第107話 勉強会が始まったのに、最初の十分はだいたい勉強以外の空気が強い
放課後の教室というのは、人数が減るほど音の輪郭がはっきりする。
黒峰恒一は、前のほうへ集まり始めた面々を見ながら、文化祭前にも似たようなことを思った気がした。
窓際から差し込む夕方の光。
誰かが椅子を引く音。
鞄からノートを出す音。
ペットボトルの蓋をひねる音。
今日の前方の席には、文化祭の時みたいな飾りも特別な道具もない。
あるのは教科書、ノート、問題集、筆箱、飲み物。
それだけだ。
それだけなのに、何かが始まる前の空気は、やっぱり少し似ていた。
「……ほんとにやるんだね」
夢咲ことねが、自分で言い出したくせにそんなことを言った。
「今さら何言ってるんだよ」
恒一が返すと、ことねは数学の問題集を机へ置きながら苦笑する。
「いや、なんかさ。昼に話してた時は“勉強会やろう”って勢いだったけど、実際こうしてノート広げると急に現実感あるじゃん」
「範囲表もらった時点で現実だっただろ」
「それはそうなんだけど!」
ことねは椅子へ座って、少しだけ机の上を整える。
「でも、勉強会ってもっとこう……軽い口実っぽい響きあるのに、始まるとほんとに勉強なんだなって」
「何だその当たり前の感想」
「だって大事でしょ、そういう心の準備」
「夢咲さんの場合、心の準備をしてる時間で一問解けるよ」
凛が、すでにノートを開きながら淡々と言う。
「朝霧さん、始まる前から当たり強くない?」
「始まる前だから。始まったらもっと強いかも」
「うわ、こわ」
ことねが本気で肩をすくめる。
そのやり取りの横で、朱莉は椅子を引いて自然に座った。
しおんは最初からここにいたみたいな静けさでノートを開き、ましろはなぜか自分の勉強道具より先に飲み物の置き場所を整えている。
「小鳥遊さん、もう準備の向きが生活側なんだよね」
ことねが言うと、ましろは首を傾げた。
「勉強する前に机の上を整えたほうがやりやすいです」
「それはそうなんだけど」
「あと、途中で飲み物が倒れると全部終わるので」
「それもそうなんだけど」
「だから先に置きます」
その理屈の通り方が、やっぱりましろらしい。
恒一は自分の椅子を少し引いて、前方の机全体が見える位置へ座った。
「じゃあ、今日はとりあえず数学だけな」
「はい……」
ことねの返事が、すでに弱い。
「何だその声」
「いや、だって今から自分の分かってなさと向き合うんだよ?」
「勉強ってそういうもんだろ」
「もっと優しく言ってよ!」
「最初から優しくすると、お前そこに甘えるだろ」
「うっ」
図星だったらしい。
朱莉が小さく笑う。
「ことね先輩、もうだいぶ分かりやすいよ」
「最近ほんとみんなそれ言う!」
◇
勉強会は、始まる前の十分が一番勉強から遠い。
ノートを開く。
筆記用具を並べる。
どこをやるか決める。
その間に、どうでもいい会話が挟まる。
「ねえ、これ、席ちょっと近くない?」
ことねが言う。
「何が」
恒一が聞く。
「距離」
「勉強見るなら近いほうがいいだろ」
「そうなんだけど、そういう正論で返されると困るんだって」
「何で困るんだよ」
「今のタイミングで“近いほうがいい”って言われると、勉強の話なのに別の意味までつきそうだから!」
ことねがそう言った瞬間、前方の空気が少しだけ止まる。
「……夢咲さん」
凛が静かな声で言う。
「何」
「今の、自分で空気増やしただけだよ」
「分かってるよ!」
「分かってるならもう少し落ち着いて」
「朝霧さんは落ち着きすぎなんだよ!」
そこで小さく笑いが起きる。
しおんが静かにノートを開いたまま言った。
「でも、近いほうが見やすいのは本当」
「雪代さんまで!?」
ことねが机に突っ伏しそうになる。
「いや、今のは完全に勉強の話なんだけど!」
「うん」
しおんは小さく頷く。
「でも、ことね先輩が気にするのも分かる」
「……やめて、そこまで分かるの」
「見えるから」
「最近その返し、強すぎるんだよなあ……」
朱莉が、数学の問題集を開きながら少しだけ笑う。
「でも実際、勉強会って近くなる理由としてかなり自然だよね」
「火乃森さん、今さらっと危ないこと言ったよ」
ことねが反応する。
「危ない?」
「うん。“近くなる理由”って」
「だってそうでしょ。教えるなら隣寄るし、ノート見るなら顔も近いし」
「それをそんな静かに言うのが強いんだって」
朱莉は少しだけ肩をすくめた。
「文化祭の時より、今のほうが“自然に近い”感じあるし」
その一言で、前方の空気がまた少しだけ変わる。
文化祭の時は役割があった。
でも今は、役割ではなく“勉強を教えるため”という、もっと日常的な理由で距離が縮む。
そのほうが逃げ道が少ない。
◇
「……じゃあ、ほんとに始めるよ」
恒一が言うと、ことねは観念したみたいに問題集を押し出してきた。
「はい……お願いします」
「そんな改まるな」
「いや、だって今から数学のわからないところ全部見透かされるんでしょ?」
「全部は無理だろ。量が多すぎる」
「そこは優しく嘘ついて!」
「勉強会で嘘ついてどうするんだよ」
恒一は問題集のページをめくる。
「で、どこ」
「このへん」
「“このへん”じゃ広い」
「じゃあこの問題と、この問題と、この問題」
「飛び方が雑だな」
「だって分かんないところって、分かんないなりにまとまってるんだもん」
「それはもう基礎から見たほうが早いか」
「うわー……」
ことねが本気で天井を仰ぐ。
その隣で、凛が英語のプリントを広げつつも、普通にこっちの会話を聞いていた。
「夢咲さん、たぶん最初の式変形で曖昧なまま進めてるでしょ」
「え、なんで分かるの」
「顔」
「また顔!?」
「さっきから“どこが分からないかを説明しきれない人の顔”してる」
「朝霧さんって本当にそういうの嫌なくらい見えるよね」
「文化祭で鍛えられたから」
「また出た、その便利理論」
ことねは唇を尖らせたが、すぐに諦めたみたいにノートを引き寄せる。
「じゃあ、最初からでお願いします……」
「よし」
恒一はノートの端へ、新しく式を書き始めた。
問題を解く、というより、最初の土台から一緒に組み直す感じだ。
「ここ、まずグラフの形を見た時点で何が分かる?」
「上に開くか下に開くか」
「うん」
「あと……」
「あと?」
「……なんか、いろいろ?」
「雑」
「今のは優しく拾って!」
「拾った結果が“雑”だろ」
ことねが唸る。
でもちゃんと手は動いている。
その横で、しおんは静かに自分のノートへ問題を書き写していた。
朱莉は数学の別ページを解いていて、時々こっちを見る。
凛は英語をやりながらも、ことねが止まるタイミングだけ妙に正確に察して口を挟む。
「そこ、符号逆」
「うそ」
「ほんと」
「やだ!」
ことねが小さく声を上げると、ましろが前方の机の端へ紙コップをそっと置いた。
「夢咲先輩」
「え?」
「少し飲んだほうがいいです」
「……なんで今?」
「焦ると声が大きくなるので」
「うっ」
ことねが止まる。
前方の空気が、少しだけ笑いへ崩れた。
「小鳥遊さん、今日はもう完全に勉強会の環境担当だね」
朱莉が言う。
「必要な役目です」
ましろは真顔のままだ。
「先輩方、最初の十分でだいたい空気が散るので」
「その分析が怖いんだよなあ……」
ことねが紙コップを持ちながら言う。
でも、飲み物を一口飲んだあと、ほんの少しだけ落ち着いたらしい。
◇
勉強会が始まったのに、最初の十分はだいたい勉強以外の空気が強い。
でも、その十分があるからこそ、次の十分が少しだけ自然になるのかもしれなかった。
ことねがノートへ式を書き直す。
恒一が横から見る。
凛が必要な時だけ口を出す。
朱莉は別の問題を解きつつ、ことねが完全に詰まる前にさりげなくヒントを出す。
しおんは静かに進めているが、たまに一番本質的な一言を落とす。
ましろは全体の机の上を、勉強しながら半分くらい見ている。
文化祭の時とは違う。
でも、やっぱり似ている。
誰かが空気を作り、誰かが現実を回し、誰かが静かに整え、誰かが見えないところを支える。
「……なんか」
ことねが、ようやく最初の一問の途中までたどり着いて言った。
「うん?」
恒一が聞く。
「思ったより、ちゃんと勉強会だね」
「今さらかよ」
「いや、だって最初は“会う理由”寄りだったから」
ことねは少しだけ笑う。
「でも、始まると普通に勉強してる」
「当たり前だろ」
「その当たり前を一回確認したかったの!」
「夢咲さん、そういうとこほんと分かりやすい」
凛が言うと、ことねは少しだけ頬を膨らませた。
「でもさ、こういうのいいかも」
「勉強会?」
朱莉が聞く。
「うん」
ことねはノートを見ながら頷く。
「文化祭みたいに特別じゃないのに、ちゃんと“みんなで同じことしてる”感じあるし」
「静かだし」
しおんが小さく言う。
「それ」
ことねがすぐに笑う。
「文化祭の時より静か。でも、そのぶん近い感じする」
その言い方に、前方の席の空気がほんの少しだけやわらかくなる。
勉強会が始まったのに、最初の十分はだいたい勉強以外の空気が強い。
でも、その余白ごと、この時間はたぶん前より少しだけ自然に近い。
そして恒一は、ことねのノートへもう一度視線を戻しながら思っていた。
この感じだと、たぶん今日は一問じゃ終わらない。




