第40話 幼馴染は、名前のない優しさが少し嫌い
夢咲ことねが、ちゃんと名前のある差し入れを渡した日の帰り道は、妙に静かだった。
いつもなら、放課後の空気にはもう少し散らかった熱が残る。教室で誰が何を言ったとか、廊下で誰と目が合ったとか、そういう小さな出来事が尾を引いたまま、駅へ向かう足取りに混ざるものだ。
けれど今日は、その熱が一度落ち着いたあとに、別の静けさが来ていた。
ことねは最後まで少し照れていた。
凛は「名前つきで渡すのは夢咲さんらしい」と、ぶっきらぼうなくせに否定しなかった。
そして朱莉は――特に強く何も言わなかった。
その“言わなかった”ことが、むしろ恒一には少し引っかかっていた。
火乃森朱莉は、思うことがあるときほど、先に全部を吐き出すタイプではない。
言葉を選ぶ。
選んで、選んで、それでも言うべきだと思ったものだけを口にする。
だから彼女が静かな時は、だいたい何かをちゃんと考えている時だ。
そして、その予感は当たることが多い。
◇
校門を出てしばらく歩いたところで、後ろから声がした。
「恒一」
振り向くまでもなかった。
朱莉だった。
夕方の光の中で、彼女は少し早足で追いついてくる。制服のスカートの裾が風に揺れ、肩にかかった鞄の紐が細く音を立てる。顔つきはいつも通り落ち着いている。けれど、その落ち着きの奥に何かある時の朱莉の表情を、恒一は昔から知っていた。
「……やっぱり来たか」
思わずそう言うと、朱莉は少しだけ眉を上げた。
「何それ」
「いや、なんか話ありそうな顔してたし」
「そんな分かりやすかった?」
「わりと」
朱莉は小さく息を吐く。
「最悪」
「そういうとこだよな」
「何が」
「隠してるつもりでも、ちょっと出るとこ」
そう言うと、朱莉はほんの少しだけ口元を緩めた。
「……あんたにだけは言われたくない」
その返し方に、少しだけ昔のテンポが混ざる。
それだけで、張っていた空気がほんの少しやわらいだ。
「で?」
恒一が先に聞く。
「やっぱり何かあるんだろ」
「ある」
朱莉は即答した。
「少しだけ時間いい?」
「また“少しだけ”か」
「最近みんなそれ言ってるけど、少しで済んでない気がする」
「自覚あるならいいけど」
苦笑しながら、二人は駅とは少し違う脇道へ入った。帰宅する人の流れから少し外れた遊歩道。植え込みの向こうには小さな公園が見え、ベンチのそばに夕方の影が長く伸びている。
春の風は穏やかで、会話の間を不自然に邪魔しないくらいの強さだった。
◇
「今日のことね先輩のやつ」
朱莉がぽつりと言った。
「うん」
「“私は匿名にしたくない”ってやつ」
「聞いてたな」
「聞こえる位置にいたし」
それもそうだ。
しばらく歩いてから、朱莉は少しだけ視線を前へ向けたまま続けた。
「たぶん、あれ、ことね先輩らしいんだと思う」
その認め方は、思っていたより素直だった。
「らしいな」
「うん。あの人、なんだかんだで隠すより先に顔に出るし、名前つきで渡すほうが自然なんだと思う」
「それはそうだな」
「でしょ」
朱莉はそこで一度言葉を切った。
それから、ほんの少しだけ声を低くする。
「でも、私はやっぱり、名前のない優しさって少し嫌い」
その一言は、強かった。
ことねは“匿名も勇気がいる”と言った。
しおんは“まだ壊したくない距離かもしれない”と言った。
凛は“名乗れない距離の好意”と整理した。
どれもそれぞれに真実だろう。
そのうえで、朱莉は“嫌い”と言った。
「……なんで」
恒一が聞くと、朱莉は少しだけ困ったように笑った。
「ちゃんと理由もあるよ」
「聞く」
「聞いて」
その会話のテンポが、妙に真っ直ぐでよかった。
「私ね、別に匿名の気持ちが分からないわけじゃないの」
朱莉はゆっくり話し始めた。
「怖いとか、重いって思われたくないとか、受け取ってもらえなかったら嫌だとか。そういうのがあるのは分かる。たぶん、ことね先輩が言ってたことも、しおん先輩が言ってたことも、たぶん本当なんだと思う」
「うん」
「でも、それでもやっぱり、私は嫌」
朱莉はそこで、少しだけ強く言い切った。
「だって、優しさって、名前を消した瞬間に少しだけ逃げ道になるから」
恒一はその言葉を頭の中でゆっくり転がした。
逃げ道。
「逃げ道って言うと、ちょっときつくないか」
「きついかも。でも、そう感じる」
朱莉は否定しない。
「たとえば、名前があったら“これ私が選んだ”って言えるし、“いらなかったらごめん”も含めてその人のものになるでしょ」
「まあ、そうだな」
「でも匿名だと、受け取る側が全部考えることになる」
それはたしかにそうだった。
好意なのか。
気遣いなのか。
誰からなのか。
食べていいのか。
どう返せばいいのか。
差出人がないぶん、全部を受け取る側が処理しなくてはいけない。
「もちろん、それが悪いとまでは言わない」
朱莉は少しだけ柔らかく言う。
「でも私は、そういうの、あんまり好きじゃない。だって、優しいことするなら、ちゃんと自分の名前でやりたいから」
その言葉は、どこまでも火乃森朱莉だった。
遠慮しない。
隠れない。
近いなら近いまま、ちゃんと見える形でいる。
それは彼女の強さであり、少し不器用な美学でもあるのだろう。
「……幼馴染って感じするな」
恒一がぽつりと言うと、朱莉は少しだけ目を細めた。
「何それ」
「いや、なんか。隠してやる感じじゃないだろ、お前」
「ないね」
即答だった。
「体調悪いなら悪いって言うし、甘いもの欲しそうなら普通に買ってくるし、ムカついてたらムカついてるって顔に出るし」
「最後のはいらないだろ」
「必要」
朱莉はそこで少し笑った。
短い笑みだったが、空気が少し和らぐ。
◇
「ねえ、恒一」
「ん?」
「昔のこと、一個聞いていい?」
「何だよ」
朱莉は少しだけ歩幅を緩めた。
「中二の冬、風邪ひいた時のこと覚えてる?」
その問いに、恒一は一瞬だけ考える。
中二の冬。
インフルではなかったが、たしか三日くらい熱を出して寝込んだ記憶がある。部屋の空気がやけに乾いていて、スポーツドリンクがぬるくなるのが早くて、暇すぎて天井ばかり見ていた。
「……まあ、熱出してたのは覚えてる」
「それだけ?」
「いや、あと母親が買い物行ってる間に、誰か来たような……」
そこで記憶が少しつながる。
玄関の音。
部屋の前まで来る小さな足音。
ドア越しに聞こえた少し不機嫌そうな声。
――これ、置いとくから。ちゃんと食べなよ。
「……あ」
恒一が足を少し止める。
「もしかして、クッキー」
朱莉の口元が、わずかに動いた。
「覚えてたんだ」
「いや、今つながった」
「遅」
「いや仕方ないだろ、熱でぼんやりしてたし」
「それにしても遅い」
そう言いながらも、朱莉はちょっとだけ嬉しそうだった。
「……あれ、お前だったのか」
「そうだけど」
朱莉は視線を前へ向けたまま、肩をすくめる。
「別に手作りとかじゃないよ。駅前の店で買ったやつ」
「そこまで聞いてない」
「聞かれそうだから先に言っただけ」
その先回りが、いかにも朱莉らしい。
「部活の帰りに寄って、風邪の時でも食べやすそうなの選んで。で、家に行った」
「家まで来たのか」
「行ったよ」
「……全然覚えてなかった」
「最低」
即座に返ってきた。
「いや、でもクッキー自体は覚えてたんだって!」
「“誰か来たような……”じゃだめでしょ」
「だって本当に熱あったんだよ」
「そういう問題じゃない」
朱莉は少し怒ったように言いながら、でもどこか笑っている。
「私ね、ああいうの、匿名にしたつもりなかったの」
「え?」
「だって、家まで持ってったし。おばさんにも“朱莉ちゃんありがとね”って言われたし」
「あー……」
じゃあ、匿名でもなんでもない。
ただ自分が熱でろくに覚えていなかっただけだ。
「でも、あんたにはあんまり残ってなかった」
その言い方が、少しだけ寂しそうだった。
恒一は言葉を探す。
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない」
「でも」
「今思い出したなら、それでいい」
朱莉はそう言ってから、少しだけこちらを見る。
「そういうの、覚えてる?」
さっきよりずっと静かな声だった。
ただクッキーの話をしているわけじゃない。
昔から、自分がどんなふうに近くにいたか。
どういう形で気にかけていたか。
それをちゃんと覚えているのか、という問いだ。
恒一は少し考えてから、正直に答えた。
「全部は覚えてないかもしれない」
朱莉の表情がわずかに固くなる。
でも、そこで止まらずに続けた。
「でも、そういう感じでお前が近くにいたことは、ちゃんと覚えてる」
言葉を選ぶ。
「何かあった時に、変に派手じゃなく、でも普通に来るだろ。昔から」
朱莉は黙っている。
「で、来たあとに、“別に大したことしてないけど”みたいな顔する」
「……そんな顔してた?」
「してた」
たぶん、今もする。
朱莉は少しだけ目を伏せ、それから小さく笑った。
「それなら、まあいいか」
「ずいぶん上からだな」
「幼馴染なので」
「便利な立場だな」
「でしょ」
その“でしょ”が、昔のままの響きで、恒一は少しだけ安心した。
◇
しばらく二人で歩く。
住宅街へ入る手前、空の色はさらに深くなっていた。夕方と夜の境目みたいな青の中に、まだ少しだけ橙が残っている。街灯がぽつぽつ点き始め、家々の窓にも明かりが灯り始めていた。
「だからさ」
朱莉がまた口を開く。
「私は、あんたに何か渡すなら、名前のないやり方はしない」
「うん」
「昔からの位置にいるのに、わざわざ隠れる意味ないし」
「それもそうだな」
「それに、隠れてやる優しさって、ちょっとずるい」
昼に言っていた“逃げ道”と同じ話だ。
「もらう側に、考える負担だけ増えるから」
「お前、そこほんとぶれないな」
「ぶれないよ」
朱莉はきっぱりと言った。
「優しくするなら、ちゃんと見える形でやりたい。受け取るなら受け取るで、あんたの顔を見たいし」
その言い方は強い。
でも嫌じゃない。
むしろ、妙にしっくりきた。
匿名の焼き菓子は、たしかにきれいだった。
誰かの名前を消したまま、そっと置かれた優しさ。
それはそれで、一つの好意の形だろう。
でも朱莉は違う。
違って、それでいい。
そういうふうに思える。
「……なんか、今日の話で分かったかも」
恒一が言うと、朱莉がちらりと見る。
「何が」
「お前が匿名の優しさ嫌いなの」
「今さら?」
「いや、理屈として」
「ふうん」
「でも、それってお前がそういう人間だからだなって」
「どういう」
「近いなら近い、心配なら心配、渡すなら渡す、でやるやつ」
朱莉は数秒黙ったあと、少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「……変なところで言葉にするよね、あんた」
「悪いか」
「悪くはない」
その返しが、小さくて、でも柔らかかった。
◇
別れ道が近づく。
朱莉は立ち止まり、鞄の紐を持ち直した。
「じゃ、私はこっち」
「ああ」
「恒一」
「ん?」
「今度、何か渡す時はちゃんと名前つきで渡すから」
その宣言が妙におかしくて、恒一は少し笑ってしまった。
「予告するのかよ」
「する」
「そこまで言うなら楽しみにしとく」
「……そういう返しするから、たまに調子狂うんだよね」
朱莉は小さくぼやいた。
けれど、その顔は少しだけ機嫌が良かった。
「じゃあまた明日」
「また明日」
背を向けて歩いていくその後ろ姿を見送りながら、恒一はゆっくり息を吐いた。
名前のない優しさは、たしかにきれいかもしれない。
でも朱莉みたいに、ちゃんと名前のあるまま差し出してくる優しさにも、また別の強さがある。
そして自分は、その両方をもう無視できないところまで来てしまっている。
春の夜が、少しずつ街の上へ降りてくる。
帰り道の静けさの中で、黒峰恒一はまた一つ、面倒で、でも大事な違いを理解していた。




