第38話 “誰が置いたか”会議は、だいたい犯人より空気が怖い
差出人不明の焼き菓子は、結局一時間目が始まる直前になっても、黒峰恒一の机の上にそのまま置かれていた。
触るか。
開けるか。
それとも職員室へ持っていくか。
朝の段階では、ことねが「こういうの一番困るやつ!」と騒ぎ、凛が「先に状況整理」と冷静に釘を刺し、朱莉が明らかに面白くなさそうな顔をし、しおんが「悪意はないと思う」と静かに言い、ましろが置かれた時間帯や位置を推測し、いろはが“構図がいい”と訳の分からない感想を述べていた。
その結果、何ひとつ決まらなかった。
誰も「捨てよう」とは言わない。
誰も「食べよう」とも言い切らない。
みんな少しずつ気になっていて、少しずつ距離を測っていて、少しずつ自分の言葉がどんな意味を持つかを分かっている。
つまり、平和ではない。
二時間目、三時間目を挟んでも、あの小さな紙袋の存在感は消えなかった。授業中にふと視界の端へ入るたび、“誰が置いたんだ”より先に、“これをどう扱えば波風が一番立たないんだ”を考えてしまう。
そして、そういう時に限って昼休みはすぐ来る。
◇
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、恒一は嫌な予感しかしなかった。
このまま何も起きずに済むわけがない。
少なくとも四班周辺の面子が、この話題を放っておくはずがない。
案の定だった。
夢咲ことねが弁当箱を抱えて近づいてくる。
朝霧凛はパンと飲み物を持って通路側へ腰を落ち着ける。
火乃森朱莉は静かな顔で資料のように弁当包みを机へ置き、雪代しおんは自分の席からほとんど音もなく視線だけ近づける。
小鳥遊ましろは別クラスのくせに、なぜかちょうどよく現れた。
鳴瀬いろはは後ろの席を半分借りるみたいにして座り、最初から“観察する側”の顔をしている。
そして机の真ん中には、あの紙袋だ。
「じゃあ」
ことねが、やけに会議の司会っぽい顔で言った。
「差し入れ犯人会議、始めます」
「始めなくていい」
恒一は即座に否定した。
だがことねはまったくめげない。
「いや始めるでしょ、こんなの! むしろ始めないまま昼休み終わったら、午後ずっと気になるじゃん!」
「すでに気になってるけどな」
「でしょ!?」
ことねは勢いよくうなずく。
「だからこそ、少しでも整理したいの!」
凛が頬杖をついたまま言う。
「整理っていうか、夢咲さんが気を済ませたいだけじゃない?」
「それもある!」
否定しないのか。
でも、その率直さは少しだけ救いでもある。ことねはこういう時、ちゃんと“自分が気になってる”を認める。だから空気が必要以上にねじれない。
朱莉は紙袋をじっと見ながら、小さく言った。
「誰が置いたか、より先に」
「うん」
「匿名にする意味が、やっぱり分からない」
その言い方は朝と同じだった。
でも今度は、少しだけ深かった。
「もし渡したいなら、普通に渡せばいいのに」
「火乃森さんは、そういう考えだよね」
凛が言う。
「近いなら、隠す意味ないって感じ」
「だってそうでしょ」
朱莉は淡々としていた。
「名前つけずに置くって、渡したいのか隠したいのか中途半端じゃない?」
ことねが「うーん」と唸る。
「でも、匿名のほうが勇気いる場合もない?」
「どういう意味?」
「いや、だってさ」
ことねは指で紙袋のシールを指した。触れないぎりぎりの距離で。
「こういうのって、たぶん“いらなかったらどうしよう”とか、“重いって思われたらどうしよう”とか、いろいろ考えるじゃん。だからこそ名前消した、みたいな」
その言い方は、ことね自身の感覚にかなり近いのだろう。
分かりやすく行くと決めていても、傷つく可能性を想像しないわけではない。だからこそ、“匿名にしたくなる気持ち”へ想像が届く。
朱莉は少しだけ黙った。
完全には納得していないが、頭ごなしにも否定しない。
「……それはあるかもね」
ぽつりとそう落ちた声に、ことねが少し驚いた顔をする。
凛がそこへ入る。
「でも結局、名乗れない距離の好意ってことでしょ」
教室の空気がほんの少しだけ止まった。
名乗れない距離の好意。
その表現は鋭すぎた。
「朝霧さん、それ言う……?」
ことねが顔をしかめる。
「事実じゃない?」
凛はあくまで淡々としている。
「少なくとも、“堂々と渡せる関係”ではないってこと。だから匿名にしてる」
たしかに、それは一つの見方だ。
だが、その言葉をこの面子の前で出すと、いろいろなものが一気に可視化されてしまう。
しおんが静かに言った。
「まだ壊したくない距離、かもしれない」
全員がそちらを見る。
「壊したくない?」
恒一が聞き返すと、しおんは小さくうなずいた。
「名前を出すと、今までの感じが変わるから」
その言葉は、凛の“名乗れない距離”とは少し違う。
でもどちらもたぶん正しいのだろう。
今のまま、そっと渡しておきたい。
見つけてほしい。
でも、はっきりした意味までは乗せたくない。
そんな曖昧で、でも切実な距離感。
いろはが、それを聞いて小さく笑った。
「やっぱり、名前がないほうが面白い」
「鳴瀬さんはほんとに一回黙って」
ことねが半分本気で言う。
いろはは悪びれもせずに続けた。
「だって、誰が置いたかより、受け取る側が何を想像するかのほうが見えるから」
「それは……まあ、ちょっと分かるけど」
ことねは悔しそうに認めた。
「でも面白がるな!」
「面白がってるよ」
「開き直るな!」
少しだけ笑いが起こる。
だがその笑いの下に、たしかな緊張があるのが分かる。
◇
「先輩」
そこで、ずっと静かだったひよりが口を開いた。
毒島ひよりは今日も小柄で、静かで、そして変食への熱だけが異様に強い。今も弁当を開いたまま、しかし視線は紙袋へまっすぐ向いていた。
「食べ物の匿名差し入れって」
そこで一拍置く。
「相当、信頼してる相手にしかしないと思います」
ことねが一瞬で固まる。
凛の眉が動く。
朱莉は目を伏せる。
恒一は思わず「うわ」と言いかけて飲み込んだ。
「なんでそうなるの」
ことねが恐る恐る聞く。
ひよりは真顔で答える。
「だって、食べ物を渡すって、その人の口に入るものを渡すってことなので」
理屈が強い。
「しかも匿名なら、味の感想も直接はもらえない。なのに渡すなら、“少なくとも嫌われてはいない”って確信がないと無理です」
ことねが机に突っ伏しかける。
「そういうこと、今この場で真顔で言うのほんとやめてほしい……」
ひよりは首を傾げる。
「変でしたか?」
「変じゃないけど強いの!」
ことねの悲鳴みたいな声に、凛が小さく息を吐いた。
「毒島さんの言ってること、筋は通ってるから余計に困る」
「私は、もし先輩に渡すなら匿名にはしません」
ひよりは何気なく続けた。
「食べた感想がほしいので」
「そこなんだ……」
恒一が思わず言うと、ひよりは当然みたいにうなずく。
「かなり大事です」
この子は、ほんとうに一貫している。
ことねが顔だけ上げる。
「じゃあ、ひよりちゃんは犯人じゃないってこと?」
「そうとは限りません」
凛がすぐに言った。
「“今なら匿名にしない”ってだけで、今回もそうとは限らない」
ことねが「うわ、朝霧さんそういうとこ!」と抗議する。
でも、その指摘もたぶん正しい。
誰が何を言っても、ここで決定打にはならない。
それなのに、一言ごとに“その人らしい価値観”だけははっきり出てしまう。
朱莉が机に肘をつき、小さく言った。
「結局さ」
「うん」
「誰が置いたか、より、“どういう距離感で何を渡したがるか”のほうが見えてるよね」
それは、この会議の本質だった。
ことねは名前つきで渡したいタイプだ。
朱莉は隠さず当然みたいに渡すタイプだ。
凛はたぶん実用的なものを無言で押しつける。
しおんは、隠そうとしてもどこかで滲む。
ましろは生活導線の中に自然に差し込む。
いろはは感情そのものを観察したがる。
ひよりは食べ物の相性を真ん中に置く。
犯人が誰かは分からない。
でも、誰がどういう“渡し方”をするかは、むしろどんどん見えてくる。
◇
そのとき、不意に視線が全部恒一へ集まった。
ことねが聞く。
「で、黒峰くんはどうしたいの」
「何を」
「このお菓子」
机の上の紙袋。
名前のない、でも丁寧な焼き菓子。
凛も朱莉も、しおんもましろもひよりも、いろはまで、何も言わずにこちらを見ている。
食べるのか。
食べないのか。
その判断ひとつで、また意味が増える。
恒一は紙袋を見た。
今朝から何度も見ているのに、見るたびに少しずつ違う重さを持つ。
悪意はない。
たぶん、好意か、気遣いか、そのあいだにある何かだ。
でも、だからこそ簡単に食べてしまうのも違う気がした。
誰か分からないまま受け取るには、この紙袋は少し丁寧すぎる。
「……誰でもないなら」
自分でも驚くほど静かな声で、恒一は言った。
「食べづらい」
教室の空気が、そこで静かに止まった。
ことねの目が少しだけ揺れる。
凛は視線を細める。
朱莉は口を開きかけて、やめる。
しおんはその言葉をそのまま受け止める顔をしていた。
ましろはほんの少しだけ目を伏せる。
ひよりは“なるほど”というふうに小さくうなずき、いろはだけがその沈黙の形まで見ているようだった。
誰でもないなら、食べづらい。
それは、拒絶ではなかった。
でも、無条件の受け入れでもなかった。
名前がないままでは、自分もどう受け取っていいか分からない。
その戸惑いが、そのまま言葉になっただけだ。
そして、その言葉がこの場にいる全員へ、それぞれ違う形で届いたことも、恒一には分かってしまっていた。




