第44話 変人美術少女、包装紙ひとつで感情を語る
匿名の焼き菓子は、相変わらず黒峰恒一の鞄の中に入ったままだった。
食べてもいない。
捨ててもいない。
机の上に戻すこともしていない。
昼休みには、夢咲ことねが「流派って何!」と騒ぎ、朝霧凛が少し笑い、火乃森朱莉がほんのわずかに口元を緩め、小鳥遊ましろは真顔で「置き方には性格が出ます」と言い切った。雪代しおんは静かに頷いていたし、毒島ひよりまで混ざっていたら、たぶんまた別方向へ話が飛んでいただろう。
みんな、違う角度から見ている。
でもその全部が、じわじわ面倒だ。
五時間目、六時間目を終えて放課後になっても、恒一は何度も鞄の中の紙袋の存在を思い出していた。
どうして、まだ開けていないのか。
どうして、持ち帰ったままなのか。
どうして、たった一つの焼き菓子にここまで引っ張られているのか。
「……我ながら、だいぶ引きずるな」
教室で独りごちる。
終礼が終わったあとの教室は、いつものように少しずつ人が減っていく途中だった。部活へ向かう生徒、友達と帰る約束をしている生徒、まだ教科書を鞄へ詰めている生徒。窓から差し込む夕方の光が、机の天板を斜めに照らしている。
ことねは今日は友達に呼ばれて先に出ていった。
凛も委員会だとかで、早々に教室を離れた。
朱莉は日直の仕事で教師に呼ばれていた。
しおんは図書室へ寄るらしい。
ましろは別クラスだし、ひよりはたぶん購買か学食のどこかで、また見慣れないものを見つめている。
だから少しだけ、静かだった。
「黒峰くん」
と思った瞬間、静けさは破れた。
声のしたほうを見る。
鳴瀬いろはだった。
彼女は教室の後ろ扉のところに立っていた。今日も美術部帰りなのか、指先に少しだけ絵の具の色が残っている。長い髪は肩のあたりでゆるく揺れていて、その顔には、いつも通り少しだけ“何か面白いものを見つけた人”の表情が浮かんでいた。
「……いたのか」
「いたよ」
前にも聞いたようなやり取りだな、と恒一は思う。
「いろはって、ほんとに気配なく現れるよな」
「そう?」
「そう」
「黒峰くんが考えごとしてる時、前見てないだけかも」
それは否定しづらい。
いろはは教室の中へ入ってきて、恒一の机の横で立ち止まった。
それから、何も言わずに鞄のほうを見た。
「……何だよ」
「まだ持ってるんだ」
やっぱりそこか。
恒一は少しだけ肩を落とす。
「見れば分かる?」
「見れば分かる」
「最近ほんと、その台詞よく聞くな」
いろはは小さく笑った。
「みんな、黒峰くんのこと、思ってるよりちゃんと見てるから」
「それ、笑い事じゃないんだよな」
「でも本当」
いろはは机の横へ回り込み、勝手に隣の席へ座った。
座り方まで自然で、まるで最初からここで話す予定だったみたいだ。
「出して」
「何を」
「焼き菓子」
「なんで」
「包装、ちゃんと見たい」
そう来ると思った。
「お前、本当にそこなんだな」
「そこが大事だから」
「中身じゃなくて?」
「中身も大事。でも今日は包装」
いろはは真顔だった。
たぶんこの人の中では、これはれっきとした鑑賞対象なのだろう。
恒一は少し迷ってから、鞄の中へ手を入れた。紙袋を取り出す。薄茶色の小さな袋は、朝と変わらず静かな存在感を持っていた。
机の上に置く。
いろははすぐには触らなかった。
まず目で見た。
視線が、シールの位置、袋の折り返し、角の揃い方、机に置かれていた時についたであろうわずかな癖までなぞっていく。
その見方は、やっぱり普通じゃない。
「……何が分かるんだよ、こんなんで」
恒一が聞くと、いろはは少しだけ考えるようにしてから言った。
「きれいに見せたいより、丁寧に置きたい」
「それ、しおんもましろも似たこと言ってたな」
「うん。たぶん合ってる」
いろはは指先で紙袋の上の空間をなぞる。
触れそうで触れない距離。
本当に“見る”ほうを優先しているのが分かる。
「シール、真ん中じゃない」
「そうなのか?」
「少しだけずれてる。でも雑じゃない。貼る時に慌ててないけど、“完璧に見せよう”ともしてない」
「……そんな細かい差があるのか」
「あるよ」
いろはは当然のように答えた。
「完璧に整えたい人って、もっと対称にする。角もぴしっと揃える。でもこれは、揃えたいんじゃなくて“ちゃんと閉じたい”感じ」
その説明は、わかるようなわからないような、でも不思議と納得できる境界にあった。
「つまり?」
「“きれいな贈り物にしたい”より、“嫌な感じにしたくない”が強い」
恒一は黙る。
その言い方が、妙に胸へ残った。
たしかにあの紙袋には、派手さがなかった。
可愛く見せたいとか、印象づけたいとか、そういう方向ではない。
ただ、変に不快に見えないように、ちゃんと置いていった感じがある。
「……そこまで考えて置いたってことか」
「たぶんね」
「重いな」
「重い?」
「いや、悪い意味じゃなくて」
恒一は言葉を選ぶ。
「名前もないし、メモもないのに、そういうとこには気を使ってるんだなって思うと」
「うん」
「なんか、ちゃんと感情が乗ってる感じするだろ」
いろははそこでようやく、少しだけ目を細めた。
「そう。だからいい」
「いい、のか」
「うん」
いろはは肘を机につき、紙袋を見ながら続けた。
「名前がないと、受け取る側は中身だけじゃなくて、置き方とか、折り方とか、空気まで読むことになる」
「それは今、まさにやってるな……」
「でしょ」
彼女は楽しそうではある。
でも、前ほどただ面白がっているだけでもなかった。
少なくとも今は、ちゃんとこの紙袋の向こうにいる“誰か”の感情を見ようとしている感じがあった。
「包装って、意外と嘘つけないよ」
いろはがぽつりと言う。
「顔より?」
「顔も嘘つけない。でも、包装は“意識してるようで、意識しきれないところ”が出る」
「それ、また絶妙に嫌な言い方するな」
「好きだよ、そういうの」
「知ってる」
恒一がそう返すと、いろはは少しだけ笑った。
◇
少しして、恒一は聞いた。
「お前さ」
「うん」
「何でそんなに“匿名の優しさ”に興味あるんだ」
いろははすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向ける。校庭の向こう、夕方の光が薄く芝を照らしている。
「名前がある優しさって、完成してるから」
「完成?」
「うん。誰が、誰に、どういう気持ちで、って、線が引かれてる」
いろはは両手で空中に一本の線を描くみたいに動かした。
「でも、匿名だと、その線が引ききれない」
「だから面白いのか」
「面白いし、素直」
その言葉に、恒一は首を傾げた。
「素直って、名前ないのに?」
「名前がないから」
いろはは静かに言う。
「受け取る側が、一番そのままの顔する」
その理屈は、前にも少し聞いた。
でも今は、前よりずっとよく分かる。
ことねが名前つきでコラボ菓子を渡した時、自分は“ことねからだ”という前提で受け取った。だから、どこまで笑っていいか、どこまで照れていいか、自分の中である程度の整理ができた。
でも、この紙袋は違う。
誰のものか分からない。
だから、自分の戸惑いも、少しの嬉しさも、警戒も、全部そのまま出る。
「……で、いろはは、その顔を見てたわけか」
「見てた」
「最低だな」
「褒め言葉みたいに言わないで」
「いや、褒めてない」
「でもちょっと笑ってる」
「それは、お前があまりにもお前だからだよ」
そのやり取りに、いろはは少し肩を揺らした。
「昨日の昼、机の上の紙袋見てた時の黒峰くん」
「うん」
「かなりよかった」
「お前ほんとそればっかだな」
「ほんとだから」
いろはは少しだけ体を乗り出した。
「困ってるだけじゃなかった」
その言葉に、恒一は一瞬黙る。
「少し、期待してた」
「……見えてたのか」
「うん」
「何に期待してるように見えた」
「誰が置いたんだろう、もあるし」
いろはは指で机の上を軽く叩く。
「でも、それだけじゃなくて。“もしこれが、自分に向いたちゃんとした気持ちだったらどうしよう”って顔」
心臓が少しだけ跳ねた。
「お前、そういう言い方するなよ……」
「図星?」
「……半分」
「半分なら、かなり本当だね」
逃がしてくれない。
でも、いろはの見方は少し極端でも、まったく外れてはいない気がした。
差出人不明の焼き菓子を前にして、自分が困ったのは、ただ気持ち悪かったからじゃない。
そこに、ちゃんと向けられた何かがある気がしたからだ。
それを勝手に受け取っていいのか、違っていたらどうするのか、分からなかったから困った。
「……やっぱり、お前はそういうとこ見るんだな」
恒一がそう言うと、いろはは当たり前みたいに頷いた。
「そこが一番きれいだから」
「普通はもっと、笑顔とか言うんだよ」
「笑顔もきれいだよ」
「へえ」
「でも、揺れてる途中のほうが好き」
その言い方は、いろはの中でたぶんずっと変わらないのだろう。
◇
「で」
恒一が話を戻す。
「お前、結局この紙袋から何が見えたんだよ」
いろはは少しだけ考える顔をした。
「優しい」
「うん」
「でも、自信はそんなにない」
「うん」
「あと、たぶん綺麗に勝ちたい人じゃない」
その表現に、恒一は少し引っかかった。
「綺麗に勝ちたい?」
「うん。目立って、“これは私です”って取っていくタイプじゃない」
ことねとは違う、ということだろう。
ことねは、匿名にはしたくないと言った。自分が渡したと分かってほしいと。
「それで?」
「でも、黒峰くんに何か渡したい気持ちは、たぶん結構ある」
そこまで言い切るのか。
「……包装だけで?」
「包装と置き方と、あと今の黒峰くん」
「俺?」
「うん」
いろはははっきり言った。
「それ聞いて、嫌そうじゃないから」
その指摘はずるかった。
嫌なら、もっと簡単だったろう。
机の上からどけて、先生に相談して、なかったことにしてしまえばよかった。
でも実際の自分は、そうしなかった。
鞄に入れて持ち帰り、まだ食べていないのに、捨ててもいない。
「……お前、人の逃げ道ほんと塞ぐな」
「塞いでないよ」
「塞いでる」
「でも、見えたこと言ってるだけ」
それが一番厄介なんだ。
◇
しばらくして、いろははふと紙袋から目を離し、恒一の顔を見た。
「今もいい」
「何が」
「匿名の優しさに困ってる黒峰くん」
またそれか。
恒一が呆れたように息を吐くと、いろはは少しだけ笑った。
「かなり好き」
「……そういう言い方、ほんとやめろ」
「本当なんだけど」
「分かるけど、分かるから困るんだよ」
「困ってる」
「今な」
「うん。それがいい」
会話が噛み合っているのか怪しい。
でも、いろはと話していると時々こうなる。
普通の会話のようでいて、どこかずれていて、そのずれ方が妙に気持ち悪くて、でも少しだけ癖になる。
「黒峰くん」
「ん?」
「これ、すぐ答え出さなくていいと思う」
「……急にまともなこと言うな」
「失礼」
いろはは口元を少し緩める。
「でもほんと。開けるのも、食べるのも、犯人探すのも」
そして、少し間を置いてから続けた。
「困ってる時間も、たぶん今のうちだけだから」
その言葉は、思いがけず静かに胸へ落ちた。
たしかにそうだ。
この紙袋に困る時間は、今しかない。
誰が置いたか分かれば、意味は変わる。
食べてしまえば、また少し変わる。
今の“分からないまま、でもちゃんと気になっている”という状態は、今この瞬間にしかない。
「……それ、いいことなのか悪いことなのか分かんねえな」
「分からなくていいんじゃない」
いろはは立ち上がりながら言った。
「分からない顔、今かなりいいし」
「最後までそれかよ」
「うん」
そう言って、いろはは教室の後ろ扉へ向かう。
出る直前に、一度だけ振り返った。
「また描かせてね」
「その話、まだ生きてるのか」
「もちろん」
「即答だな」
「だって、まだ全然描き足りないから」
それだけ言い残して、いろはは行ってしまった。
教室に一人残されて、恒一は机の上の紙袋を見つめる。
包装紙ひとつで感情を語る。
変人美術少女は、やっぱりどこまでも変だった。
でも、その変さの中にある“見えてしまったもの”まで、簡単に否定することはできなかった。




