第103話 次は何もない日常の中で、誰が一番近くにいるのか
文化祭が終わって、打ち上げも終わって、写真まで一通り回りきったあと。
黒峰恒一は、ようやく少しだけ分かってきたことがあった。
大きなイベントは、人間関係を一気に動かす。
でも、そのあとに何が残るかを決めるのは、もっと小さい時間なのだ。
何もない昼休み。
理由のない放課後。
帰り際の一言。
提出物の確認。
机の横で止まる数秒。
そういうもののほうが、案外静かに、でも確実に距離を変えていく。
◇
その日の朝、教室はいつも通りだった。
チャイム前のざわめき。
前の席で話している女子たち。
窓際で眠そうにしている男子。
誰かがノートを忘れて慌てている声。
文化祭前にも、たぶん同じ景色はあった。
でも、今はその景色の中に“誰がどこで自然に近いか”が少し見えるようになってしまっている。
恒一は席へ着き、いつものように机の中を確認した。
何もない。
ノート。
教科書。
筆箱。
それだけだ。
「……今日は何もないんだな」
小さく呟いた瞬間、自分で少しだけ止まった。
“何もない”ことに対して、わざわざそんな感想を持つようになっている。
それがもう、前の自分とは少し違う。
「何がないの?」
後ろからことねの声がした。
「うわ」
「それ最近多いよね」
ことねは苦笑しながら、自分の席へ鞄を置く。
「びっくりしすぎ」
「いや、お前のタイミングがいいんだよ」
「で、何がないの?」
「……机の中」
ことねは一瞬だけ黙って、それから少しだけ目を細めた。
「あー」
「その“あー”やめろ」
「だって分かるし」
ことねは、少しだけ声を落とした。
「最近、“何もないんだ”ってちょっと思うようになってるでしょ」
「そんなに顔に出るか?」
「前より出る」
ことねは言い切った。
「文化祭前なら、机の中なんて見ても“何もない、はい終わり”だったじゃん」
「……まあ」
「今は、“何もない”のあとに一拍ある」
その指摘は、かなり図星だった。
◇
一時間目のあと、二時間目のあと、昼休みへ向かうまでの間にも、小さな会話はいくつもあった。
「黒峰、それ次提出」
と凛が短く言う。
「ありがとう。今日ちょっと眠そう」
とましろが当然みたいにお茶を差し出す。
「その英単語の範囲、昨日も言ってたよ」
と朱莉が静かに笑う。
「今日、風強い」
としおんが窓の外を見て言う。
「聞いて、今朝コンビニで新作パン見つけた」
とことねが関係ない話を持ってくる。
どれも大した内容ではない。
でも、その“大した内容ではない”一言たちが、今は前よりずっと自然に行き来している。
昼休み、前方の席へ集まるのも、もはやほとんど説明がいらなかった。
「ねえ」
ことねがパンを開けながら言った。
「うん?」
恒一が返す。
「最近さ、“誰が一番近いか”って、文化祭みたいなイベントで決まる感じじゃなくなってきてない?」
その一言で、前方の空気が少しだけ静かになる。
「いきなり強いね」
朱莉が言う。
「いや、でも本当じゃない?」
ことねは珍しく真面目だった。
「文化祭の時は、入口とか灯りとか、誰がどこで目立つか、みたいなのあったじゃん」
「うん」
「でも今はもう、何もない日常の中で自然に近い人のほうが強い感じする」
凛がペットボトルを机へ置く。
「“強い”って言い方が雑だけど、意味は分かる」
「朝霧さんがそう言うなら、たぶんかなりそうだよ」
ことねが言うと、凛は少しだけ目を細めた。
「何それ」
「だって、最近の朝霧さん、変に本質だけ拾うし」
「文化祭で鍛えられたので」
「その便利ワードもう何回目?」
少し笑いが起きる。
でも、その笑いのあとでも、ことねの言葉は残っていた。
何もない日常の中で、誰が自然に近いのか。
たしかに、それがこれから先の本当の勝負なのかもしれない。
◇
「私は」
朱莉が静かに言った。
「前より、“昔から”だけじゃなくて“今ここにいる”ほうが大事になってきた感じする」
ことねがそちらを見る。
「火乃森さん、それ最近ずっと強いよね」
「そう?」
「うん。静かなのに強い」
朱莉は少しだけ苦笑した。
「文化祭のあとって、そうなるんじゃない?」
「どういう意味?」
「だって、イベント中はみんな一緒に動いてるから、近さが一気に見えるでしょ」
「うん」
「でも、終わったあとって、“じゃあ普段はどうなの”が残る」
それは、とても朱莉らしい言い方だった。
目立つことを言うわけじゃない。
でも、静かに核心へ触れる。
「しおんは?」
ことねが聞く。
しおんは少しだけ考えてから、静かに答えた。
「今は、前より誰が近いか、より」
「うん」
「誰といるのが自然か、のほうが見える気がする」
「……ああ」
恒一は、その言葉に少しだけ納得した。
近い、というのは一瞬でも作れる。
でも、自然かどうかは、何もない日常の中でしか分からない。
「小鳥遊さんは、生活に近い」
しおんが続ける。
「夢咲先輩は、話し始めるのが近い」
「え」
ことねが小さく目を丸くする。
「うれしいけどちょっと照れる」
「朝霧先輩は、理由を作るのが近い」
「言い方」
凛が言う。
でも、少しだけ笑っていた。
「火乃森先輩は、昔からと今のあいだが近い」
「それ何かすごいな」
朱莉が言う。
「黒峰くんは」
しおんは一度だけ視線を上げた。
「最近、前より受け取るのが近い」
それは、自分では少し気づきにくい変化だった。
「受け取るのが?」
恒一が聞く。
「うん。前より、人の言葉とか気配をそのまま受け取る」
しおんは穏やかに言う。
「文化祭前は、もう少し流してた」
その言葉に、恒一は小さく息を吐いた。
たしかにそうかもしれない。
匿名のメモも。
ことねの本音も。
凛の静かな素直さも。
朱莉の幼馴染としての揺れも。
ましろの当然みたいな近さも。
前より、流せなくなっている。
◇
午後の授業を終えて、放課後になっても、その感覚は少し残っていた。
今日は、ほんとうに特別なことは起きない日だった。
誰かと二人きりになるわけでもない。
新しい差し入れもない。
劇的な写真も出てこない。
喧嘩も告白もない。
それでも、気づけば前の席に少しだけ残っていた。
ことねが「じゃあ、私は今日は早めに帰る」と言ってから、一度だけ恒一のほうを見て笑う。
凛が「プリント忘れないで」と短く言って、自分の分だけではなく恒一の机の上まで確認する。
朱莉が「また明日」とごく自然に言って、前よりその一言が長く残る。
しおんはいつも通り小さく手を振って、「今日は静かだったね」とだけ言う。
ましろは教室の前を通りがかって、「先輩、明日一限提出です」と当然みたいに置いていく。
何も起きていない。
でも、誰がどう近いかは、むしろこういう日のほうがはっきり見える。
◇
最後に一人になって、恒一は机へ手を入れた。
何もない。
それを見て、今日は少しだけ違う気持ちになった。
「……今日は何もないんだ」
前なら、それで終わりだった。
今は、その“何もない”の中にも、別のものが見える。
匿名の差し入れ主の正体はまだ分からない。
でも、その人だけが近いわけではない。
ことねも、凛も、朱莉も、しおんも、ましろも、それぞれ違う形で前より近い。
次に試されるのは、文化祭みたいな特別なイベントじゃない。
何もない日常の中で、誰がいちばん自然に近くにいるのか。
その静かな勝負なのだろう。
恒一は机の中から手を抜き、ゆっくりと鞄を閉じた。
文化祭は終わった。
でも、そのあとに始まったものは、まだ全然終わっていない。




