第106話 勉強会の場所を決めるだけなのに、もう少しだけ恋愛っぽくなるのはよくない
翌日の放課後、二年B組の前方の席には、文化祭前とは少し違う種類のそわそわがあった。
文化祭の時は、「何を作るか」「どこを直すか」「何が足りないか」で空気が動いていた。
今は違う。
「どこで勉強するか」
たったそれだけだ。
たったそれだけのはずなのに、黒峰恒一は、なぜか昨日より少しだけ落ち着かなかった。
「じゃあ、まず確認ね」
夢咲ことねが、すっかりいつもの位置になった前方の机でノートを開く。
その仕切り方がもう自然すぎて、恒一は少しだけ笑いそうになった。
文化祭が終わっても、こういう“みんなを同じ方向へ向ける役”はことねの中に残っているらしい。
「今日残れる人は、私、黒峰くん、朝霧さん、火乃森さん、雪代さん、小鳥遊さん」
「地味に多いね」
朱莉が言う。
「文化祭後の放課後にしては」
「でしょ?」
ことねは少しだけ嬉しそうに笑った。
「だから、逆にちゃんと決めないとだめかなって」
「何を」
恒一が聞く。
「場所」
ことねはノートへ丸を一つ書いた。
「教室でやるのか、図書室行くのか、ファミレス系まで広げるのか」
「いきなりファミレスまで行くの?」
恒一が言うと、ことねは真顔で頷いた。
「だって、勉強会って場所大事じゃん」
「夢咲さん、それ本当に勉強効率の話だけ?」
凛が静かに言った。
「朝霧さん、そういうの毎回一言多いんだよなあ……」
ことねはむくれたような顔をする。
「でも半分は本気だもん。場所で空気変わるし」
「それはそう」
凛はあっさり認めた。
「教室なら気軽。図書室なら静か。ファミレスは長くいられるけど、逆に雑談増える」
「朝霧さん、今の整理かなり助かる」
「助けるために言ってるし」
その返しが、いかにも凛だった。
◇
「私は、教室でもいいかなって思ってる」
朱莉が言った。
窓際の席へ軽く寄りかかりながら、でも声はかなり現実的だ。
「なんで」
ことねが聞く。
「一番動きやすいし、余計なお金もかからないし、時間になったらそのまま帰れるし」
「うわ、火乃森さんのその“ちゃんと生活してる人”感すごい」
「ことね先輩が雑すぎるだけでは」
「それは否定しきれない……」
ことねが小さく唸る。
でも、朱莉の意見はかなりもっともだった。
勉強会を長く続けるつもりなら、最初からハードルが低い場所のほうがいい。
「図書室は?」
恒一が聞く。
すると、しおんが静かに顔を上げた。
「図書室は静か」
「うん」
「でも、静かすぎると、ことね先輩は少しつらいかも」
一瞬、前方の空気が止まる。
ことねが、数秒遅れて反応した。
「……待って、雪代さん、それどういう意味?」
「ことね先輩、分からないところ聞く時、少し勢いで入るから」
しおんは穏やかなまま続ける。
「図書室だと、たぶん最初の一回は声の大きさで困る」
ことねが机に突っ伏しそうになる。
「うわー……否定できない」
「しかも、たぶん静かにしなきゃって思うほど余計にテンパるタイプ」
凛が静かに追撃した。
「朝霧さんまで!?」
「でも合ってるでしょ」
「合ってるけど!」
ことねは顔を上げて、しおんを見る。
「雪代さんって、ほんとにこういうのよく見てるよね……」
「見えるから」
「その返し、最近みんな使うようになってきてない?」
小さく笑いが起きる。
◇
「私は、最初は教室がいいと思います」
小鳥遊ましろが、静かに言った。
やっぱり今日もいる。
しかも、いるのがもうあまり不自然ではなくなってきている。
「理由は?」
凛が聞く。
「飲み物を置きやすいですし、途中で必要なものが出ても取りに行きやすいので」
「出た、生活導線」
ことねが即座に言う。
「その言い方は違います」
「いやでも、今のはかなりそうだったよ」
ことねは笑いながら続ける。
「ましろちゃん、勉強内容より先に“途中で必要なもの”のこと考えてるじゃん」
「必要だからです」
ましろは真顔のままだ。
「先輩方、勉強を始める前に、だいたい誰かが何か足りなくなりますし」
「うわ、否定できない」
恒一が言うと、ましろは小さく頷く。
「なので、教室が一番管理しやすいです」
「管理って言った」
ことねが目を丸くする。
「今、自分で管理って言ったよね?」
「言いました」
「ましろちゃん、もう完全に勉強会の保護者側なんだよなあ……」
でも、それを聞いていると、教室という案がだいぶ現実味を持ち始める。
気軽に集まれて。
少し喋れて。
わからないところをその場で聞けて。
必要なら荷物も取りに行ける。
「……じゃあ、今日は教室でいいんじゃないか」
恒一が言うと、ことねがすぐにこちらを見た。
「黒峰くん、それかなり助かる一言」
「そうか?」
「うん。だって最終的に決める時のひと言って、なんか大事だし」
「それ、俺が言う意味あるのか」
「あるよ」
ことねは少しだけ笑う。
「今日の勉強会、黒峰くんが教える側の中心っぽいし」
その言い方に、恒一は少しだけ言葉に詰まった。
たしかに、ことねが最初に数学を聞いてきた流れからして、今日は自分が見る側になるのだろう。
文化祭の時とは違うが、また別の意味で“間をつなぐ側”へ回る感じがある。
◇
「じゃあ決まり」
ことねがノートへ大きく書く。
第一回勉強会:放課後・教室
「第一回って」
朱莉が言う。
「いや、だって一回で終わるわけなくない?」
ことねはきょとんとした顔で返した。
「この範囲だよ?」
「それはそう」
凛が頷く。
「数学だけでも複数回必要」
「英語もでしょ?」
ことねが聞く。
「英語も」
「じゃあやっぱり一回じゃ無理じゃん!」
ことねは何故か勝ち誇った顔になる。
「いや、お前が勝つ話じゃないだろ」
恒一が言うと、ことねは笑った。
「でも、こういう“続く前提”の話ちょっと嬉しいじゃん」
その言葉が、少しだけ本音っぽくて、前方の空気がやわらかくなる。
文化祭の時と同じだ。
「今日だけ」ではなく、「明日も」「次も」が見える時、人は少しだけ安心する。
「……夢咲さん、それ半分は勉強会の話じゃないでしょ」
凛が言う。
「うっ」
「図星だね」
朱莉が笑う。
「いや、でも!」
ことねは少しだけ慌てて言葉を探した。
「勉強会が続くってことは、会う理由が続くってことだし!」
「もう完全に出てる」
恒一が言うと、ことねは観念したみたいにため息をついた。
「最近ほんと、隠す意味なくなってきたなあ……」
「文化祭で削れたんじゃない?」
朱莉が言う。
「何が」
「変な遠慮」
その言葉は、思ったよりまっすぐだった。
◇
「じゃあ、教科どうする?」
凛が話を戻した。
「今日はいきなり全部やるの無理だよね」
「数学かな」
恒一が言う。
「最初にことねがそこ詰まってたし」
「うん……」
ことねが少しだけ肩を落とす。
「異論はないです……」
「夢咲先輩、英語も後で見たほうがいい」
しおんが静かに言う。
「え、なんで」
「今日の一時間目、単語の時ちょっと止まってた」
「見られてる!」
「見えてたから」
「それなんだよなあ!」
また少し笑いが起きる。
しおんはそのあと、静かに続けた。
「でも最初は一教科のほうが、長くなりすぎなくていいと思う」
「うん、それはそうかも」
凛も頷く。
「今日は試運転みたいなものだし」
「試運転、って言い方がもう朝霧さん」
「だって、最初から詰め込みすぎると続かないでしょ」
その“続かない”を避ける発想も、やっぱり凛らしかった。
「じゃあ今日は数学」
ことねがノートに書く。
「で、分かんないとこを持ち寄る方式?」
「そのほうがいい」
恒一が答える。
「最初から全部やると終わらない」
「よし、了解」
ことねは本当に少し嬉しそうだった。
勉強会をする。
場所を決める。
教科を決める。
ただそれだけなのに、教室の前方の空気はもう少しだけ特別なものへ変わっている。
◇
準備が一段落したところで、ことねがふいに聞いた。
「ねえ」
「ん?」
恒一が返す。
「こういうの、文化祭の時とちょっと似てない?」
「何が」
「“どこでやる?”とか“何からやる?”とか決めてる感じ」
ことねは少しだけ笑う。
「前は文化祭の準備で、今は勉強会だけど」
「まあ、言われてみれば」
「私、こういう“みんなで一個のことやる前の空気”好きなんだよね」
その言い方は、ことねの芯のところを少しだけ見せていた。
完成したものも好き。
楽しい本番も好き。
でも、本当は“これから何か始まる前の空気”がいちばん好きなのかもしれない。
「夢咲先輩、それちょっと分かる」
しおんが小さく言う。
「え、雪代さんも?」
「うん。今はまだ静かだから」
「静か?」
「勉強始まる前の静か」
その言葉が妙に残る。
文化祭の時もそうだった。
前日準備の最後。
まだ人が入る前の教室。
何かが始まる前の静かさ。
勉強会にも、それがある。
◇
教室の時計が少し進む。
帰る生徒はもうほとんどいない。
前のほうの席だけに、小さな準備の空気が残っている。
第一回勉強会。
場所は教室。
教科は数学。
メンバーは、自然にこの顔ぶれ。
文化祭後の日常は、何もないように見えて、実は次の“理由”をずっと待っていたのかもしれない。
そして今、その理由がちゃんと形になり始めている。
「……じゃあ、始めるか」
恒一が言うと、ことねがすぐに顔を上げた。
「うん」
その返事が、妙に明るかった。
勉強会の場所を決めるだけなのに、もう少しだけ恋愛っぽくなるのは、たぶんあまりよくない。
でも、誰も今それを止めるつもりはなかった。




