第108話 分からないところを教わるだけのはずなのに、距離まで少し近くなるのはあまり健全じゃない
勉強会というものは、始まって十五分を過ぎたあたりから、ようやく本当の顔を見せる。
最初の十分は、たいてい空気が落ち着かない。
席が少し近いだの、ノートの置き方がどうだの、飲み物の位置が危ないだの、勉強の前に片づけるべき細かいことが妙に多い。
でも、その“最初の揺れ”を越えると、今度は別の意味で距離が近くなる。
「……ここまでは、たぶん分かった」
夢咲ことねが、ノートを見下ろしたまま言った。
前方の机。
文化祭の時の相談席みたいになっているそこに、今は数学のノートと問題集が広がっている。
「たぶん、って何割だよ」
黒峰恒一が聞くと、ことねは少しだけ唇を尖らせた。
「七割」
「三割残ってるじゃん」
「でも最初よりはかなり進歩してるよ?」
「それはそう」
たしかに、始めた時のことねは“どこが分からないかも分からない”顔をしていた。
今は少なくとも、どこまでが分かっていて、どこで急に霧になるのかは自分で掴み始めている。
それだけでも勉強はだいぶ違う。
「じゃあ、その残り三割どこ」
「えっと……」
ことねがノートへ顔を寄せる。
自然と、恒一も同じ場所を見るために少し前へ出る。
近い。
そう思った瞬間、ことねの手元のシャーペンが止まった。
「……今、ちょっと近くない?」
「自分で寄ったんだろ」
「寄ったけど!」
ことねは少しだけ顔を赤くして言う。
「そういう正論で返されると、逆に逃げ場ないんだって」
「何の逃げ場だよ」
「今の距離感に決まってるでしょ!」
前方の空気が少し止まって、それから小さく笑いが起きた。
「夢咲さん、ほんと分かりやすいなあ」
凛が英語のプリントを見ながら言う。
「朝霧さん、そこ笑うなら助けてよ!」
「何を」
「空気を!」
「その空気、自分で増やしたんでしょ」
「それはそうだけど!」
朱莉が問題集から顔を上げて、小さく笑う。
「でも、実際近いよね」
「火乃森さんまで!?」
「いや、だってノート見るならそのくらいになるし」
朱莉はごく自然に言った。
「文化祭の時もそうだったけど、黒峰って“教える側”入ると距離詰めるのあんまり躊躇ないよね」
「そんなことないだろ」
「あるよ」
凛まで頷いた。
「今も完全に“見やすい位置”優先で入ってるし」
言われてみればそうかもしれない。
文化祭の時も、自分はいつの間にか人の間へ入って、動線を整えたり、足りないところを埋めたりしていた。
勉強会でも同じなのだろう。必要だと思えば距離を詰める。だが、その“必要”を受ける側には別の意味が乗ることがある。
「……黒峰くん」
ことねが小さく言う。
「ん?」
「もうちょっとだけ、心の準備させてから入ってきて」
「勉強会で何の準備だよ」
「だから、そういうとこなんだって!」
また笑いが起きる。
◇
その笑いが落ち着いたあと、ことねはようやくノートを指差した。
「ここ」
「うん」
「この式までは分かるんだけど、この次に急に答えっぽくなるのが嫌」
「嫌って何だよ」
「だって、途中で急に“はいこうなります”みたいな顔してくるじゃん数学って」
「数学に顔はないだろ」
「あるよ! たまにすごい自信満々の顔で飛んでくる!」
ことねの例えは雑だが、言いたいことは分かった。
恒一はノートの余白へ新しく式を書く。
「ここは、飛んでるように見えるけど、実際は前の式を一回分解してるだけ」
「分解」
「うん。ほら、ここを二つに分ける」
「あ」
ことねの声が少し変わる。
こういう瞬間があるから、教える側は少し報われるのかもしれない。
「見えた?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとか」
「いやでも、今のはほんとにちょっと見えた」
ことねはノートへ顔を近づけたまま、もう一度式をなぞる。
「ここを一回ばらして、そのあとまとめ直してるのか」
「そう」
「……うわ、急に数学が人間の言葉しゃべり始めた」
「今まで何に見えてたんだよ」
「呪文」
「ひどい」
でも、そのやり取りのあと、ことねの手はさっきより迷わず動き始めた。
「そこ、符号だけ気をつけて」
凛が横から言う。
「え、もう見えてるの?」
ことねが聞く。
「見えてる。今の流れでそこ逆にすると全部落ちる」
「朝霧さんって、ほんとにそういうところだけ怖いくらい見えるよね」
「だけ、は余計」
しおんが静かに口を開いた。
「ことね先輩、今ちょっと呼吸止まってた」
「え?」
「焦ると、途中で息止まる」
ことねが目を丸くする。
「そこまで見えるの?」
「見える」
「雪代さん、勉強会の観察対象そこなんだ……」
「大事だから」
しおんは静かだったが、たしかに大事だった。
ことねは焦ると一気に雑になる。なら、解き方だけでなく、止まり方まで見ている人がいるのは強い。
◇
「夢咲先輩」
小鳥遊ましろが、紙コップをことねの近くへそっと寄せた。
「もう一口飲んだほうがいいです」
「え、また?」
「今、ちょっと早くなってたので」
「何が」
「全部です」
ことねが数秒止まってから、素直に紙コップを持った。
「……たしかに、ちょっとテンパってたかも」
「です」
ましろは短く頷く。
「最初の一問で見えるようになると、逆に次を急ぎたくなるので」
「小鳥遊さん、勉強会の人間観察まで生活導線に入ってない?」
朱莉が言うと、ましろは真面目なまま答えた。
「入ってます」
「強いなあ……」
ことねが飲み物を一口飲みながら言う。
「ましろちゃんって、“勉強教える”では入らないのに、“勉強会が崩れないようにする”では一番近いよね」
その表現が妙にしっくり来た。
文化祭の時もそうだった。
ましろは主役の位置には立たない。
でも、誰かが止まりそうなところ、崩れそうなところへ自然に入る。
「小鳥遊」
恒一が声をかける。
「はい」
「ありがとな」
ましろは少しだけ目をやわらげた。
「先輩が助かるならいいです」
その返しは短い。
でも、文化祭後の今はそういう短い言葉のほうがよく残る。
◇
勉強会は、だんだん本当に勉強会らしくなってきた。
ことねは一問目を解き直している。
凛は英語のプリントを進めつつ、ことねが止まった瞬間だけ口を挟む。
朱莉は自分の問題を解きながら、必要なところだけ静かに手伝う。
しおんはほとんど喋らないが、時々一番本質的な一言を落とす。
ましろは飲み物と机の上を管理しながら、自分の勉強もちゃんとしている。
「……なんか」
ことねが二問目の途中で言った。
「うん?」
恒一が聞く。
「これ、思ったよりちゃんと勉強進むね」
「まだ二問目だけどな」
「いや、でも最初の十分を考えるとすごい進歩だよ?」
「最初の十分はお前が距離感に騒いでただけだろ」
「それも含めて勉強会なんだって!」
ことねは少しだけ笑った。
「だって、こういうのって“教えてもらう”こと自体に慣れるまで時間かかるし」
「慣れる?」
「うん。分かんないとこ見せるのって、ちょっと恥ずかしいじゃん」
その一言は、少しだけ本音っぽかった。
文化祭では役割があった。
でも勉強会では、“分からない”を見せることになる。
それは別の意味で距離を縮める。
「……ことね先輩、それわかる」
朱莉が言った。
「でしょ?」
「うん。教えてもらうって、できないところを見せるってことだし」
「そうなんだよねえ……」
ことねはノートへ視線を落とす。
「だから最初ちょっと変に騒いだのかも」
「今さら自己分析?」
凛が聞く。
「今さらです」
「遅いね」
「でも、今のはけっこう大事だよ」
恒一が言うと、ことねが顔を上げる。
「え」
「分からないところをそのまま出せるようになったなら、そこから先は早い」
一瞬、ことねが黙った。
「……そういうの、急に真面目に言うのずるい」
「何でだよ」
「ちゃんと嬉しくなるから」
その返しに、前方の席の空気が少しだけやわらかくなる。
◇
外はだいぶ暗くなり始めていた。
教室の蛍光灯の下で、ノートの白さだけがはっきり見える。
文化祭の時の灯りとは違う。
でも、今のこの明るさも悪くない。
勉強会が始まったのに、最初の十分はだいたい勉強以外の空気が強い。
けれど、その空気ごと越えたあとに残るのは、前より少し自然な近さだ。
分からないところを見せること。
隣でノートを覗かれること。
焦るのを笑われること。
それでも少しずつ進むこと。
文化祭とは違う。
でも、たぶん同じくらい、距離を動かす。
「……次、これいく?」
恒一が言うと、ことねはノートを見て、少しだけ息を吸った。
「うん」
さっきより、返事が落ち着いている。
分からないところを教わるだけのはずなのに、距離まで少し近くなるのは、たぶんあまり健全じゃない。
でも、今この教室の前方には、それを不健全と呼ぶ人はいなかった。




