第102話 理由のない会話が増えた時、人間関係はもう前と同じじゃない
文化祭が終わってしばらく経つと、人間関係は一度“普通”へ戻る。
戻るはずだった。
でも、黒峰恒一のまわりだけは、どうもその“普通”の形が前と少し違っていた。
大きな事件は起きていない。
匿名の差し入れ主の正体もまだ分からない。
文化祭みたいな、全員が同じ方向を向くイベントももうない。
それなのに、会話だけは増えていた。
増えたといっても、長い話ではない。
ほんの一言。
授業前の短い確認。
昼休みの軽い雑談。
帰り際の、小さな呼び止め。
でも、その“理由のない一言”が、前よりずっと自然になっている。
◇
その朝も、始業前の教室はいつも通りざわざわしていた。
黒峰恒一は席へ着いて、机の中を一応確認して、何もないことを確かめる。
それから教科書を出そうとしたところで、前の席からことねが半分だけ振り向いた。
「ねえ」
「ん?」
「今日の一時間目、現国だっけ?」
「そうだろ」
「やっぱり? 時間割見たのに一瞬だけ不安になった」
「お前、それ昨日も似たようなこと言ってたぞ」
「朝ってそういうものじゃない?」
「夢咲さんはそういうものかもね」
通路側から凛が入ってくる。
ことねがすぐに反応する。
「朝霧さん、今ちょっと失礼だったよね」
「事実」
「その“事実”ほんと便利だなあ」
小さな笑いが起きる。
会話としては、ほとんど意味がない。
ただ一時間目の確認をしただけだ。
でも、文化祭前なら、ことねがわざわざ黒峰へそれを聞くことも、凛が自然にそこへ混ざることも、もう少し少なかった気がする。
理由がなくても、言葉が伸びる。
今はそれが当たり前になりつつある。
◇
二時間目の終わり、先生が出ていったあとにプリントが配られた。
後ろから前へ回す流れの中で、朱莉が自分の分を見てから、ひょいと恒一へ一枚差し出す。
「これ、黒峰の落ちてた」
「ん?」
見れば、自分の机の横へ滑っていたらしい連絡プリントだった。
「あ、悪い」
「最近ちょっと多いよ」
朱莉が小さく笑う。
「文化祭終わってから、黒峰、たまに考え込みながら手元雑になるし」
「そんなにか?」
「そんなに」
その言い方がやわらかい。
責めているわけじゃない。
でもちゃんと見ている。
「火乃森さん、それ最近ちょっと“幼馴染の慣れた注意”として強いよね」
ことねが後ろから言う。
「そう?」
「うん。“はいはい見ときましたよ”感ある」
「何その言い方」
朱莉は苦笑するが、否定はしない。
これもまた、文化祭前より増えた会話だ。
用事があるからではなく、落ちたプリントひとつから自然に会話が伸びる。
◇
昼休み。
やはり前方の席へ、なんとなく人が集まる。
ことねがパン。
凛が小さめの弁当。
朱莉が購買のサンドイッチ。
しおんは今日も静かに席へ着く。
恒一は家から持ってきた弁当箱を開いた。
「ねえ」
ことねが、ストローをくるくる回しながら言った。
「最近さ」
「うん」
恒一が返す。
「なんか、前より普通に話しかける理由が増えてない?」
「理由が増える?」
「うん。いや、理由っていうか……理由ないのに話すのが増えてる、のほうが正しいかも」
「昨日も似たようなこと言ってたな」
「言ってたっけ」
「何も起きてない放課後の話で」
「あー……」
ことねは少しだけ考えて、それから笑った。
「じゃあ、やっぱそうなんだ」
「何が」
「私だけじゃなくて、ちゃんと増えてるんだなって」
凛がペットボトルを机に置く。
「増えてると思うよ」
「朝霧さんも?」
「うん」
「珍しく即答だ」
「別に珍しくないでしょ」
そう言いながらも、凛は少しだけ視線を逸らした。
ことねがそこを見逃すはずがない。
「今ちょっと照れた?」
「照れてない」
「でも、“増えてると思うよ”って言い切ったじゃん」
「言い切るくらいにはそうだから」
その返しに、前方の空気が少しだけやわらぐ。
「……やっぱり、文化祭って変えるんだね」
ことねが小さく言う。
「何を」
しおんが聞く。
「会話の始まり方」
その表現が、妙にきれいだった。
文化祭が変えたのは、告白でも修羅場でもない。
もっと手前。
会話の始まり方だ。
「前は、“話しかける理由”探してた気がする」
ことねは続ける。
「今は、“あ、これ言っとこう”で普通に言えちゃう」
「それ、たぶんみんな少しある」
朱莉が言う。
「文化祭中って、毎日何かしら声かける必要あったし」
「だから“話しかけるハードル”が下がったのかも」
凛が整理するように言った。
「用事で何回もやってるうちに、それが普通になった」
「……朝霧さん、それかなり納得」
ことねが頷く。
「用事の顔で近づいてたのが、今はそのまま雑談にも使える感じ」
「使える、って言い方」
恒一が言うと、ことねは笑った。
「でも実際そうでしょ」
たしかにそうだ。
文化祭前なら、昼休みに前の席へ来て少し話して帰る、みたいなことはもう少し意識したはずだ。
今は、それが自然だ。
◇
しおんが、その会話を聞きながら小さく言った。
「前より、沈黙のあとに一言が出るのが早い」
「え?」
ことねが聞く。
「どういうこと?」
「今みたいに、少し止まっても、誰かがすぐ次の言葉を置く」
しおんは穏やかな声で説明する。
「前は、止まると“何か言わなきゃ”って空気が少しあった」
「うん」
「今は、“少し止まっても大丈夫”だから、逆にそのあと自然に言葉が出る」
ことねが、ぽかんとしたあとで言った。
「雪代さん、それかなりすごい分析じゃない?」
「そう?」
「うん。だって今の、めちゃくちゃ分かるもん」
朱莉も頷く。
「文化祭中に、黙ったまま同じ空間にいる時間が増えたからかもね」
「灯り見てる時とか、机動かしてる時とか」
恒一が言う。
「そう」
しおんは頷く。
「だから、今は何もなくても少しだけ一緒にいられる」
その一言が、今の前方の席の空気をそのまま表していた。
何もない。
でも、一緒にいられる。
たぶん、それが前とのいちばん大きな違いなのだろう。
◇
五時間目のあと、廊下で偶然ましろとすれ違った。
「先輩」
「おう」
「今日、ノート提出です」
「え、今日だっけ」
「今日です」
「……危な」
ましろは、もはや当然みたいな顔で小さく頷く。
「さっき机の上見て、出てなかったので」
「そこまで見てたのか」
「見えたので」
このやり取りも、前より日常化している。
ましろは名前を出したまま生活へ入ってくる。
しかも、特別なイベントがない日ほど、その近さが目立つ。
「助かった」
恒一が言うと、ましろは少しだけ目をやわらげた。
「はい」
それだけ。
短い。
でも、必要十分だ。
◇
放課後、今日は珍しくことねが先に帰る流れになった。
「じゃ、私今日はここで」
「珍しいね」
恒一が言うと、ことねは鞄を肩へかけながら笑う。
「たまにはね。ずっと残ると逆にそれが普通になりすぎるし」
「もうだいぶ普通だけど」
「それなんだよ」
ことねは少しだけ目を細めた。
「最近、“黒峰くんに一言言ってから帰る”とかも普通になってきてるし」
「そんなの前からじゃないのか」
「前より増えたよ」
ことねはきっぱり言う。
「文化祭前は、用事ないとそこまでしなかったし」
「……そうかもな」
「でしょ?」
ことねは少しだけ嬉しそうに笑った。
「じゃ、また明日」
「おう」
その短いやり取りの自然さが、前より少しだけ近い。
ことねが出ていったあと、凛が教卓の近くからぼそっと言った。
「今の、だいぶ普通だったね」
「何が」
「“また明日”の感じ」
「……それをわざわざ言うか?」
「言うよ。最近そういうの見えるようになったし」
文化祭で鍛えられた観察眼。
それは匿名の差し入れ主を読む時だけじゃなく、自分たちの会話の変化にまで向くようになっている。
◇
帰り際、恒一はふと気づいた。
文化祭が終わってから、確かに大きな出来事は起きていない。
でも、小さな言葉は増えている。
今日の一時間目の確認。
落ちていたプリント。
昼休みの前方集合。
ましろの提出物提醒。
ことねの“また明日”。
どれも本当に小さい。
でも、その小さなやり取りの数が、前より明らかに増えている。
「……前より普通に喋る理由が増えたな」
誰もいない前方の席を見ながら、恒一は小さくそう言った。
理由のない会話が増えた時、人間関係はもう前と同じじゃない。
文化祭は終わっている。
匿名の差し入れ主の正体もまだ分からない。
それでも、日常の会話の始まり方だけは、確実に変わっていた。




