第35話 “誰が本命か”なんて、まだ誰も決めてないのに
木曜日の朝、黒峰恒一は教室の扉を開けた瞬間に、空気の密度が昨日までと少し違うことに気づいた。
別に、誰かがあからさまに騒いでいるわけではない。
ひそひそ声が飛び交っているわけでもない。
でも、視線の止まり方が違う。
何人かがこちらを見て、すぐに目をそらす。
また別の何人かは、見たあとで隣の子へ小さく何かを言う。
その一つ一つは露骨ではない。露骨ではないからこそ、逆に“もう広がっている”感じがした。
「……あー」
席へ着く前に、ことねがすでに頭を抱えていた。
「その顔、何だよ」
恒一が聞くと、ことねは机に突っ伏しそうになりながら答える。
「来た」
「何が」
「“誰が本命か”ってやつ」
心の底から嫌な予感しかしない。
「もうそこまで行ったのか」
「行った」
ことねは顔だけ上げて、半泣きみたいな目をした。
「今日の朝だけで二人に聞かれた。しかも“黒峰くんって結局誰が本命なの?”って、すっごい軽い感じで」
そこまで直球になるのか。
写真から始まり、放課後の寄り道、学食、差し入れ、生徒会長の“消さずに残す”判断。
それらが全部、クラスや学年の中でじわじわ線になってきたのだろう。
そして人は、線がいくつも見えると、最終的に一本へまとめたがる。
誰が一番なのか。
誰が本命なのか。
その雑な整理へ向かうのは、ある意味で自然だった。
「……最悪だな」
恒一が本音を漏らすと、通路側から凛が口を挟んだ。
「今さら感あるけどね」
「朝霧さん、そういう時ほんと冷静だよね」
ことねが言うと、凛は頬杖をついたまま肩をすくめた。
「冷静じゃないとやってられないから」
「聞かれたのか?」
恒一が問うと、凛はあっさりうなずく。
「聞かれた」
「何て?」
「“朝霧さんって、黒峰のことどう思ってるの?”って」
ことねが「うわー……」と呻く。
「それで?」
「適当に流した」
凛は淡々としている。だが、その“適当に流した”の中身が簡単ではなかったことは、声の温度で少し分かった。
「でも、たぶん顔には少し出たと思う」
「自己分析が冷静すぎる」
「自分のことだし」
そこへ、窓際から静かな声が落ちた。
「私も聞かれた」
朱莉だった。
彼女はいつものように鞄を整えていたが、その手元が少しだけ止まっている。
「“火乃森さんって、幼馴染なんでしょ? じゃあ一歩リード?”って」
「うわあ……」
ことねがますます頭を抱える。
「言い方がもう実況みたいなんだけど……」
「ほんとに」
朱莉は短く息を吐いた。
「だから“そういうのじゃない”って返したけど」
その“そういうのじゃない”が、今やどこまで効力を持つのか分からないのが嫌だ。
しおんは静かにノートを開いていたが、少しだけ顔を上げた。
「私は、“写真のやつ見た”って言われた」
やっぱりそこか。
写真の中の視線は、今でも尾を引いている。
しおん自身が静かなぶん、あの一枚だけは余計に印象へ残ったのだろう。
「なんて返したの?」
ことねが恐る恐る聞く。
「別に」
しおんはいつも通りだった。
「でも、別に、で終わらなかった」
「だろうなあ……」
恒一が思わず言う。
相手はたぶん、“別に”の中に意味を見つけたがる。
この空気の中で、何もありません、はもういちばん信用されない答えなのかもしれない。
◇
朝のホームルーム前、教室の空気は見えない熱を含んだままだった。
それは決して悪意のある熱ではない。
誰かを傷つけたいとか、揉めさせたいとか、そういう方向ではない。
ただ、人は面白いものを見ると意味をつけたくなる。
特に、元女子高で男子が少なく、しかもその男子の周囲に複数の女子が見える形で近づいているとなれば、なおさらだ。
「ねえ」
ことねが小声で言う。
「これさ、もう“黒峰くん周辺がにぎやか”じゃなくて、“誰が本命なのか”って話になってるの、ちょっとまずくない?」
「まずいよ」
恒一は即答した。
「かなりまずい」
「だよね」
「でも、その“まずい”を誰かに説明しようとすると余計に怪しくなるんだよ」
それが一番厄介だった。
たとえば「そういうのじゃない」と言えば言うほど、“じゃあどういうの?”と返される。
「誰とも特別じゃない」と言えば、“じゃああの距離感は何?”となる。
もう、きれいに収める言葉がない。
「……なんかさ」
ことねがぽつりと言った。
「本命っていう言葉、雑じゃない?」
「雑だな」
「だよね」
ことねは少しだけ唇を尖らせる。
「だって、みんな近い理由違うのに、最後だけ“で、結局誰?”ってまとめられるの、なんか違う」
その感覚はたぶん正しい。
ことねは“最初に話が通じた”位置。
朱莉は“昔から近い”位置。
凛は“ちゃんとしてる姿を見る”位置。
しおんは“静かな視線”の位置。
ましろは“生活に合う位置”。
いろはは“欠点を描きたい”位置。
ひよりは“食を共有する位置”。
どれも一列には並ばない。
なのに、外から見れば全部ひとまとめに“ヒロイン候補”みたいな顔をし始める。
それがたぶん、今この教室の空気だった。
◇
昼休み。
いつものようにことねと凛と朱莉としおんがそれぞれ近い位置へ集まり、そして今日に限って毒島ひよりまで顔を出したことで、状況はさらに混沌とした。
「先輩」
ひよりは相変わらず小さな声で、でも真っ直ぐ恒一を見た。
「この前の謎肉スナック、どうでしたか」
それを今、この空気の中で聞くのか。
ことねがすぐに反応する。
「ちょっと待って、それ何!?」
「この前、差し入れました」
ひよりが真顔で言う。
「試作の」
「差し入れ!?」
ことねの声が半音上がる。
「え、待って、またそういう新情報増えるの!?」
凛が額を押さえた。
「夢咲さん、リアクション大きい」
「だって増えるたびに状況悪化してない!?」
それはたしかにそうだ。
ひよりは不思議そうに首を傾げた。
「悪化、ですか?」
「毒島さん、それ本人の前で普通に差し入れの話するの、だいぶ強いよ」
凛が低く言うと、ひよりは数秒考えてから答えた。
「でも、感想知りたいので」
ぶれない。
そこだけは徹底してぶれない。
朱莉が小さく息を吐く。
「ほらね。こうやって新しい接点が増えるから、外から見てる側は余計に“誰が本命か”って話にしたくなるんだよ」
「食の相性も重要だと思います」
ひよりが真顔で返す。
その瞬間、ことねがとうとう机に突っ伏した。
「もうやだ……」
「毒島さん、その返しはだいぶ危ない」
凛が珍しく真剣に言う。
「危ないですか?」
「危ない」
「でも本当です」
ひよりはあっさりしていた。
「一緒に変なもの食べられる人、かなり貴重なので」
その言葉を聞いて、ことねが顔だけ上げる。
「……それ、ひよりちゃんにとっては“本命”に近いの?」
ずいぶん直球だ。
だが今の空気では、むしろそのくらいでないと輪郭が見えないのかもしれない。
ひよりは少しだけ考えた。
「食の本命、なら」
全員が黙る。
そのあと、ことねがゆっくり頭を抱えた。
「うわー……ズレてるのに強い……」
凛が小さく吹き出しそうになる。
朱莉は呆れたように視線を落とした。
しおんだけが静かだった。
「……でも、そういうことだよね」
しおんがぽつりと言う。
「みんな、本命の意味が違う」
教室のざわめきが、その一言だけを少し浮かび上がらせた。
「夢咲さんは、たぶん話の相性」
ことねが顔を上げる。
「火乃森さんは、積み重ね」
朱莉は何も言わない。
だが、否定もしない。
「朝霧さんは、見てるもの」
凛が眉を寄せる。
「小鳥遊さんは、生活」
ましろは小さくうなずいた。
「鳴瀬さんは、たぶん崩れ方」
いろはがそこにいなくても、言われたら確かにそうだ。
「毒島さんは、食べること」
「はい」
ひよりが即答する。
しおんは最後に少しだけ間を置いた。
「私は……」
そこで止まる。
ことねが思わず聞く。
「雪代さんは?」
しおんは少しだけ目を伏せてから言った。
「まだ、うまく言えない」
その答えは、誰よりも静かで、でも誰よりも重かった。
うまく言えない。
それは、何もないということではない。
むしろ、簡単な言葉ではまだ触れられない何かがあるということだ。
ことねがそれを聞いて、ほんの少しだけ息を止める。
凛は目を逸らさなかった。
朱莉は無言。
ひよりだけが“なるほど”という顔をしていた。
◇
その日の午後、黒峰恒一は一人で窓際に立っていた。
授業の合間の短い休み時間。窓の外では春の雲がゆっくり流れていて、グラウンドには体育のクラスが見える。平和だ。信じられないほど平和だ。
だが、自分の周囲だけは平和ではない。
誰が本命なのか。
その問いは、外から見れば分かりやすい。
でも内側にいると、まるで違う。
ことねの明るさに救われることがある。
朱莉の言葉には、昔からの重みがある。
凛のまっすぐな怒り方は、妙に効く。
しおんの静かな視線は、今でも気になる。
ましろの自然すぎる気遣いは、日常へ深く入ってきている。
いろはの“描きたい”には独特の熱がある。
ひよりの“一緒に食べたい”は、たぶん彼女にとってかなり深い。
どれが一番かなんて、今は本当に決められない。
というより、決める段階ですらない。
それなのに、周囲はもうそういう言葉で整理したがっている。
「……面倒だな」
ぽつりと漏れた本音に、自分でも少し笑ってしまう。
面倒だ。
すごく面倒だ。
でも、その面倒くささの中に、ちゃんと温度があることももう分かっている。
だから切れない。
だから誤魔化しきれない。
まだ誰も“本命”なんて決めていない。
なのに、その言葉だけが先にひとり歩きしている。
普通の青春は、たぶんもう戻らない。
でも、だからといって今ここにあるものを雑に扱うには、もう少しだけ大事なものが増えすぎていた。




