングを選ぶ。
ひよりなら、味や相性まで含めて渡す。
その違いを、気づけば自分はかなり細かく見ていた。
「……比べてるって言われると、感じ悪いな」
「でもほんと」
いろはは悪びれない。
「犯人探しより、今はそっちのほうが絵になる」
「また絵かよ」
「うん。だって、答えがないまま、頭の中でみんなの渡し方だけ並んでるんでしょ?」
恒一は返事をしない。
でも、しないということが、たぶん答えだった。
「それって、もうかなり深いよ」
いろはがぽつりと言う。
「何が」
「ただの犯人探しじゃなくて、“その人がどういうふうに自分に近づきたがるか”まで見えてるってこと」
その言葉は、思っていた以上に胸へ残った。
そうなのだ。
差出人不明の焼き菓子ひとつから始まった話なのに、今の自分は“誰がやったか”より“誰ならどうやるか”ばかり考えている。
それはつまり、相手のやり方ごと気にしているということだ。
「……なんか、そこまで言われると少し怖いな」
「怖い?」
「誰がどうやって来るかまで見えてるって、もう普通の友達関係の考え方じゃないだろ」
いろはは少しだけ目を細める。
「普通じゃなくなってきてるんだと思う」
「さらっと言うなよ」
「でも本当でしょ」
そこで反論できない自分が、少し嫌だった。
◇
帰る前に、恒一は何気なく鞄の中へ手を入れた。
教科書を寄せる。筆箱をずらす。
その下で、紙袋の感触が指先に触れる。
出してみる。
薄茶色の、丁寧に折られた小さな袋。
朝と昼と放課後、何度も頭の中で話題になったのに、物として触れるのは久しぶりな気がした。
「まだ持ってる」
いろはが言う。
「持ってるな」
「捨ててない」
「捨ててない」
「食べてもない」
「食べてもない」
会話としては成立しているのか怪しい。
だが、言われてみると、たしかにそれがすべてだった。
まだ持っている。
まだ捨てていない。
まだ食べてもいない。
「……なんでだろうな」
恒一が小さく言う。
「食べるかどうか迷ってるのもあるけど、それだけじゃない気がする」
いろはは何も急かさず、少しだけ待っていた。
「たぶん」
恒一は紙袋を見つめたまま続ける。
「これ、捨てたら“なかったこと”にする感じがするんだよ」
口に出してから、自分で少し驚いた。
そうか。
それが引っかかっていたのかもしれない。
犯人が誰かは分からない。
匿名で、名前もなくて、返しようもなくて、困る。
でも、それでもたしかに“誰かが自分に向けて置いたもの”ではある。
それを何も分からないまま捨ててしまうのは、その気持ちごと雑に扱うみたいで嫌だったのだ。
「なるほど」
いろはが静かに言う。
「それ、かなりいい」
「もうちょっと別の褒め方覚えろ」
「でも本当にいい」
いろはは、珍しく茶化さずに続けた。
「黒峰くん、犯人が誰かより、気持ちを雑にしたくないんだね」
その言葉には、少しだけ救われた。
困っている。
迷っている。
でも、ただ怖がっているだけではない。
分からないままの何かを、乱暴に片づけたくないと思っている。
それはたぶん、ここまでのいろんな出来事の中で、自分が少しずつ変わってきた証拠でもあるのだろう。
「……そうかもな」
素直にそう答えると、いろはは少しだけ嬉しそうに笑った。
「うん。やっぱり今の黒峰くん、好き」
「ほんと、その言い方だけは変わんないな」
「変えないよ」
そう言って、いろははあっさり教室を出ていった。
残された教室の夕方の静けさの中で、恒一はしばらく紙袋を見ていた。
犯人はまだ分からない。
でも、もうそれだけを知りたいわけでもない。
誰がどういう形で何かを渡したがるのか。
自分はそれをどう受け取っているのか。
そして、どうしてまだこの紙袋を持っているのか。
そういうことのほうが、今はずっと気になっている。
差し入れの犯人は、案外どうでもよくなってきた。
その代わりに見えてきたもののほうが、たぶんずっと面倒で、ずっと大事なのだ。




