第109話 勉強会は“教える側”より、“見られる側”のほうがたぶんずっと無防備だ
勉強会というものは、始まってしまえば案外ちゃんと進む。
最初の十分は空気が落ち着かない。
席が近いとか、声が大きいとか、飲み物の位置が危ないとか、どうでもいいようでどうでもよくない話に時間が溶ける。
でも、その揺れを越えたあとは、意外なくらい静かに形になる。
黒峰恒一は、ことねのノートを横から見ながら、そんなことを考えていた。
「……ここ、こう?」
ことねが小さく聞く。
「うん。その式変形で合ってる」
「ほんと?」
「ほんと」
ことねはノートと恒一の顔を交互に見て、それから恐る恐る次の式を書く。
さっきまでの“数学って急に自信満々の顔で飛んでくる”とか言っていた勢いは、だいぶ薄れていた。
今はちゃんと、わからないところを一つずつ潰している。
「夢咲先輩、今のよかった」
しおんが静かに言う。
「え、どこが?」
「止まる前にちゃんと確認した」
ことねが少しだけ目を丸くした。
「そんなの見てるの?」
「見えるから」
「もうその返し、完全に雪代さんの武器なんだよなあ……」
でも、ことねは少しだけ嬉しそうだった。
勉強会は、教える側が主導権を持っているように見える。
でも実際には、教わる側のほうがずっと無防備だ。
分からないところが見える。
理解の遅れ方が見える。
焦る癖も、変なところで意地を張る癖も、全部出る。
今のことねが、まさにそうだった。
◇
「で、次どこ?」
恒一が聞くと、ことねはノートの端を指で押さえたまま言った。
「次……ここ」
「そこはさっきと同じ理屈」
「うん。でも、同じ理屈って分かっても、手が止まる」
「なんで」
「だって、さっきは教えてもらった直後だから“わかった気”になってるだけかもしれないじゃん」
その言い方が妙に真面目で、恒一は少しだけ意外だった。
「夢咲先輩、今のそれかなり大事」
凛が英語のプリントから顔を上げずに言う。
「え」
「“わかった気になってるだけかも”って自分で思えるなら、たぶんちゃんと進む」
「朝霧さん、今のちょっと先生っぽい」
「夢咲さんが生徒っぽいだけでしょ」
「うわ、否定しづらい……」
小さく笑いが起きる。
朱莉は数学の別ページを解きながら、少しだけこちらを見た。
「ことね先輩って、分からない時はすぐ騒ぐけど、分かり始めると意外と丁寧だよね」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「火乃森さんに真顔で褒められると、なんか急に効くなあ……」
ことねは苦笑してから、もう一度ノートへ向き直った。
「……じゃあ、自力でやってみる」
「おう」
恒一は少しだけ椅子を引いた。
さっきまでかなり近かった距離が、ほんの少しだけ開く。
その瞬間、ことねがちらっとこっちを見た。
「なに」
「いや」
ことねはすぐに視線を戻す。
「ちょっと離れたなって」
「自力でやるなら、そのほうがいいだろ」
「そうなんだけど」
ことねは少しだけ唇を尖らせた。
「急に離れると、それはそれで心細い」
前方の空気が、一瞬だけ止まる。
「……夢咲さん」
凛が静かな声で言う。
「はい」
「今のは、たぶん数学より別の意味で危ない」
「分かってるよ!」
ことねがすぐに顔を赤くする。
「でも今のはほんとに勉強の話だったし!」
「半分はね」
朱莉が言う。
「半分!?」
「だって、教わる側ってそういうとこあるでしょ」
朱莉は淡々としていた。
「ちょっと分かったあとに、横から人がいなくなると急に不安になるやつ」
「あー……」
ことねが止まる。
「それは……ある」
「でしょ」
朱莉が小さく笑う。
「だから今のは別に変じゃない」
「火乃森さん、そういうの静かに助けるよね」
「文化祭の時からそうだったでしょ」
その返しが、少しだけやわらかい。
◇
少しして、ことねは本当に一人で解き始めた。
シャーペンの音。
時々止まる手。
小さく息を吐く気配。
教室の前方には、今までと少し違う静けさがある。
文化祭の時のような“全体が一つのことをやっている静けさ”ではない。
それぞれが別々の教科をやりながら、それでも同じ場所にいる静けさだ。
「……できた、かも」
ことねがぽつりと言った。
「見せて」
恒一がノートを受け取る。
式を追う。
途中の符号も、さっき止まった分解も、ちゃんと繋がっている。
「うん。合ってる」
「ほんと!?」
「ほんと」
「やった……!」
ことねが本気で安堵した顔をした。
その顔があまりにも素直で、前方の空気が少しやわらぐ。
「夢咲先輩、今の顔いいね」
しおんが言う。
「え?」
「ちゃんと一人で届いた顔」
ことねが少しだけ止まる。
「雪代さん、その褒め方独特だよね」
「そう?」
「うん。でもなんか、うれしい」
その横で、凛が小さく頷いた。
「今の一問、自力で越えられたのは大きいでしょ」
「うん!」
ことねは勢いよく頷く。
「しかも、最初より数学が人間の言葉しゃべってる!」
「その表現はまだ雑だけどね」
凛が言う。
「でも、さっきよりマシ」
「朝霧さん、その“さっきよりマシ”って言い方ひどいのにちょっと嬉しいのが悔しい」
「評価としては正確」
ことねが「またそれ!」と笑う。
勉強会の空気は、もう完全に文化祭とは別物だった。
でも、誰かが少し進むたびに全体の空気がやわらぐところは、やっぱり少し似ている。
◇
「黒峰先輩」
小鳥遊ましろが、静かに声をかけた。
「ん?」
「夢咲先輩、次にもう一問だけやったほうがいいです」
ことねがすぐに反応する。
「なんでましろちゃんまで!」
「今、達成感で終わると危ないので」
「うっ」
「一問できた直後って、“わかった”が一番強いタイミングなんです」
ましろは真顔で続ける。
「なので、今のうちに似た問題を一つだけやると定着します」
「……小鳥遊さん、普通に教える側のことも分かってるね」
恒一が言うと、ましろは小さく頷いた。
「見ていれば、だいたい」
「うわ、それまた強い」
ことねが机に突っ伏しそうになりながら言う。
「もうこの勉強会、全方向から見られてるじゃん」
「勉強会だから」
凛が言う。
「嫌なら一人でやるしかない」
「それは嫌」
「じゃあ頑張って」
「朝霧さん、優しいようで優しくないんだよなあ」
でも、ことねはちゃんと次の問題を開いた。
「……じゃあもう一問」
「うん」
恒一が頷くと、ことねはちらっとこっちを見た。
「今度は、あんまり離れないで」
「またそれ言うのか」
「だって、さっき一回心細かったし」
少しだけ笑いながら言う。
でも、半分は本音だと分かる。
「……わかったよ」
恒一が少しだけ椅子を寄せると、ことねはそれだけで少し肩の力を抜いた。
朱莉が、その様子を見て小さく笑った。
「ほんとに“見られる側”のほうが無防備なんだね」
「火乃森さん、それ今の私にかなり刺さる」
「だって事実でしょ」
「朝霧さんが乗り移った!?」
また笑いが起きる。
◇
外はすっかり暗くなっていた。
前方の席だけに、ノートと紙コップと問題集が残っている。
勉強会は、始まる前よりずっと静かで、始まった時よりずっと自然だった。
分からないところを教わるだけのはずなのに、距離まで少し近くなる。
しかも、その近さは文化祭の時みたいな特別な熱ではなく、もっと日常に近い。
教わる。
見られる。
できるようになる。
また隣へ寄る。
そういう小さな積み重ねのほうが、たぶんあとで強く残る。
「……これ、思ったより危ないかも」
ことねが次の問題へ向かいながら、小さく言った。
「何が」
恒一が聞く。
「勉強会」
「今さら?」
「今さら」
ことねは少しだけ笑った。
「だって、“分からないところ見せる”って、思った以上に距離近くなるんだもん」
その言い方は、さっきよりずっと静かだった。
勉強会は、教える側より見られる側のほうが、きっと無防備だ。
そして夢咲ことねは今、その無防備さの中で、前より少しだけ素直に近くなっていた。




