第36話 まだ選ばない。でも、何も始まっていないわけじゃない
木曜の帰り道、黒峰恒一は久しぶりに一人だった。
誰かと図書室へ寄るわけでもない。
コンビニへ流れるわけでもない。
学食で変なメニューに付き合うわけでもない。
放課後の教室で、誰かに呼び止められることもなかった。
ただ一人で、駅から続く道を歩いている。
春の夕方は、昼より少しだけ静かだ。街路樹の葉が風で揺れ、電線の向こうの空が、青と橙のあいだでゆっくり色を変えている。車の音も遠い。近くを歩く人の足音も、今日は不思議と気にならなかった。
やっと、一人になれた。
そう思った瞬間、安心と同時に、少しだけ妙な空白もあった。
最近、自分の周りには人がいた。
ことねがいて、朱莉がいて、凛がいて、しおんがいて、ましろがいて、いろはがいて、ひよりがいた。
そしてその外側から、玲華が面白がるように見ている。
それが当たり前になりかけていたから、一人になったとたん、逆に少しだけ静かすぎると感じてしまう。
「……重症だな」
小さく呟いて、自分で苦笑した。
普通の青春をしたかったはずなのに。
もっと穏やかで、もっと平坦で、変に意味づけされない毎日がほしかったはずなのに。
なのに今、自分はその“平坦じゃない日常”の中へかなり深く足を入れてしまっている。
しかも、それを全部“迷惑”の一言で切れるほど嫌でもない。
◇
歩きながら、ここ数週間のことを頭の中でなぞっていく。
最初にことねと話したときの、あの分かりやすい楽しさ。
話が通じる相手に出会った、という彼女の明るい熱量。
しおんに足音で見つけられたときの、静かで不思議な居心地の悪さ。
なのにその視線が、最近では少しだけ気になるようになっていること。
朱莉の“昔から近いんだから譲らない”という強さ。
幼馴染という立場を武器ではなく事実として突きつけてくる、あの真っ直ぐさ。
凛の“ちゃんとしてるお前のほうがいい”という、半分怒りみたいな言葉。
他人の目より、自分の態度のほうを見ろと言われたときの、あの妙な救われ方。
ましろの“先輩の生活に合う位置、もう結構分かってます”という無自覚な近さ。
予定表より先に、必要なものを持ってくるあの後輩の強さ。
いろはの“ちゃんと崩れるから好き”という危ない感性。
完璧じゃないところを、美しいと断言するあの目。
ひよりの“一緒に変なもの食べるの、すごく楽しいです”という素直さ。
食べることを通してしか届かない距離があるのだと、まっすぐ信じている感じ。
どれも違う。
近づき方も、見ているものも、求めているものも違う。
だから、誰が一番とか、誰が本命とか、そういう並べ方をされると本当に困る。
だが困るということは、何もないわけではないということでもあった。
それが今の自分をいちばん面倒にしている。
◇
駅前の信号で立ち止まる。
赤信号の向こうでは、制服姿の高校生たちが何人か笑いながら歩いている。たぶん部活帰りだろう。コンビニの袋を下げている奴もいる。二人で並んで帰る男女もいて、その様子だけを見れば、まさに自分がぼんやり想像していた“普通の青春”そのものだった。
ふと、思う。
自分は、まだ誰かを選ぶ段階にはいない。
それは逃げではなく、たぶん本当にそうだ。
誰か一人を特別だと決めるには、まだ気持ちが整理できていない。
今あるのは、それぞれ違う方向から向けられる熱や視線や距離感であって、そこに一つの答えを出せるほど単純じゃない。
ことねと話すのは楽しい。
朱莉の言葉は、昔からの重みで刺さる。
凛に見られていると、変に崩れたくないと思う。
しおんの静かな“うまく言えない”には、いまだに引っかかる。
ましろに先回りされると、助かるのが悔しい。
いろはに“描きたい”と言われると、困るのに少しだけ気になる。
ひよりと変なものを食べる時間は、たしかに妙に楽しかった。
これを今、一本の線にするのは無理だ。
だけど。
「……何も始まってない、はもう無理か」
信号待ちのあいだに、ぽつりと声が漏れた。
そうなのだ。
まだ選ばない。
まだ決められない。
でも、何も始まっていないわけじゃない。
ことねの言葉に少しどきっとする自分がいた。
朱莉に“覚えといて”と言われて、ちゃんと重みを感じた自分がいた。
凛の言葉で気持ちが少し軽くなった自分がいた。
しおんの写真の視線を、何度も思い出してしまう自分がいた。
ましろに差し出された飲み物が、すごくありがたかった自分がいた。
いろはの“好き”を、完全に嫌だとは思わなかった自分がいた。
ひよりの“楽しい”に、少しだけ救われた自分がいた。
それはもう、“何もない”とは言えない。
青信号に変わる。
人の流れに合わせて歩き出す。
◇
家に着いて、玄関で靴を脱ぎ、自室へ荷物を置く。
いつもと変わらないはずの動作なのに、今日は少しだけ気持ちが静かだった。
机に向かい、何気なく鞄の中身を整理する。
教科書。ノート。筆箱。
そして、ひよりにもらったままになっていた紙袋のことをふと思い出して、脇の引き出しへしまう。
その動作一つで、自分がもう“何もなかったこと”にはできないものをいくつも持ち帰っているのだと分かった。
ベッドへ腰を下ろし、天井を見る。
昔なら、こんな日々は面倒でしかなかったかもしれない。
だが今は、その面倒くささの中に、それぞれ違う温度があることを知ってしまっている。
だからこそ簡単には切れないし、だからこそ余計に疲れる。
それでも。
少なくとも、自分はもう完全に受け身ではなかった。
“変に意味づけされるのが嫌だ”と思う一方で、誰かの言葉をちゃんと受け取って、ちゃんと返してしまっている。
そして、その返した言葉がまた誰かの中で熱を持つ。
そういう場所へ来てしまっている。
「……普通、難しいな」
笑うみたいに呟く。
でも、その普通の難しさの中で、自分が少しずつ変わっていることも分かる。
逃げたいだけじゃない。
面倒くさいだけでもない。
まだ何も決められないけれど、だからといって何も始まっていないふりも、もうできない。
◇
翌朝。
黒峰恒一が教室へ入ると、まだ半分ほどしか埋まっていない机の列の中に、自分の席が見えた。
そして、その机の上に――
「……は?」
小さな紙袋が、置かれていた。
手のひらに乗るくらいの大きさ。
派手ではない。
でも、明らかに“誰かが意図して置いた”感じがある。
近づく。
紙袋の口は丁寧に折られていて、小さなシールで留められていた。
横にはメモも名前もない。
差出人不明。
だが、袋の中にはやわらかい感触がある。
焼き菓子か何かだろうか。
「……何それ」
背後からことねの声がした。
振り向くと、ちょうど登校してきたらしいことねが、鞄を肩にかけたままこちらを見ている。
次いで、通路側から凛も顔を上げた。
窓際では朱莉が足を止め、しおんも静かに視線を向ける。
教室の朝の空気が、また少しだけ形を変える。
差出人不明の小さな菓子。
名前はない。
でも、だからこそ意味が増える。
恒一はその袋を見つめたまま、昨日までの静かな整理が、また一瞬で新しい火種に変わっていくのを感じていた。




