第41話 ツンデレは、差し入れより“ちゃんと食え”で殴ってくる
差出人不明の焼き菓子は、金曜日になってもまだ黒峰恒一の鞄の中に入ったままだった。
食べていない。
捨ててもいない。
机の上からはさすがに引っ込めたが、だからといって気にならなくなったわけでもない。
名前のない優しさ。
丁寧な包装。
悪意はない、たぶん。
でも、誰が置いたのか分からない。
そして分からないまま受け取るには、少しだけちゃんとしすぎている。
その“少しだけちゃんとしすぎている”が、妙に厄介だった。
金曜の昼休み。
恒一は弁当箱を開いたまま、しばらく箸を動かせずにいた。
教室の中は、いつもの昼休みの音で満ちている。
机を寄せる音。
笑い声。
パンの袋を開ける音。
窓の外から聞こえる部活の掛け声。
何も変わらない。
変わらないはずなのに、自分だけ少しだけずれている感じがした。
「……食べないの?」
夢咲ことねが、向かいの席から不思議そうに聞いてきた。
今日はことね、しおん、凛、朱莉がなんとなく近い位置にいて、昼休みらしい緩い輪ができている。ひよりは学食棟らしい。ましろは別クラスだし、いろはは気づいたらいなくなるタイプだ。
「食べるよ」
恒一はそう言ったが、箸はまだ止まったままだった。
ことねがじっとこちらを見る。
「いや、食べる人の返事じゃないんだよなあ、それ」
「そんなことない」
「あるよ。黒峰くん今、“食べるとは言ったけどまだ食べる気分じゃない人”の顔してるもん」
「どんな顔だよ」
「ちょっと遠い顔」
ざっくりしているようで、妙に当たっているのが嫌だった。
朱莉も窓際寄りの席からちらりとこちらを見る。
「朝から少しぼんやりしてるよね」
「いや、普通だけど」
「最近その“普通だけど”が全然普通じゃないんだよ」
ことねが言う。
しおんは静かにお茶を飲んでから、小さく言った。
「今日は、考えごとが多い音してる」
「その表現ほんと慣れないな」
恒一が苦笑すると、しおんは少しだけ首を傾ける。
「でも、ほんと」
「雪代さんの“ほんと”ってたまに怖いよね」
ことねが半分笑いながら言う。
そこまで会話しても、凛は何も言わなかった。
ただ、通路側の席でパンを片手に、こちらを見ている。
その見方が、なんというか、嫌に正確だった。
恒一は視線を弁当へ落とす。
唐揚げ。卵焼き。ブロッコリー。母親がいつも通り詰めた、ごく普通の弁当だ。
普通のものを、普通に食べればいいだけなのに、頭のどこかがまだ匿名の菓子の話を引きずっている。
誰が置いたんだろう。
食べるべきなんだろうか。
開けるならいつだ。
何か言葉がないまま受け取ってしまっていいのか。
考えても答えは出ない。
出ないのに、考えてしまう。
そのときだった。
こつん、と机の上に何かが置かれた。
細長い銀色の包み。
スポーツ系の栄養バーだ。
「……え?」
顔を上げる。
凛がいた。
いつの間にか立ち上がっていて、恒一の机の横に来ていたらしい。
「食べて」
「いや、何これ」
「見れば分かるでしょ。栄養バー」
「そうじゃなくて、なんで」
「なんでって」
凛は少しだけ眉を寄せた。
「弁当ほとんど進んでないじゃん」
ことねが「うわ」と小さく声を漏らす。
朱莉は何も言わない。
しおんだけが、わずかに目を細めた。
「別に、あとで食べるし」
「あとで食べるって言うやつ、大抵あとでもちゃんと食べないから」
凛の返しは容赦がなかった。
「しかも今日のあんた、朝からずっと変」
「朝霧さん、それ最近口癖みたいになってない?」
ことねが言うと、凛はことねのほうを見ずに返す。
「変なものは変って言ってるだけ」
「それにしたって、言い方ってものがさあ」
「甘く言って直るならそうしてる」
言いながら、凛は恒一を見た。
「黒峰、あんた今、差し入れのこと考えすぎてご飯雑になってる」
直球だった。
ことねが「うっ」と顔をしかめる。
たぶん、図星だと全員分かってしまったのだ。
「……そんなことない」
恒一は一応抵抗してみる。
しかし声に力がない。
「ある」
凛は即答した。
「弁当開けてから何分経ってると思ってるの」
「知らないよ」
「十分は経ってる」
「見てたのかよ」
「見える位置にいるから」
それはその通りだ。
通路側からなら、こちらの手元はよく見えるだろう。
凛は少しだけ息を吐いた。
「別に、あの焼き菓子のこと気にするなって言ってるわけじゃない」
「うん」
「気になるのは分かる。差出人不明とか、気持ち悪いし、優しさっぽいから余計に処理しにくいのも分かる」
そこまで言ってから、凛はわずかに声を強めた。
「でも、それで食事まで雑になるほうがダサい」
教室の空気が一瞬だけ静かになる。
ことねが小さく息をのむ。
朱莉も視線を上げる。
しおんは黙ったまま、でもちゃんとその言葉を受け取っている顔だった。
恒一は、弁当と栄養バーと凛の顔を順番に見た。
「……そこまで言う?」
「言う」
「ひどくないか」
「ひどくない」
凛は本気でそう思っている顔だった。
「考えるのは勝手。でも、考えすぎて自分のペース崩すのは、あんたらしくない」
その“あんたらしくない”が、妙に効いた。
最近、自分が少しずつ鈍くなっている自覚はある。
誰にどう見られるかを考えすぎて、動きが半拍遅れる。
言葉を選びすぎて、返事が中途半端になる。
噂や意味づけを気にして、いらないところで手が止まる。
それを、凛はちゃんと見ている。
「……朝霧さんってさ」
ことねが慎重に口を開く。
「今の、だいぶ強いよね」
「何が」
「“ご飯ちゃんと食べろ”を、そこまでちゃんと怒れるの」
凛は少しだけ目を逸らした。
「当たり前でしょ」
「当たり前かなあ」
ことねは半分感心したように言う。
「私たぶん、気になるなら無理しないでね、くらいで止まるかも」
「夢咲さんはそれでいいんじゃない」
「え、なに急に優しいこと言うの怖い」
「優しくない」
凛はすぐに否定する。
だが、その否定の仕方は少しだけ弱かった。
朱莉が静かに口を挟んだ。
「でも、凛の言ってることは分かる」
全員がそちらを見る。
「考えすぎて、自分の生活まで崩れるのは違うよね」
その一言に、恒一は少しだけ肩が重くなる。
違う。
たしかに違う。
でも、違うと分かっていても、すぐ切り替えられない時もある。
しおんが、小さく言った。
「黒峰くん」
「ん?」
「今、少し困ってる」
「それはそうだろ」
「でも、困ってる顔と、食べてないのは別」
また、しおんらしい切り分け方だ。
そしてそれも、たしかにその通りだった。
◇
凛はそれ以上何も言わず、机の上の栄養バーを指先で軽く押した。
「とりあえず、先にこれ食べて」
「いや、弁当あるし」
「弁当はあとでいい」
「順番逆じゃないか?」
「今のあんたには、こっちのほうが手っ取り早い」
すごい決めつけだ。
だが、外れていない気もする。
恒一は少しだけ抵抗するように栄養バーを見つめた。
甘すぎないシリアル系の、地味なやつだ。凛らしい。変に可愛くもなく、でもちゃんと実用的で、持ち歩いていても不自然ではない。
「……なんで持ってるんだよ、こんなの」
「部活で残ったやつ」
「ほんとか?」
「ほんと」
「嘘っぽい」
「じゃあ返して」
凛がすっと手を伸ばしてきたので、反射的に恒一はバーを取った。
「あ」
ことねが吹き出しかける。
「今のめっちゃ自然だった」
「うるさい」
恒一は包装を見ながら言った。
凛も小さく息を吐く。
「食べるなら早く」
「命令口調なんだよな、ほんと」
「そうでもしないと食べなさそうだから」
その言葉に反論できず、恒一は包装を開けた。
一口かじる。
たしかに、こういう時にはちょうどいい味だった。甘すぎない。少しだけ塩気もある。頭を使いすぎてぼんやりした時に、余計な刺激にならない感じ。
「……どう」
凛が聞く。
「普通にうまい」
「ならよかった」
短い返事。
でも、その中にはたしかな安堵があった。
ことねが机に頬杖をつきながら言う。
「なんかさあ」
「何」
「差し入れ一つでも、ほんと性格出るね」
その言葉は、今の教室全体にきれいに当てはまっていた。
匿名の焼き菓子。
ことねの名前つきのコラボ菓子。
そして今、凛の実用的な栄養バー。
どれも“何かを渡す”だ。
でも、意味も温度も全然違う。
「朝霧さんのこれ、めちゃくちゃ朝霧さんって感じ」
ことねが続ける。
「可愛さより先に機能が来る」
「悪い?」
「悪くない。むしろ強い」
「夢咲さんの語彙、最近“強い”しかないの?」
「あるけど、今それが一番しっくり来るの!」
少し笑いが起こる。
その空気の中で、凛はわずかに視線を下げてぼそっと言った。
「……私は匿名とか向いてないし」
その声は小さかった。
ことねも朱莉も、しおんも、たぶんちゃんと聞こえたはずだ。
でも誰もすぐには反応しなかった。
恒一が先に聞く。
「なんで」
凛は少しだけ困った顔をした。
「なんでって……」
「朝霧さんなら、やろうと思えば匿名でもできそうだけど」
それは本音だった。
凛は気配りもできるし、視野も広い。目立たないように何かを渡すことだって、たぶんできる。
だが、凛は首を横に振った。
「向いてない。そういう回りくどいの」
「へえ」
「だって、匿名にしたら、ちゃんと届いてるか分からないでしょ」
その言葉に、ことねが小さく目を見開く。
朱莉は静かに視線を上げる。
しおんは何も言わずに聞いている。
凛は少しだけ早口になった。
「私は、必要なら必要って分かる形で渡したいし、いらないならいらないで返ってきたほうがまし。名前消して机に置いて、“受け取ってくれたかな”って待つの、性に合わない」
それは、たしかに凛だった。
回りくどさを嫌う。
無駄を嫌う。
でも、それは冷たいという意味じゃない。むしろちゃんと届いてほしいからこそ、曖昧なやり方を選ばないのだ。
「……なるほどな」
恒一がそう言うと、凛は少しだけ不機嫌そうに眉を寄せた。
「何、その納得したみたいな顔」
「いや、すごい朝霧さんらしいなって」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
「また“たぶん”」
そこへ、ことねがにやっと笑う。
「でも、今の朝霧さん、ちょっとかわいかった」
「は?」
「“ちゃんと届いてるか分からないの嫌”ってとこ」
「夢咲さん」
凛の声が低くなる。
「そこ、変な切り取り方しないで」
「えー、でも今のかなり本音っぽかったじゃん」
「本音だけど、そういう意味じゃない」
「どういう意味でも、ちょっとかわいい」
「やめて」
凛は本気で嫌そうな顔をしたが、その耳が少しだけ赤いのを、ことねは見逃さなかったらしい。
「うわ、今ちょっと赤くなった!」
「夢咲さん!」
「ごめんごめん、でも今のは私が悪いんじゃなくて朝霧さんの自爆!」
教室の空気が少しだけ軽くなる。
凛は額を押さえた。
朱莉は口元を少しだけ緩めていて、しおんは静かに「朝霧さん、分かりやすい時ある」と言った。
「雪代さんまで」
「ほんとだよ」
凛が小さく呻いた。
◇
昼休みが終わりに近づくころには、恒一の弁当はちゃんと半分以上減っていた。
唐揚げも卵焼きも、気づけば普通に食べていた。
栄養バー一つで劇的に何かが変わったわけではない。
でも、“ちゃんと食え”と怒られて、無理やりでも食べ始めたことで、頭の中のぐるぐるが少しだけ薄くなったのは本当だった。
「……食べたじゃん」
ことねが満足そうに言う。
「うるさい」
「でもよかったよ。ほんとに食べないまま終わるの、見てる側もしんどいし」
その言葉は、ことねなりの本音だろう。
凛も席へ戻りながら、ぽつりと言った。
「別に、あの焼き菓子のこと考えるなとは言わない」
「うん」
「でも、それで生活雑になるなら、また言うから」
「また怒るってことか」
「怒る」
即答だった。
「だって、そういうのかっこ悪いし」
そこで少しだけ間を置いて、凛は付け足した。
「……ちゃんとしてるほうがいいから」
ことねがまた反応しかけたが、今回はぎりぎりで飲み込んだ。
朱莉も黙った。
しおんは静かに視線を落とす。
その沈黙の中で、恒一はあの言葉がただの叱責ではないことを、改めて理解していた。
噂よりも、差し入れよりも、誰かの見え方よりも。
凛はまず、自分の態度そのものに腹を立てているのだ。
ちゃんとしているところを見ているからこそ、そこが崩れると許せない。
ツンデレは、噂より本人の態度で怒る。
そしてその怒り方は、思っていたよりずっと不器用で、思っていたよりずっと優しかった。




