第105話 勉強会の話が出た瞬間、みんな急に“会える理由”へ前のめりになる
テスト範囲表というのは、不思議な紙だ。
もらった瞬間は、ただ面倒くさいだけに見える。
現国、数学、英語、理科、社会。
どの教科もきっちり嫌な広さで、先生たちの「早めにやっとけよ」という雑な善意まで透けて見える。
でも、その紙はもう一つの役目も持っていた。
――会う理由になる。
黒峰恒一は、そのことを放課後の教室で、わりとはっきり実感していた。
◇
「じゃあ、ここ」
夢咲ことねが数学の問題集を開いて、机へ置いた。
「この二次関数の途中式、ぜんぜん分かんない」
「急だな」
恒一が言うと、ことねは真顔で返した。
「急じゃないよ。昼からずっと分かってなかったもん」
「それを今まで寝かせてたのか」
「寝かせたというか、現実逃避?」
「正直だな」
「正直が一番早いから」
「それ昨日作った理屈だろ」
「便利だから採用継続です」
ことねはそう言って、少しだけ椅子を近づけた。
前のほうの席。
文化祭中、何度も相談や作業で人が集まった場所だ。
今は机も元に戻っていて、布も灯りもない。
でも、不思議と“誰かと何かをする場所”としての空気だけは残っていた。
恒一が問題集を覗き込む。
「どこで止まった」
「えっと、ここまでは分かる」
「ここまでは、って」
「グラフ書くまでは気合いでいけた」
「気合いで数学するなよ」
「だって気合い大事じゃん」
「それで乗り切れるの最初の一問だけだろ」
ことねは小さくむくれた。
「黒峰くん、教える時だけちょっと容赦ないよね」
「教える時に甘くしたら意味ないだろ」
「うわ、急にできる人っぽい」
そう言いながらも、ことねはちゃんとノートを開いた。
文化祭の時にも思ったが、ことねは一度“やる”と決めたあとの切り替えが速い。最初は騒ぐ。焦る。大げさに絶望する。でも、誰かが横についてやる流れになると、意外なくらい素直に手を動かす。
「ここ、なんでこの式になるか分かるか?」
「……なんとなく?」
「はい、ダメです」
「今のは優しく言ってよ!」
「なんとなく、で進めると後で全部落ちるぞ」
「うう……」
ことねは唸りながら、シャーペンを握り直した。
◇
「夢咲さん、勉強会始めるならちゃんと段取り組む?」
通路側から声が入った。
朝霧凛だった。
もう帰るのかと思っていたが、範囲表と英語のプリントを片手に、まだ教室へ残っていたらしい。
「段取り?」
ことねが聞き返す。
「うん。今日みたいに“分かんない、教えて”でその場で始まるのも別にいいけど」
凛は少しだけ肩をすくめた。
「どうせなら、いつ、どこで、誰が、何をやるか、ざっくり決めたほうが効率いいでしょ」
「うわ、朝霧さんだ」
ことねが感心したみたいに言う。
「何その反応」
「いや、なんかもう、“勉強会”って単語が出た瞬間に現実が一気に形になる感じ」
「しないと、結局だらだらして終わるから」
その言い方はいかにも凛だった。
文化祭の時もそうだった。
ことねが空気を作り、自分がつなぎ、朱莉が見える完成度を整え、しおんが静かに温度を合わせる。その中で、凛はいつも“ちゃんと終わる形”へ持っていく人だった。
勉強会でもそれは同じなのだろう。
「じゃあ朝霧さん、やってよ」
ことねが即座に言う。
「何を」
「段取り」
「なんで私が」
「だって得意じゃん」
「得意だけど」
「ほら」
ことねはにやっと笑った。
「こういう時、朝霧さんが一番頼りになるんだよ」
凛は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……その言い方、ずるいね」
「え、そう?」
「分かってて言ってるでしょ」
「半分は本音です」
「半分は?」
「朝霧さんを動かすため」
「最低」
そう言いながらも、凛は完全には嫌そうではなかった。
「で、どうするの?」
恒一が聞く。
凛は少しだけ考える。
「まず、全員一斉じゃなくてもいいと思う」
「うん」
「テスト範囲広いし、教科で分けたほうがいい。数学見たい人、英語見たい人、暗記系を一緒にやる人。場所も、放課後教室でできる日と、図書室向きの日で分けたほうがいい」
「うわ」
ことねが目を丸くする。
「今ので、もうだいぶ勉強会っぽくなった」
「だって勉強会だから」
「朝霧さん、今日そういう正論しか言わない」
「今日は特に正論が必要な日でしょ」
「それは……そうだけど」
ことねは少しだけ唇を尖らせた。
でも、その横顔はどこか嬉しそうでもあった。
会う理由が、今、ちゃんと形になり始めているからだろう。
◇
「なら私も入る」
窓際の席から、朱莉が声を上げた。
いつの間にか、まだ帰っていなかったらしい。
鞄は持っているが、肩にはかけていない。
つまり、完全には帰る気になっていなかったということだ。
「火乃森さんも?」
ことねが聞く。
「うん」
朱莉は自然に前のほうへ歩いてくる。
「数学なら別に見れるし、英語もそこまで嫌いじゃないし」
「朱莉ちゃんって、なんか静かにできる側なんだよねえ」
「ことね先輩の“静かにできる側”って褒めてる?」
「かなり褒めてる」
朱莉は少しだけ笑った。
「でも、やるならちゃんとやりたい」
「うん」
「何となく集まって、何となく喋って終わるのはもったいないし」
その言い方も、やっぱり朱莉らしい。
昔から近いだけじゃなく、今の時間をちゃんと意味のあるものにしたい。そういう気持ちが言葉の奥にある。
「火乃森さん、そういうとこ強いよね」
ことねが言う。
「文化祭でも、最後にちゃんと形にしてく感じあったし」
「まあ、やるなら中途半端よりはね」
「うわ、それ言えるのかっこいい」
「ことね先輩、今日テンションの上下すごいね」
「勉強が絡むとそうなる!」
前のほうに笑いが広がる。
◇
「……私も」
静かな声がした。
全員がそちらを見る。
しおんが、いつものように静かな顔で立っていた。
席を立つ音すら小さい。
でも、その存在感は不思議と薄くならない。
「雪代さんも?」
ことねが聞く。
「うん」
「勉強会、やる?」
「やる」
短い。
でも、迷いはなかった。
「なんで?」
ことねが続けて聞くと、しおんは少しだけ考えてから言った。
「静かに長く一緒にいられるから」
一瞬、教室の空気が止まる。
昨日も似たようなことを言っていた。
でも、今日はそれが勉強会という具体的な形に変わっているぶん、前より少しだけ重い。
「……雪代さん、それ今かなり強い」
ことねが小さく言う。
「そう?」
「うん」
ことねは苦笑した。
「“勉強したい”じゃなくて、“静かに長く一緒にいられる”が先に出るの、かなりだよ」
しおんは首を傾げる。
「でも、本当」
「本当なのが余計強いんだって……」
凛が小さく息を吐いた。
「雪代さんは、そこ変に隠さないのずるいよね」
「隠す必要ある?」
「今のはちょっとあったかも」
でも、凛のその返しも少しだけ笑っていた。
◇
そこへ、教室の前扉から小さな影が現れた。
「先輩」
小鳥遊ましろだった。
「……来た」
ことねが言う。
「何その反応」
ましろが首を傾げる。
「いや、勉強会っぽい空気になると絶対来ると思って」
「来ます」
即答だった。
「なにその当然みたいな返し」
「勉強会なら、飲み物と糖分と時間管理が必要なので」
「うわー」
ことねが机に突っ伏しかける。
「ましろちゃん、もう生活導線ヒロインの顔隠す気ないじゃん」
「隠してません」
「そうなんだよなあ……」
ましろは前のほうの席まで来て、静かに続けた。
「放課後教室でやるなら、暖かい飲み物のほうがいいです。眠くなる人も出るので、甘いものは強すぎないものがいいと思います」
一瞬、全員の視線が集まる。
強すぎないもの。
その言い方に、匿名の差し入れ主の影が一瞬だけ重なったからだ。
でもましろは、そこに気づいているのかいないのか、普段通りの静かな顔をしている。
「……小鳥遊さん」
凛が言う。
「はい」
「勉強会の時点で、もう差し入れプランまであるの」
「あります」
「早いね」
「必要なので」
その揺るがなさに、恒一は思わず笑ってしまった。
「お前、ほんとにそういうとこぶれないな」
「先輩が止まりそうなところは、だいたい同じなので」
「言い方」
「事実です」
そのやり取りに、ことねが「出たー」と小さく笑う。
◇
こうして気づけば、勉強会の空気はほとんど完成していた。
ことねが言い出し、凛が形にし、朱莉が現実的に乗り、しおんが静かな強さを出し、ましろが生活面を整える。
文化祭とは違う。
でも、文化祭の時に一度つながった役割が、そのまま別の形で立ち上がる感じがあった。
「……なんかさ」
ことねが、小さく笑った。
「文化祭の次って、こういうのなんだね」
「こういうの?」
恒一が聞く。
「全員で一個のことやる感じ」
ことねはノートを閉じた。
「文化祭みたいに派手じゃないけど、でも“会う理由”ができると、やっぱりちょっと空気変わるじゃん」
「変わるね」
朱莉が頷く。
「さっきまでただの放課後だったのに、今はもう“じゃあいつやる?”の空気だし」
「実際、それ今決めたほうがいいよ」
凛が言う。
「言うと思った」
ことねが笑う。
「明日、放課後少し残れる人いる?」
「私はいける」
朱莉が言う。
「私も」
しおんが続く。
「私は、少し遅れるかもですが行けます」
ましろも言った。
そして、ことねが恒一を見る。
「黒峰くんは?」
その聞き方が、文化祭前の頃よりずっと自然だった。
「行く」
恒一が答えると、ことねは少しだけ嬉しそうに笑った。
「よし」
「その“よし”久しぶりに聞いたな」
「だって、こういうのはやっぱり最初の一回が大事だし」
ことねはそう言って、少しだけ目を細めた。
「勉強会って、会う理由としてかなり優秀だよね」
「本音出てるよ」
凛が言う。
「出てるけど?」
「もう隠す気ないじゃん」
「最近はあんまり意味ない気がしてきたし」
その言い方が、ことねらしくて、でも前より少し大人びていた。
テスト範囲が配られた日、みんな急に“会う理由”を手に入れる。
そしてその理由は、文化祭のあと少し静かになっていた距離を、また別の形で前へ進めるにはちょうどよすぎるくらいだった。




