第101話 匿名の人は、もう十分近いところにいるのかもしれない
文化祭が終わってから、黒峰恒一には一つだけ増えた癖がある。
机の中を確認すること。
前は、そんなことしなかった。
学校へ来て、席に着いて、教科書を出して、それで終わりだった。
でも今は違う。
朝、教室へ入る。
鞄を置く。
机の中を見る。
何もないことを確かめる。
その流れが、もう半分体に馴染みかけていた。
「……ほんとに、嫌な癖ついたな」
木曜の朝、恒一は小さく呟きながら机の中を見た。
何もない。
ノート。
プリント。
筆箱。
それだけ。
それでいい。
何もないのが普通だ。
なのに、指先が机の奥を探ったあと、ほんの少しだけ拍子抜けした気分になる。
「自分で引くわ……」
「何に?」
すぐ後ろから声がして、恒一は小さく肩を揺らした。
「うわ」
「何その反応」
夢咲ことねが、呆れたような顔で立っていた。
「おはよ」
「おはよう……いや、急に話しかけるなよ」
「急にって、普通に来ただけなんだけど」
ことねは苦笑しながら自分の席へ鞄を置く。
「で、今日も何もなかった?」
「なかった」
「そっか」
その“そっか”が、最近のことねらしい少しやわらかい響きだった。
「でもさ」
「ん?」
「黒峰くん、最近机見る前にちょっと構えるようになったよね」
「そんなに分かるか?」
「うん。分かる」
ことねはあっさり言う。
「前は“確認”って感じだったけど、今は“あるかもしれない”って顔してる」
その指摘が、思った以上に正確で返事に困る。
文化祭のあとから、ことねは前よりこういう細かい変化を拾うようになった。
自分が静かになる時間を経験したからかもしれないし、単にずっと見ていたからかもしれない。
「……まあ、そうかもな」
恒一が認めると、ことねは少しだけ目を細めた。
「やっぱり」
それから、声を落とす。
「まだ、あの人のこと考えてる?」
「匿名の人?」
「うん」
「考えてる」
今度はすぐに答えられた。
ことねは少しだけ笑った。
「だよね」
◇
その日の昼休みも、前方の席へ自然と人が集まった。
ことね。
凛。
朱莉。
しおん。
そして恒一。
最近はもう、ここへ集まること自体を誰も説明しなくなっている。
前なら、「文化祭の相談があるから」で済んだ。
今は、理由がなくても自然だ。
ことねがパンの袋を開きながら言った。
「昨日の話、ちょっと引きずってる」
「何の」
凛が聞く。
「みんな少しずつ焦ってる、ってやつ」
ことねは少しだけ視線を泳がせる。
「あと、匿名の人も含めて、結局みんな“残り方”違うんだなって」
「それはそうでしょ」
凛が言う。
「夢咲さんは見える形で残るし、小鳥遊さんは生活に入る形で残るし、匿名の人は言葉だけ残してくるし」
「朝霧さん、その整理ほんとに容赦ないな」
「事実だから」
「もうそれ聞き飽きたよ!」
小さく笑いが起きる。
朱莉が、恒一の顔を少し見てから言った。
「でも、黒峰はそこ考えすぎてない?」
「何を」
「匿名の人のこと」
恒一は少しだけ箸を止めた。
「……考えすぎか?」
「少しは」
朱莉はやわらかく言う。
「正体を当てたい、っていうより、“どういう距離で見てたんだろう”を考えてる感じ」
それはたしかにそうだった。
誰なのか。
それも気になる。
でも最近の自分は、“この人はどれだけ近くで見ていたんだろう”のほうに考えが寄っている。
「文化祭中、教室にいた人」
しおんが小さく言った。
「うん」
恒一が頷く。
「それはたぶん間違いないよな」
「たぶん」
しおんは静かに続ける。
「でも、近い人多い」
それが問題だった。
文化祭中、自分の近くには本当にいろんな人がいた。
入口のことね。
裏を回す凛。
見える完成度を整える朱莉。
空気を見るしおん。
生活導線で入ってくるましろ。
変な角度から理解してくるひより。
顔で空気を拾ういろは。
近い人が、多すぎる。
「むしろ、近い人全員ちょっとずつ当てはまるのが困るんだよな」
恒一が言うと、ことねが即座に反応した。
「うわ、それ今かなり危ないこと言ったよ」
「何が」
「“近い人全員ちょっとずつ当てはまる”って、つまり候補みんな強いってことでしょ」
「まあ、そうなるな」
「それ、読まされる側だったら一番困るやつじゃん」
「読まされる側って何だよ」
「たとえ話!」
ことねは笑ったが、その笑いの奥に少しだけ本音の焦りも混ざっていた。
◇
昼休みの後半、ことねがふいに言った。
「ねえ、逆にさ」
「うん?」
恒一が聞く。
「“近い人全員当てはまる”なら、物理的に入れられるタイミングとかで絞れないの?」
「タイミング?」
凛が先に反応した。
「たとえば、最初の焼き菓子が入ってた日とか、喉飴が入ってた日とか」
「……それは、少し考えた」
恒一が答えると、前方の席が少しだけ真剣な空気になる。
「で?」
朱莉が聞く。
「文化祭前後って、教室出入り多すぎて、逆に分かんない」
それが一番厄介だった。
買い出しに行く人。
備品庫へ行く人。
先生を呼びに行く人。
ポスターを持ってくる人。
景品を見に行く人。
普段なら目立つ出入りも、文化祭中は全部流れの中へ溶けてしまっていた。
「しかも、机の位置も途中で変わってたし」
恒一が言う。
「文化祭用に動かした時期と、戻したあとで見え方も変わる」
「……ああ」
凛が少しだけ頷く。
「席の死角も違うしね」
「そう。だから、“物理的に入れられた人”で絞ろうとすると、むしろ範囲が広い」
ことねが机に肘をつく。
「それはもう、かなり近くにいるってことじゃん」
「うん」
しおんが小さく頷いた。
「十分近い」
その一言が、昼休みのざわつきの中でやけにはっきり聞こえた。
十分近い。
文化祭の熱の中で、机の位置も、人の出入りも、視線の動きも全部自然に紛れられるくらい近い場所にいた人。
「……それ、ちょっと怖いな」
恒一が言うと、ことねがすぐに返した。
「怖い?」
「いや、悪い意味っていうより」
「近すぎて?」
「うん」
ことねは少しだけ考えてから、静かに言った。
「でも、それが嫌じゃないから困るんだよね」
その言葉は、ことねらしいようでいて、かなり核心だった。
近い。
見ている。
気づかないうちに、やさしさを残していく。
普通なら少し怖くてもいい。
でも、その残り方がやさしいから、嫌いになれない。
◇
放課後、教室には珍しく恒一一人だけが残っていた。
ことねたちは、今日はそれぞれ用事があるらしく、少しずつ先に帰っていった。
文化祭後の放課後に一人になるのも、前なら普通だったのに、今は少しだけ久しぶりに感じる。
誰もいない前方の席を見る。
文化祭前から文化祭後まで、何度も人が集まった場所。
今は静かだ。
鞄を閉じる前に、いつものように机の中をもう一度見る。
何もない。
でも、今日はそのあとで手が少し止まった。
「……前なら、ここで終わりだったんだよな」
小さく呟く。
文化祭前の自分なら、机の中に何かあるかもしれないなんて思わなかった。
放課後に前の席へ自然に集まることもなかった。
誰かの顔色や声のトーンを、ここまで細かく見ることもなかった。
変わったのは、匿名の差し入れ主が現れたからだけではない。
文化祭があって、みんなと一緒に動いて、距離が変わって、その上で匿名の言葉が残ったからだ。
だから今、匿名の人は“ただの謎”ではなく、“近くにいるかもしれない誰か”として胸に残っている。
「……もう十分近いところにいるのかもしれない、か」
しおんの言葉を思い出す。
近い人全員ちょっとずつ当てはまる。
でもそれはつまり、“候補が曖昧”というより、“もう十分近い”ということでもある。
恒一は、机の中から手を引いた。
そして、いつものようにすぐ帰る代わりに、少しだけその場へ立ち尽くす。
最近、机の中を確認したあとに一拍止まることが増えた。
何かを期待しているのか。
何もないことに安心しているのか。
自分でも分からない。
でも、その一拍がある時点で、もう前の自分とは少し違うのだろう。
匿名の人は、もう十分近いところにいるのかもしれない。
そして黒峰恒一は、その可能性を否定できなくなったせいで、前より少しだけ机を閉めるのが遅くなっていた。




