第43話 生活導線ヒロインは、匿名の置き方から性格を読む
匿名の焼き菓子騒動が起きてから、黒峰恒一は朝、自分の机へ向かう瞬間だけ妙に緊張するようになっていた。
教室へ入る。
窓から差す朝の光。
まだ半分ほどしか埋まっていない席。
鞄を置く音、眠そうなあくび、女子たちの小さな笑い声。
それ自体は、いつもの星ヶ峰の朝だ。
だが、そのいつもの朝の中に、
「今日も何か置かれていたらどうしよう」
という、どう考えても普通ではない警戒心が混ざってしまっている。
机の上は空だった。
少なくとも今日のところは、新しい紙袋もメモもない。
「……よかった」
思わず声に出る。
「何が?」
すぐ横から声がして、恒一は少し肩を揺らした。
小鳥遊ましろだった。
小柄で控えめ、柔らかい雰囲気の後輩。けれど、その実態は“先輩の生活導線と微妙な体調変化をかなりの精度で拾う子”である。今日も朝から自然すぎる位置で近くにいた。
「いや、何も増えてなくて」
「差し入れの続き、ですか」
「そう」
ましろは机の上へ視線を落とし、それから少しだけ考える顔をした。
「今日はないですね」
「いや、見れば分かるけど」
「“今日は”ないです」
その言い方が、妙に引っかかる。
「今日は、って何だよ」
「昨日と同じ人が、同じタイミングで置けるとは限らないので」
朝一番から理詰めだ。
しかもわりと筋が通っている。
「……お前、やっぱりそのへん気にしてるんだな」
「気になります」
ましろは素直にうなずいた。
「先輩の机に、誰かが何か置いたので」
「言い方がちょっと物騒なんだよな」
「物騒ではないです。たぶん」
「“たぶん”がつく時点で怖い」
ましろはほんの少しだけ笑った。
その笑い方は小さいのに、妙に落ち着く。
◇
一時間目と二時間目のあいだの休み時間、結局その話は再燃した。
夢咲ことねが登校して早々、「今日は何もなかった?」と確認しに来たからだ。
そして朝霧凛が「夢咲さん、それ毎朝やるの?」と呆れ、朱莉が「でも気になるのは分かる」と静かに加わり、しおんは何も言わないまま一歩引いた位置で聞いていた。
もはやこの空気自体が日常へ入り込み始めている。
「で、今日も新しいのはなかったんだよね?」
ことねが机へ両手をつきながら聞く。
「なかった」
「そっか……」
「ちょっと残念そうなの何なんだよ」
「いや、残念っていうか! 何もないならないで安心なんだけど、でもさ、ああいうのって一回で終わるのかなって気になるじゃん」
「気持ちは分かる」
凛が珍しくあっさり言った。
「一回きりなのか、続くのかで意味変わるし」
「朝霧さん、そのへん冷静に言うのやめて怖いから」
「別に怖くないでしょ」
「怖いよ!」
ことねが反論し、凛が小さく息を吐く。
朱莉は机の横に立ったまま、何か考えている顔をしていた。
「でも、昨日のしおん先輩の話」
朱莉がぽつりと言う。
「“どう受け取ったかのほうが大事”ってやつ」
しおんがそちらを見る。
ことねも凛も、自然と少し静かになる。
「……あれ、ちょっと分かる」
朱莉はそう続けた。
「犯人探ししても、結局こっちは想像しかできないし。でも、恒一が困ってるのか、嬉しいのか、食べる気があるのか、そういうほうは見えるし」
「朱莉がそれ言うの、ちょっと意外かも」
ことねが言う。
「もっと“誰が置いたのかはっきりさせたい”派かと思ってた」
「それはそれで気になるよ」
朱莉は正直に言った。
「でも、気になったからってすぐ答え出るわけでもないし」
その返しに、恒一は少しだけ助かる。
この話題は、誰かが強く“犯人探し”へ振ると、一気に息苦しくなるからだ。
ましろはその流れを静かに聞いていたが、やがて小さく口を開いた。
「私は、置き方のほうが気になります」
全員が彼女を見る。
「やっぱりそこなんだ」
ことねが半分感心したように言う。
「はい」
ましろはうなずいた。
「差し入れ自体より、どう置いたかのほうが、その人の性格が出るので」
それは、いかにも小鳥遊ましろらしい視点だった。
◇
「性格って、そんなに出る?」
ことねが聞く。
ましろは少しだけ机の上の空間へ視線を置いた。
実際にはもう紙袋はないのに、そこへ“あの位置”を思い描いているのが分かる。
「出ます」
その言い方は静かだが、かなり確信がある。
「たとえば、あれが机の真ん中に置かれてたら、“絶対見つけてほしい”が強いです」
「うん」
「でも実際は、少し右に寄ってました」
ましろは指で空中に小さく位置を示した。
「先輩、朝来たらまず左に鞄置いて、右で椅子を引くので」
「そこまでセットで把握してるのかよ」
「見てるので」
ことねが思わず笑う。
「もうその返し、だいぶ万能だよね」
「ほんとですし」
ましろは悪びれない。
「だから、あの位置だと“すぐ見つけてほしいけど、驚かせすぎたくない”です」
「……なるほど」
凛が腕を組みながら聞いている。
「しかも、袋の折り方も雑じゃなかったです」
ましろは続ける。
「開けにくいほど丁寧じゃなくて、でも急いだ感じもない。だから、“受け取ってもらえたらいい”が強いです」
「“食べてほしい”より?」
恒一が聞く。
「はい」
ましろはすぐにうなずいた。
「“これをどうしても食べてほしい”なら、もっと分かりやすい商品や、メモをつけると思います」
「じゃあ、あれは?」
ことねが身を乗り出す。
「“受け取ってもらえたら、それで少し安心”みたいな感じだと思います」
その分析は、妙に胸へ残った。
たしかに、あの紙袋は“絶対食べてください”という圧ではなかった。
ただそこに、そっと置かれていた。
見つけてもらえたら十分、という感じで。
「それ、ちょっと切ないね」
ことねが小さく言う。
「切ないですか?」
「うん。だって、名前も書けないし、“食べてね”も言えないけど、それでも置きたかったってことでしょ?」
ましろは少しだけ考えてから答えた。
「そうかもしれません」
「うわぁ……」
ことねがまた頭を抱える。
「こういうの、分かっちゃうと余計しんどいな……」
凛がぼそっと言う。
「夢咲さん、そういうとこほんと感情移入早いね」
「だってするでしょ、普通!」
「まあ、少しは」
凛のその認め方が控えめすぎて、ことねが「少しなんだ」と不満そうな顔をする。
しおんは静かに聞いていたが、やがて小さく言った。
「小鳥遊さんのそれ、たぶん合ってる」
ましろがしおんを見る。
「そうですか?」
「うん。置き方に、変に押しつける感じがなかったから」
「しおん先輩もそう思いますか」
「思う」
静かなやり取りだが、妙に説得力がある。
しおんは人の“音”や“流れ”を見る。
ましろは生活の動線を見る。
見ている方向は少し違うのに、着地点が似ているのが面白かった。
◇
昼休みのあと、廊下で恒一はましろに呼び止められた。
「先輩」
「ん?」
「少しだけ」
階段横の、人の流れから半歩外れた場所。
ましろはそこで立ち止まり、小さく息を整えるようにしてから言った。
「さっき、みんなの前で言わなかったことがあって」
「なんだよ、急に」
「もし、私が先輩の机に何か置くなら」
その言葉に、恒一は思わず姿勢を正した。
ましろは少しだけ視線を伏せた。
いつもよりほんの少しだけ、言葉を選んでいる。
「もっと分かりやすく置きます」
「……分かりやすく?」
「はい」
ましろはうなずいた。
「先輩が朝来てすぐ気づく位置に置きますし、たぶんメモもつけます」
「メモつけるのか」
「つけます」
即答だった。
「だって、置いたのに気づかれなかったら意味ないですし」
「それはそうだけど」
「あと、先輩が“これは食べていいやつかな”って迷うのも、たぶん嫌なので」
その言い方が、ひどくまっすぐだった。
匿名の焼き菓子で、自分がどれだけ悩んでいるか。
ましろはたぶん、それをずっと見ていたのだろう。
「私なら、困らせるやり方はしたくないです」
その一言は、小さくて、でも強かった。
ましろらしい、生活に近い優しさだ。
相手の反応まで含めて考える。
渡したあとの迷いまで、なるべく減らしたいと思っている。
「……なんか、お前ほんとに」
恒一は言葉を探す。
「何ですか?」
「先回りするよな」
ましろは少しだけ笑った。
「先輩が困る流れ、だいたい見えるので」
「それ、褒めていいのか分かんない」
「でも、助かる時もありますよね」
図星だった。
体調が少し崩れた時のスポーツドリンク。
昼の食欲の落ち方。
歩幅の変化。
そして今回の、“匿名差し入れに困る”流れまで。
ましろはずっと、少し先にある先輩の反応を読んで動いている。
「……ある」
正直にそう答えると、ましろは少しだけ目をやわらげた。
「なら、よかったです」
「でもさ」
「はい」
「お前がそういうの分かりやすくやったら、それはそれで別の意味で目立つだろ」
すると、ましろは少しだけ首を傾げた。
「先輩に届くなら、少しは仕方ないです」
「少しで済むかなあ」
「たぶん、済まないかもしれません」
その返しが妙に落ち着いていて、恒一は思わず笑ってしまった。
「開き直るな」
「開き直ってはないです」
ましろは本気でそう言ったあと、少しだけ声を落とした。
「ただ、私は、先輩に渡すなら“分からないまま”にはしたくないです」
その言葉は、あの匿名の焼き菓子への、ましろなりの明確な立場だった。
ことねは名前つきで渡したいと言った。
朱莉は名前のない優しさが少し嫌いだと言った。
凛は匿名より、ちゃんと届く形で渡したいと言った。
しおんは、たぶん隠しきれないと言った。
ましろは、“困らせるやり方はしたくない”と言う。
それぞれ違う。
でもその違いが、最近の自分にはやけにくっきり見えるようになっていた。
◇
教室へ戻る途中、恒一は少しだけ考え込んでいた。
誰が置いたか。
それはまだ分からない。
けれど、誰がどういうふうに“何かを渡したがるか”は、もうかなり見えてきている。
ことねは分かるように。
朱莉は隠さず。
凛は実用的に。
しおんはたぶん隠せず。
ましろは困らせないように。
いろはは感情が見える形で。
ひよりは食の相性込みで。
その違いを意識し始めた時点で、もう差出人探しそのものより、ずっと深いところへ踏み込んでいるのかもしれない。
教室の扉を開けると、ことねがすぐにこちらへ気づいた。
「お、戻った」
「うん」
「ましろちゃんと何話してたの?」
早い。
ほんとうに早い。
ましろは少しだけ困ったように瞬いて、それから素直に言った。
「置き方の話です」
「置き方?」
「はい。私ならもっと分かりやすく置くって」
ことねが一瞬固まり、それからゆっくり顔を覆った。
「……もうやだこの学校、みんな差し入れの流派がある」
凛が小さく吹き出す。
「流派はちょっと面白い」
「面白くないよ!」
ことねが言い返すと、朱莉もほんの少しだけ口元を緩めた。
教室の午後の光の中で、小さな笑いが生まれる。
犯人はまだ分からない。
でも、その“分からなさ”を囲んで交わされる会話の中で、ヒロインたちの輪郭だけはますますはっきりしていく。
生活導線ヒロインは、匿名の置き方から性格を読む。
そして、その読み方そのものがまた、黒峰恒一にとっては十分すぎるほど特別だった。




