第42話 静かな子は、犯人より“どう受け取ったか”を見る
金曜の昼休みが終わりかけたころ、黒峰恒一はようやく弁当箱を閉じた。
朝霧凛に栄養バーを机へ叩きつけるみたいに置かれ、「差し入れのことで頭いっぱいでご飯雑になるほうがダサい」と真正面から言われたあと、さすがに食べないわけにもいかなかったのだ。
おかげで頭は少し軽くなった。
だが、机の中にしまったままの差出人不明の焼き菓子のことは、相変わらず頭の片隅に引っかかっている。
誰が置いたのか。
どういうつもりなのか。
食べるべきか。
返せない優しさを、受け取っていいのか。
考えたところで答えは出ない。
出ないのに、思考だけは何度も同じ場所へ戻る。
「……ちょっと空気吸ってくるか」
小さく呟いて席を立つ。
昼休みの終わりが近い教室は、行きのざわめきより少し落ち着いていた。弁当箱を片づける音、教科書を出す音、まだ続いている小さな会話。平和な、よくある昼休みの終盤。
なのに、自分の頭の中だけがまだ差し入れ一つで落ち着かない。
廊下へ出る。
窓の外は春らしく明るく、グラウンドでは体育の授業らしい声が遠く響いていた。特別教室棟へ続く渡り廊下は人が少なく、昼休みの終わりにはちょうどいい静けさがある。
その静けさの中ほどで、ふと足を止めた。
手洗い場の近く、窓際に一人で立っている影があった。
雪代しおん。
長い黒髪を背へ流し、窓の外を見ている。姿勢はいつも通りまっすぐで、派手なことは何一つしていないのに、なぜかそこだけ空気が少し薄く感じる。
恒一が近づくと、しおんは振り返った。
「黒峰くん」
「……いたのか」
「いたよ」
その返しが、妙にしおんらしい。
いるものはいる。
見ていたものは見ていた。
余計な飾りがない。
「昼休み、教室うるさかった?」
恒一が聞くと、しおんは少しだけ考えた。
「うるさいっていうより、みんな少し疲れてた」
「それはそうだな」
「黒峰くんも」
「俺もか」
「うん」
しおんは窓枠へ軽く指先を置いた。
「でも、朝よりは少し楽そう」
「朝霧に怒られたからな」
そう言うと、しおんの口元がほんの少しだけやわらいだ。
「見てた」
「見てたのかよ」
「うん」
「最近みんな見てるな……」
「見えるから」
それをこの子に言われると、単なる視線の話ではなく、“状態を拾ってる”の意味に聞こえるから不思議だ。
少しだけ沈黙が落ちる。
廊下の向こうで、どこかのクラスの女子が笑う声がして、すぐに遠ざかった。
しおんが静かにこちらを見た。
「焼き菓子のこと、まだ気にしてる?」
いきなり核心だった。
「……分かる?」
「分かる」
「何で」
「さっき、みんなと話してる時も、完全にはそこから離れてなかったから」
そう言われると否定できない。
凛に栄養バーを押しつけられて弁当を食べ始めても、差し入れのことが消えたわけではなかった。
ただ、少し薄くなっただけだ。
「犯人、気になる?」
しおんが聞く。
「気になるよ」
「誰だろうって?」
「それもあるし……」
恒一は少しだけ言葉を探した。
「誰っていうより、何なんだろうなって」
「何」
「好意なのか、気遣いなのか、その中間なのか」
しおんは黙って聞いている。
急かさない。
でも、流しもしない。
「あと、食べていいのかも分かんない」
「うん」
「名前もないし、返せないし」
「うん」
「善意っぽいから雑にもできないし」
そこまで言うと、しおんは小さく息を吐いた。
「黒峰くん」
「ん?」
「困ってるだけじゃなくて、少しうれしかったでしょ」
息が止まりかけた。
その問いではない。
問いの形はしているのに、ほとんど言い当てに近い。
「……何でそうなる」
かろうじて返すと、しおんは首を少し傾けた。
「顔」
「最近みんなそれ言うな」
「でも、ほんと」
しおんの“ほんと”はいつも静かだ。
静かなのに、逃げ道だけはない。
「困ってる時の顔と、困ってるけど少しだけうれしい時の顔、違う」
「そこ見分けるのやめてくれないか」
「無理かも」
あっさりしている。
冗談ではなく、本当に無理なのだろう。
「朝、机の上の袋見た時」
しおんは窓の外を見ながら続けた。
「黒峰くん、最初はびっくりしてた。そのあと、困ってた。でも少しだけ、柔らかかった」
「柔らかかった?」
「うん」
しおんはまたこちらを見る。
「嫌なものを見た顔ではなかった」
その言葉が、妙に深く刺さった。
たしかにそうだ。
もしあれが悪意のあるものなら、もっと単純に嫌だったろう。
気持ち悪い、怖い、迷惑だ――そういう感情だけで済んだはずだ。
でも、あの紙袋には丁寧さがあった。
押しつけがましくない置き方も、包装の折り方も、わずかな甘い匂いも。
だから困った。
そして困ったぶんだけ、少しうれしかった。
「……否定できないな」
観念してそう言うと、しおんはわずかに目を細めた。
「うん」
「そんなにあっさり認められると、それはそれで困る」
「でも、本当だから」
また“本当”だ。
しおんは本当に、言い方に逃げがない。
「犯人が誰かより」
しおんが静かに言う。
「黒峰くんがどう受け取ったかのほうが、大事かも」
恒一は少し驚いてそちらを見た。
「犯人より?」
「うん」
「何で」
「誰が置いたかは、まだ分からない。でも、受け取った側の気持ちは、もう出てるから」
その考え方は、たぶんしおんならではだった。
ことねなら、“誰が置いたのか”を気にする。
朱莉なら、“匿名にする意味”を考える。
凛なら、“どう扱うのが一番ましか”を整理する。
ましろなら、“いつどうやって置いたか”を読む。
いろはなら、“困ってる顔”を見る。
ひよりなら、“食べ物を渡す距離の深さ”を考える。
しおんだけが、“それを受け取って、あなたがどう揺れたか”を見る。
「……雪代って、たまにすごいとこ見るよな」
思わずそう言うと、しおんはほんの少しだけ考えてから答えた。
「黒峰くんが、そこに音出してるから」
「また音か」
「うん」
「便利だな、それ」
「便利じゃないよ」
珍しく、しおんは少しだけ困ったように笑った。
「分かっちゃうだけ」
その言い方に、なぜか恒一は少しだけ黙ってしまった。
分かってしまう。
見抜こうとしているのではなく、見えてしまう。
写真の視線の時もそうだった。
しおんは隠すのが上手そうに見えて、案外そうでもないのかもしれない。
「名前がない優しさって」
しおんは声を落とした。
「名乗れない距離、っていうより、まだ壊したくない距離なのかもしれない」
以前も似たことを言っていた。
でも今は、その意味が前より少しだけはっきり聞こえる。
「壊したくない距離」
「うん」
「どういう」
しおんは窓の外へ目をやる。
「名前を出してしまうと、今までと同じ温度でいられなくなることもあるから」
その一言には、妙な重みがあった。
それは差し入れの犯人に向けた言葉でありながら、同時にしおん自身のどこかにも触れている気がした。
恒一は少しだけ慎重に聞く。
「雪代は、そういうの分かるのか」
しおんはすぐには答えなかった。
数秒だけ静かにして、それから小さくうなずいた。
「少し」
「少し、か」
「うん」
そこで終わるかと思った。
だが、しおんは珍しく、自分から続きを口にした。
「私なら」
その言葉で、恒一は思わず息を止める。
「たぶん、隠しきれない」
静かだった。
けれど、やけにはっきり聞こえた。
「……何を」
分かっているくせに、聞いてしまう。
しおんは視線を伏せて、少しだけ考えるようにしてから答えた。
「もし、何か渡したいと思っても」
その声は穏やかだ。
でも、穏やかなぶんだけ逃げ場がない。
「匿名にして置く、とかは、たぶんできない」
「なんで」
「顔に出ると思うから」
それは、ひどくしおんらしい答えだった。
この子は静かだ。
静かで、感情も見えにくい。
でも一度見えてしまった時の純度が高い。
写真の中の視線が、まさにそうだった。
「私、隠してるつもりでも、たまに見えるらしいから」
そう言って、しおんはほんの少しだけ困ったように笑う。
「この前みたいに」
写真の話だ。
たしかにあれは、しおん自身が“普通だと思っていた視線”を、周囲がはっきり見てしまった瞬間だった。
恒一はしばらく何も言えなかった。
しおんが何を言っているのか、言葉の表面だけなら理解できる。
でもその奥にあるものまで考え始めると、簡単に受け取れなくなる。
「……じゃあ」
ようやく出た声は、自分でも少しかすれていた。
「雪代は、匿名の差し入れの犯人じゃないってことか」
逃げるみたいな問いだった。
しおんは、それを責めずに受け止めた。
「たぶん、違う」
「たぶん?」
「絶対、って言うと変だから」
それが少しおかしくて、恒一は小さく笑ってしまった。
「何だよ、それ」
「だって、未来の私までは分からないし」
「未来の話まで広げるなよ」
「でも今は、たぶん違う」
しおんも少しだけ笑う。
その小さなやり取りで、空気が少しだけ緩んだ。
◇
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
遠くで椅子を引く音がして、教室へ戻る生徒たちの足音が少しずつ増え始める。
「戻るか」
恒一が言うと、しおんはうなずいた。
「うん」
二人で廊下を歩き出す。
肩が触れるほど近くはない。
でも遠くもない。
何気ない距離だ。
なのに、さっきまでの会話のせいで、その何気なさが前より少しだけ意味を持って感じられる。
「黒峰くん」
しおんが歩きながら呼ぶ。
「ん?」
「焼き菓子、急いで答え出さなくてもいいと思う」
「答え?」
「食べるとか、食べないとか、誰だとか」
しおんは前を向いたまま言う。
「少し困って、少しうれしかったなら、そのままでいい気もする」
その言葉は、思っていたよりずっと優しかった。
白黒つけるでもなく、無理に整理するでもなく、今の揺れたままの気持ちをそのまま置いておいてもいい、と言ってくれている。
「……それ、ずるいな」
恒一がぽつりと言う。
しおんがこちらを見る。
「何が」
「そういう言い方されると、なんか救われる」
しおんは少しだけ目を細めた。
「ならよかった」
教室の前まで戻ると、ことねと凛がちょうど席へ着くところだった。
朱莉も窓際でノートを出している。
何も変わらない昼休み明けの光景だ。
でも、恒一の中では少しだけ違っていた。
犯人が誰か。
それもたしかに気になる。
けれどそれ以上に、自分がどう受け取ったかを見ている人がいる。
静かな子は、犯人より“どう受け取ったか”を見る。
そしてその視線は、またしても黒峰恒一の心を少しだけ深いところで揺らしてしまうのだった。




