第37話 机の上の焼き菓子は、だいたい平和を壊す
木曜の朝、黒峰恒一が教室へ入った瞬間、まず感じたのは、いつもより少しだけ早い春の光だった。
窓際から差し込む朝日が机の列を斜めに照らし、教室の床へ白っぽい帯を作っている。まだ登校している生徒は半分ほどで、教室の空気は完全には温まりきっていない。鞄を置く音、椅子を引く音、朝の眠気を引きずった声。どれもいつもの星ヶ峰の朝だった。
ただ一つだけ、違うものがあった。
「……は?」
自分の席へ近づいた恒一は、思わず足を止めた。
机の中央。
教科書を広げる場所に、見覚えのない小さな紙袋が置かれている。
大きさは手のひらに乗るくらい。白に近い薄い茶色の袋で、口は丁寧に二度折られ、小さな丸いシールで留められていた。派手な柄もない。名前もない。メモもない。
けれど、置かれ方だけがやけに整っている。
机のど真ん中ではない。
少しだけ右へ寄せて、でも教科書を置くには邪魔にならない位置。
まるで「見つけてはほしいけど、困らせすぎたくはない」とでも言いたげな、微妙に遠慮のある置き方だった。
袋の中身は、触らなくてもなんとなく分かった。
軽い。
そして、ほんの少しだけ甘い匂いがする。
焼き菓子だ。
その事実を理解した瞬間、恒一の背筋に嫌な予感が走った。
これは駄目なやつだ。
誰かが名前を書いて、はい差し入れ、とはっきり渡してくれるならまだいい。
いや、良くはないかもしれないが、少なくとも整理のしようはある。
でもこれは違う。
差出人不明。
名前なし。
メモなし。
なのに、明らかに“誰かが自分の机へ意図して置いたもの”。
こういうのが一番、平和を壊す。
「……何それ」
背後から声がして、恒一は肩を揺らした。
振り向く。
夢咲ことねが、鞄を肩にかけたままこちらを見ていた。
彼女は一瞬だけ紙袋を見て、それからすぐに顔をしかめた。
「うわ、こういうの一番困るやつ!」
第一声がそれなのが、なんというか、いかにもことねだった。
「やっぱりそう思うか」
「思うよ!」
ことねは机の横へ寄ってきて、袋をまじまじと見る。
「何これ、焼き菓子っぽいけど……え、誰から? メモないの?」
「ない」
「名前も?」
「ない」
「うわあ……」
ことねは両手で頬を押さえた。
「これ、ほんとに一番ダメなやつじゃん。善意なのは分かるのに、善意だからこそ空気がめんどくさくなるやつ!」
言い方は大げさだが、内容はその通りだった。
そこへ、通路側から凛の低い声が飛んでくる。
「騒ぐ前に状況整理したら?」
朝霧凛は自席に座ったまま、こちらへ視線だけ寄越していた。表情はいつも通り落ち着いている。だが、その落ち着き方が逆に“もう面倒だと理解している”感じだった。
「だって朝霧さん、こういうの見たら騒ぎたくもなるでしょ!」
「ならない」
「ほんとに!?」
「少なくとも、先に触るかどうかは考える」
凛はそう言ってから、少しだけ眉を寄せた。
「黒峰、触った?」
「まだ」
「ならそのままにして」
完全に現場検証の人だ。
ことねが半分呆れながらも頷く。
「いや、たしかにそれはそうかも……」
「置かれた位置とか、袋の向きとか、変に崩さないほうがいいでしょ」
そう言われると妙にもっともだった。
たしかに、今ここで勢いで袋を開ければ、何もかも“ただの差し入れ”に変わってしまう。
それが一番平和な処理なのかもしれないが、同時に、この奇妙な匿名性の意味も消してしまう。
「……なんで俺の学校生活、朝から事件現場みたいになるんだ」
小さく呻くと、今度は窓際から朱莉の声がした。
「そういう星の下なんじゃない」
火乃森朱莉だった。
彼女はいつものように鞄を置き終わったところで、けれど顔つきはあまり面白くなさそうだった。無理もない。最近の黒峰周辺は、誰が何をしても“新しい接点”として処理される空気ができつつある。そこへ差出人不明の菓子まで乗れば、面白くないのは当然だ。
「……火乃森、そんな顔するなよ」
「してる?」
「してる」
ことねがすぐに言う。
「だいぶ“何それ”の顔してる」
「そりゃするでしょ」
朱莉は机の横まで来て、紙袋を見下ろした。
「匿名にする意味が分からないし」
その言い方は、彼女らしかった。
朱莉にとって“近い”ことは隠すものではない。
昔からの距離を事実として持っているからこそ、わざわざ名前を消して置くようなやり方が、感覚として馴染まないのだろう。
「でも、ちゃんと丁寧ではあるね」
朱莉がそう付け足したとき、静かな声が重なった。
「うん」
しおんだ。
いつの間にか席へ着いていた雪代しおんが、ノートを開く手を止めてこちらを見ていた。
その視線は穏やかで、でもやっぱりよく見ている。
「包装、急いでない」
しおんは小さく言う。
「雑に置いた感じもしない」
ことねがそちらを見る。
「雪代さん、なんか分かる?」
「まだ少しだけ」
しおんは席を立ち、静かな足取りで机の近くまで来た。
袋に直接触れはしない。
ただ少しだけ身をかがめて、シールの貼り方や袋の折り目を見る。
「……これ、きれいに見せたいっていうより、丁寧に置きたい感じ」
その感想は、どこかいろはが言いそうな言葉でもあった。
「どう違うの?」
ことねが聞くと、しおんは少し考えてから答える。
「見た瞬間に可愛くしたいっていうより、開ける前に嫌な感じがしないようにしたい、みたいな」
「うわ、なんか分かるような分からないような……」
「雪代のそれ、わりと当たってそうなのが嫌だな」
恒一が言うと、しおんはほんの少しだけ目を細めた。
そのとき、教室の後ろ扉が開いた。
「おはようございます」
小鳥遊ましろだった。
小柄で控えめな後輩は、教室へ入ってくるなり空気の違いに気づいたらしい。いつも通り柔らかい声なのに、目だけは一瞬で紙袋のほうへ向いた。
「……何かありましたか」
「ありました」
ことねが即答する。
「黒峰くんの机に、差出人不明の焼き菓子」
ましろはすぐに近づいてきた。
そして机の上を見て、小さく瞬きをする。
「朝一番で置かれた感じです」
「分かるのか?」
恒一が聞くと、ましろは当然のように頷いた。
「はい。先輩の机、朝来る人の流れで少し触れやすい位置ですけど、袋がずれてないので」
「……怖い」
ことねが半笑いで呟く。
ましろは気にした様子もなく続けた。
「置いた人、早い時間に来てると思います」
「どうして」
「人が増えてからだと、こういうのは視線が集まるので」
それもまた正しそうで嫌だった。
「しかも、袋の位置が右寄りです」
ましろが指摘する。
「先輩、席に着いてすぐ教科書を左へ置くこと多いので、そこ避けてます」
そこまで分かるのか。
「いや、ちょっと待って」
ことねが本気で引き始める。
「ましろちゃん、それって“誰が置いたか”より前に、“黒峰くんの机の使い方”知りすぎじゃない?」
「見てるので」
出た。
万能すぎる返答。
そして、最後に来たのが鳴瀬いろはだった。
美術室帰りなのか、指先にうっすら絵の具の色が残っている。教室へ入ってきた彼女は、状況をひと目見ただけで、楽しそうに目を細めた。
「いいね」
「何が!?」
ことねが半ば悲鳴みたいに言う。
いろはは紙袋を見て、それから恒一の顔を見た。
「差出人不明って、それだけで構図がいい」
「だからそういう芸術論を今いらないんだよ」
「でも本当」
いろはは平然としている。
「名前がある差し入れは、答えが一個しかない」
「うん?」
「でも、名前がないと、受け取る側の顔がいちばん素直になる」
その言葉に、恒一は思わず黙った。
困っている。
戸惑っている。
少しだけうれしくもある。
そして、そのどれをどう出していいのか分からない。
いろはに言われるまでもなく、たしかに今の自分の顔は、あまり取り繕えていない気がした。
◇
朝のホームルーム前、黒峰恒一の机のまわりには、小さな円みたいな空気ができていた。
誰も大声を出しているわけではない。
けれど、ことね、凛、朱莉、しおん、ましろ、いろは――それぞれが少しずつ違うやり方で、この小さな紙袋へ意味を見ている。
「で、どうするの?」
ことねが聞く。
「開ける?」
「今ここで?」
凛が即座に言う。
「まだやめたほうがいいでしょ」
「でも中身分かんないままも気になるよ!」
「袋の感じで焼き菓子だと思う」
朱莉が言う。
「匂いもそうだし」
「うん、たぶんクッキー系」
ましろも同意する。
「でも、包装の感じだと手作りじゃないです」
「そこまで分かるのか……」
恒一が本気で感心すると、ましろは首を傾げた。
「シールと袋が既製品なので」
「ほんとに見てるなあ……」
ことねが呟く。
いろはは窓際の光の中で、興味深そうに紙袋を見る。
「丁寧だけど、目立ちたくはない感じ」
「鳴瀬さんまで似たこと言うの?」
「しおん先輩が先に言ってたから、たぶんそう」
その“たぶんそう”が、やけにしっくり来るのが嫌だった。
しおんは少しだけ目を伏せてから、静かに言った。
「これ」
全員の視線がそちらへ向く。
「悪意はないと思う」
その一言で、場の温度が少し変わった。
ことねの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
凛も眉を寄せたままではあるが、さっきより空気が柔らかい。
朱莉は黙ったまま、でも否定はしない。
ましろは小さく頷いた。
いろははその変化ごと面白そうに見ている。
「……なんでそう思う?」
恒一が聞くと、しおんは紙袋へ目を向けたまま答えた。
「怖がらせたいなら、もっと違う置き方する」
「違う置き方?」
「もっと真ん中とか、もっと目立つ感じとか」
しおんの声は穏やかだった。
「でもこれは、ちゃんと見つけてはほしいけど、困らせすぎたくはない置き方」
その解釈が正しいかどうかは分からない。
でも、しおんがそう言うと、不思議と信じたくなる。
「だから、悪意はない」
朝の光の中で、その言葉だけが静かに残った。
そして恒一は、その一言を聞いて初めて、自分がほんの少しだけ肩に力を入れていたことに気づいた。
差出人不明。
名前なし。
でも、悪意ではない。
それだけで、この小さな紙袋の重さは少しだけ変わった気がした。




