第104話 テスト範囲が配られた日、みんな急に“会う理由”を手に入れる
文化祭が終わって、打ち上げも終わって、写真のざわつきまで一通り落ち着いたあとの教室には、奇妙な静けさがあった。
前より近い。
でも、まだ名前がつくほどではない。
何もない放課後に前のほうへ集まる。
昼休みに自然と会話が伸びる。
帰り際に一言置いていくのが普通になる。
そういう変化はたしかにあるのに、それを決定的にする“次の理由”だけがまだ来ていない。
黒峰恒一は、ここ数日の空気をそういうものとして捉え始めていた。
だから、その日六時間目の終わりに担任が教卓へ立ち、軽くプリントを振った瞬間、教室の空気が一段だけ変わったのがはっきり分かった。
「はい、静かにー。来月頭の中間、範囲表出すぞ」
一瞬だけざわめきが止まり、そのあと、嫌そうな声があちこちで漏れる。
「うわ、出た……」
「早くない?」
「文化祭終わったばっかじゃん……」
「終わったから来るんだよ」
その最後の一言を言ったのは朝霧凛だった。
通路側の席で、すでに現実を受け入れた顔をしている。
担任が出席番号順にプリントを配らせ始める。
後ろから前へ。
紙の擦れる音。
ため息。
絶望したような小さな笑い。
恒一の手元にも、やがて範囲表が回ってきた。
「……うわ」
思わず声が漏れる。
現国、数学、英語、理科、社会。
全部、思っていたよりちゃんと重い。
「その“うわ”は何点くらいの“うわ”?」
前から振り返ったことねが聞いてくる。
「まだ点は出てないだろ」
「いや、気分の話」
「六十八点くらいの“うわ”」
「絶妙!」
ことねは笑ったあと、自分の範囲表を見て一瞬で顔を曇らせた。
「……待って、私、今八点くらいの“うわ”なんだけど」
「それはもう赤点寄りじゃん」
「うるさいなあ……」
ことねはプリントを机へ伏せた。
「文化祭終わったばっかりなのに、なんでこんな現実戻し強いの」
「戻しじゃなくて通常進行」
凛が言う。
「夢咲さん、文化祭を特例だと思いすぎ」
「だって特例だったでしょ!」
「それはそう」
朱莉が窓際から少し笑う。
「でも、ことね先輩、今日のその反応かなり分かりやすい」
「火乃森さん、最近そういうのすぐ拾うよね」
「みんなそうでしょ」
朱莉は淡々としている。
「文化祭のあとから、顔に出るの見るの慣れたし」
「いや、それは嫌な鍛えられ方なんだけど?」
小さな笑いが広がる。
その笑いの中で、しおんだけは静かに範囲表を見ていた。
目線が速く動かない。
一行ずつ、落ち着いて追っている。
「雪代は余裕そうだな」
恒一が言うと、しおんは顔を上げた。
「余裕ではない」
「そうなのか」
「でも、今からやれば大丈夫そう」
「うわ、それ一番強い人の言い方」
ことねが机に突っ伏しそうになりながら言う。
「私、その“今からやれば大丈夫”が一番言えないタイプなんだけど」
「夢咲さんは、“今から焦ればまだ何とかなる”タイプでしょ」
凛が即答する。
「言い方!」
「でも合ってる」
朱莉が小さく頷く。
「焦ると一回火つくよね」
「みんなして私のこと何だと思ってるの!?」
「実際そうだから」
凛の返しに、また笑いが起きる。
担任は最後にもう一度教卓を軽く叩いた。
「文化祭気分はもう終わりな。分からんところは早めに聞けよー。あと、今回数学ちょっと広いから油断すんな」
その一言で、教室の中に軽い絶望が走る。
「終わった……」
「数学やば」
「範囲広すぎない?」
ざわつきの質が変わった。
文化祭の“何を作るか”から、今度は“どう乗り切るか”へ。
恒一はその空気の変化の中で、妙に冷静に思った。
ああ、これだ。
次の理由が来た。
◇
ホームルームが終わると同時に、教室のあちこちで範囲表の見せ合いが始まった。
「待って、この古文どこまで?」
「英語の文法やばくない?」
「理科、ワーク何ページだよ……」
文化祭の時とは違う。
でも、人が自然に集まる感じはどこか似ていた。
恒一が範囲表を見直していると、ことねが席をずるっと寄せてきた。
「ねえ」
「ん?」
「黒峰くん、数学いけるほう?」
「まあ、普通くらい」
「普通ってどっち」
「少なくとも“今この瞬間に八点の絶望顔にはならない”くらい」
「それ私のことだよね?」
「かなり」
ことねはむっとした顔をして、それから少しだけ声を落とした。
「……教えてくれたりする?」
その聞き方は、思っていたより控えめだった。
「どこを」
「だから、数学とか英語とか……」
「急に広いな」
「いや、だって今かなり範囲全体が敵だし」
ことねは苦笑した。
「文化祭の時は“会う理由ないと困る”とか言ってたけど、今は普通に理由できたなって思って」
その言葉に、恒一は少しだけ目を細めた。
「勉強会の理由か」
「そう、それ」
ことねはぱっと顔を上げる。
「勉強会ってさ、自然じゃない?」
「何が」
「会うのが」
その言い方が、いかにもことねだった。
素直で、少しだけずるい。
でも、たぶん本音だ。
「夢咲さん」
通路側から凛の声が入る。
「なに」
「今の、“勉強のため”って顔してるけど半分は違うでしょ」
「朝霧さんさあ!」
ことねが勢いよく振り向く。
「そういうの、本人の前で言う!?」
「本人の前だから言うんでしょ」
「いや、そうだけど!」
「そうなんだ」
恒一が言うと、ことねは一瞬だけ言葉に詰まり、それから顔を赤くした。
「もう、ほんと最近みんな容赦ない……!」
朱莉が少し遅れて前へ来る。
「でも、勉強会はありだと思うよ」
「火乃森さんまで?」
「うん。普通に」
朱莉は自分の範囲表を見ながら言う。
「文化祭のあと、何もない放課後に集まるのも自然になってるし。そこへ“勉強”っていう分かりやすい理由が乗るなら、むしろ一番やりやすいでしょ」
「それなんだよね」
ことねがすぐに頷く。
「私もそう思ったの!」
「思ったの、っていうか、それ黒峰に教わる口実欲しかっただけでは」
凛が静かに言う。
「朝霧さん、今日当たり強くない!?」
「事実に寄ってるだけ」
「もうその事実やめて!」
そのやり取りを、しおんが静かに聞いていた。
「勉強会、いいと思う」
短い一言だったが、全員がそっちを見る。
「雪代さんも?」
ことねが聞く。
「うん」
「なんで?」
「静かに長く一緒にいられるから」
一瞬、教室の空気が止まる。
「……それ、今わりと強いこと言ったよね」
ことねが小さく言う。
「そう?」
「うん。かなり」
しおんは少しだけ首を傾けた。
「でも、本当」
それ以上は言わない。
でも、その“本当”が妙に残る。
◇
放課後。
範囲表をもらったあとの教室は、やっぱり昼とは違う顔になっていた。
文化祭の時みたいに全員が同じ方向を向くわけではない。
でも、“やばい”“どうする”“どこからやる”という不安が、それぞれを少しずつ繋いでいる。
恒一が鞄へプリントをしまっていると、ことねがまた前の席へ来た。
「ねえ」
「ん?」
「今日、ちょっとだけでいいから数学見てくれない?」
「今日?」
「うん。今ここで」
「今ここで、って」
「だって、帰ってから見たくないし」
その理屈があまりにもことねらしくて、恒一は少し笑ってしまう。
「お前、そういうとこ正直だよな」
「正直が一番早いから」
「それは初めて聞いた」
「今作った」
ことねは少しだけ得意げに笑った。
そこへ凛が、プリントを持ったまま近づいてくる。
「数学なら、私も少し見る」
「え」
ことねが目を丸くする。
「朝霧さんも?」
「何その反応」
「いや、てっきり“各自でやれば”って言うかと」
「そこまで冷たくない」
「今の朝霧さん、ちょっといい」
「夢咲さんは黙って」
でも、凛の耳がほんの少しだけ赤い。
朱莉も鞄を持ったまま立ち止まった。
「なら私も残る」
「火乃森さんも?」
「数学なら別に嫌いじゃないし」
しおんは、それを見て少しだけ間を置いた。
「私も」
その一言で、ことねが笑う。
「うわ、もう完全にできる流れじゃん」
「夢咲さんが最初に言い出したんでしょ」
凛が言う。
「そうだけど!」
「じゃあ責任持って最初に問題解いて」
「それは別問題なんだけど!?」
教室に笑いが広がる。
文化祭の次は、勉強会。
大きなイベントじゃない。
でも、“会う理由”としては十分すぎるくらい強い。
しかも、勉強会には文化祭と違う良さがある。
騒がしくなくていい。
静かに近くいられる。
教える、教わる、待つ、見る、差し入れる、という役割の違いまで自然に生まれる。
「……なんか」
恒一が言う。
「うん?」
ことねが聞く。
「文化祭終わったのに、次の理由来るの早いな」
ことねは少しだけ笑った。
「それ、ちょっと嬉しそうに言ってない?」
「言ってない」
「いや、今のはちょっとそうだったよ」
朱莉が言う。
「黒峰、前より“また集まる理由がある”の嫌がらなくなったし」
「それはそうかも」
凛も淡々と頷く。
「文化祭の時に慣れたんでしょ」
「ほんと便利だな、その理屈」
「便利だから」
またそれだ、とことねが笑う。
でも、その笑いの下で、みんな少しだけ分かっていた。
テスト範囲が配られた日、教室はまた別の意味で一つへ寄る。
文化祭ほど派手じゃない。
でも、次に距離を動かすには十分な“会う理由”になる。
そして黒峰恒一は、配られた範囲表を鞄へ入れながら、少しだけ思っていた。
この感じだと、たぶんここからまた、放課後が増える。




