感情と合理
来たる大いなる災禍について、私は思考する。
満足に動くこともままならぬ、この鉛のように重い身体で。
私は至らなければならない。
彼に出会う、あの未来へ。
そして、あの男を止めなければならない。
何度計算をやり直しても、届かない。
この場所からは、果てしなく遠い。
あの男の首に、この爪がかかることはない。
けれど、あの変数ならば……あるいは。
私の計算を狂わせる唯一の存在が、もうすぐ来る。
この私が……全てを知ることができる、この私が、分の悪い賭けにその全てを委ねるとは。
まったく、ままならないものだ。
願わくば――などとは滑稽だが、そう思わずにはいられない。
いずれ来る審判の時に、どうか悲嘆の雨が降らんことを。
――――――
「んで、ヴェルたちは今日どこに行ってるの?」
何でも屋の店内で、ルークはソファでくつろぎながらルルへ尋ねる。
「さぁ?アタシも詳しくは聞いてないわー。なんか、聖獣?とやらを探しに行ったみたい」
あくびを交えながら答えるルルは、暇そうに空中をふわふわと漂っている。
聖獣と聞いて、ルークが頭に思い描くのは、不死鳥、ペガサス、グリフォンなど、数多語られる伝説の獣。
そんなものを探してこいとは、また無茶な依頼を……。
ま、おおよそ依頼主の予想はつく。
おそらくは、いつも無茶を振るあそこだろう。
ルークはそれ以上考えるのをやめ、テーブルの上にぺたんと座るアイルへと視線を移す。
今は一生懸命に紙に絵を描いているようだ。
何を描いているのかは、さっぱりわからないが、楽しそうで何よりだ。
「――パパはお仕事とはいえ、こんな小さな娘を1人留守番させるなんてなぁ」
「1人じゃないわ!アタシもいるでしょ!――それにあんただって、あいつに頼まれてここに居るんでしょーが」
「まぁねぇ」
フンと鼻を鳴らしながら、ルークの言葉を否定する。
ルークもしばらくは街にいる予定なので、子供のお守りを依頼という形で引き受けていた。
アイルはかなり特殊な存在のため、信頼できないものには任せられないとのこと。
信頼という言葉を聞いて、一も二もなく引き受けたわけだが、育ち盛りの子供を日がな一日、家に閉じ込めておくというのはいかがなものか。
ルークは部屋の中を見渡す。
だが、この部屋に子供が遊べるような物など存在しない。
「アイルちゃん、どっか遊びに行くかい?」
「――う?」
アイルはルークの言葉を受け、可愛らしく首を傾げる。
ルークは視線でルルに通訳を頼む。
「お外、遊ぶ、行く、わかる?」
ルルは一語ずつ区切って、ゆっくりと発音する。
そんなことをしなくても、アイルとルルは念話のようなものである程度の意思の疎通ができる。
だが最近は、アイルに念話を交えて、言葉を教えようとしているようだ。
「……あい!」
ルルの言葉が伝わったのか、アイルは少し考える素振りを見せた後、元気よく手をあげて返事をした。
「――行くって」
「よし、じゃあ街の中を案内してあげよう。子供達が集まる広場も近くにあるしね」
ルークはそう言うと、アイルをひょいっと持ち上げる。
キャーキャー騒ぐアイルを、そのまま肩の上に乗せてやる。
そして店の戸締りをした後、3人は元気よく街へと繰り出す。
「お、今日はいい天気だ。――ね?アイルちゃん」
「あい!」
――――――
黙々と立ち上る煙の中、レイは叫ぶ。
「――セシルさん!走って!」
「……でも、まだヴェルさんが!」
あーもう、どうしてそこまで他人を気にかけていられるんだ。
レイは死体を前に、そこから動けないでいるセシルに苛立つ。
相手は敵うはずもない怪物。
逃げる以外の選択肢などないだろうに。
こうなると彼女はテコでも動かなそうだ。
仕方がないが、連れて行くしかない。
「わかりました。ヴェルさんは僕が連れて行きます。ですから煙が晴れないうちに、早く行ってください!」
レイは、自らが焚いた煙幕の中、方向を見失わないように、ヴェルの元へと走る。
いつもなら、こんな死体は捨て置いて、囮にでも使って逃げるのに、何をやっているんだ……。
地面に倒れ伏すヴェルを見下ろして、レイは自分の行動の愚かさを後悔する。
今はとにかく"これ"を運んで、安全な場所まで逃げなければ。
レイは死体を背中に背負うと、セシルの背中を追って走り出す。
背中にかかる重量は大したことはない。
元々痩せ型のヴェルに加え、現在その死体は、
――下半身が失われているのだから。
そしてレイは、後ろを気にして速度を落とすセシルに告げる。
「セシルさん!その背中の獣は捨てて行きましょう、囮に使います!」
レイの言葉にセシルは即座に否定する。
「ダメです!そんなことできません!この子も連れて行きます!」
レイはセシルに聞こえないように舌打ちを返し、頭の中の地図を思い出す。
「ならこのまま直線で逃げても追いつかれます!一旦どこかへ身を隠します。そこを左へ!」
その先に小さな洞窟があったはず、あの巨体ならばそこまでは入ってこれないだろう。
そして水の流れる音が聞こえてきて、レイは頭の中の地図が正しかったことに安堵する。
そしてレイが先頭となりセシルを案内する。
水音の先には滝壷があり、その滝の裏の小さな洞窟へと身を隠す。
「ここまで来れば、ひとまず大丈夫でしょう。蛇は周囲との温度差で獲物を見分けると聞いたことがあります。なので、滝の裏にいれば、見つかることはないと思います。――あれが本当に蛇なら、ですが」
言いながら、レイは背負っていた死体を下ろす。
そして、レイの言葉にセシルが全く反応しないため、振り返ったレイは彼女を見てギョッとする。
「ど、どうしたんですか?――そんなに怖かったんですか?」
セシルは泣いていた。
ぼろぼろと大粒の涙を流しながら。
鼻をすする音が、狭い洞窟内に響く。
「だ、大丈夫ですよ。とりあえずみんな無事だったんですから」
レイは、セシルが泣いている理由がわからず、宥めようとする。
「……無事?――無事ってなんですか?」
「……え?」
顔を上げたセシルはレイを睨む。
レイは何を言われているのか分からず、セシルの怒気に後退る。
そして足元に転がっている"それ"を見て気づく。
「あー、ヴェルさんですか。大丈夫ですよ、この人はここからでも普通に再生しますから。――ってセシルさんも知ってますよね?」
でも、ここまでの状態を見るのは、セシルは初めてかもしれない。
なるほど、見知った男のこの有様は、彼女にとってショッキングな光景だったというわけだ。
「――レイくん、ヴェルさんのこと置いて行くつもりでしたよね」
違うようだ。
責められているのは僕か。
「ええ、それが何か?」
レイは何がいけないのか分からない。
そしてセシルの気持ちも考えず、そのまま思った通りに答えてしまった。
「ヴェルさんは死なないんですよ?だったら少しでも時間を稼いでもらって、僕たちは逃げる。合理的だと思います。――リスクを負ってまで、連れてくる必要はなかったかと」
「……じゃあ、私が同じ状況だったとして、私のことも見捨てるんですか?」
セシルが何を言いたいのかわからない。
なぜそこでそんな話になるんだ。
「そんなの、助けるに決まってるじゃないですか。セシルさんは見捨てたりしませんよ」
「そうですか」
「さっきから、何を怒ってるんですか?」
レイは、こんな状況で言い争うことに、何の意味もないと分かった上でセシルに問う。
「はっきり言ってくれないとわからないですよ!」
セシルの剥き出しの怒気に、僅かに悲しみの色が混ざる。
そして掠れた声で、レイの問いに問い返す。
「――本当に、わからないんですか……」
レイはこの無意味な問答に、苛立ちを隠せなくなる。
「ええ、わかりませんね。ヴェルさんを見捨てたことを言っているのなら尚更です。あの状況でこの人を助ける意味がどこにあるんですか!?それとも僕が死ねばよかったんですか!?」
「違う!違う!そうじゃない」
「じゃあ何だっていうんですか!」
レイは、自分たちが身を潜めているのも忘れ、怒鳴り声をあげてしまう。
「どうして、私とヴェルさんに命の優劣をつけるんですか?――たとえヴェルさんが生き返れるとしても、あの怪物に永遠に殺され続けるかもしれないんですよ?――それなのに、当たり前のように見捨てることが、本当に正しいんですか?」
何を言ってるんだこの人は。
中途半端な倫理観を持ち出して、あの状況で何ができた?
答えは何もできない、だ。
3人揃って怪物の腹の中。
そして最後に立っているのは、ヴェルだけだ。
「そんなの、何の解決にもならない。――命に優劣があるなんて、それこそ当たり前だ。――何度でも蘇る不死身の男と、一度死んだら終わりの僕ら。その命の価値が、同等なわけないでしょう」
セシルはまるで冷たい水を浴びせられたように、一瞬息を呑む。
「――それでも、ヴェルさんが、ヴェルさんだけが苦痛を強いられていい理由にはなりません!」
なぜ僕はこんなに苛立っているのだろう。
セシルの言葉は全く合理的じゃない。
こんなことに意味はない。
「なら、あなたはこの人のために死ねるんですか?――この人は何度でもやり直せる、永遠のような時間で、あなたのことなんてすぐ忘れてしまいますよ」
相手を傷付けるだけの言葉なのに、止めることができなかった。
「だとしても……私は」
俯くセシルの表情は見えない。
見たくもない。
背中に張り付いた血が気持ち悪い。
レイはセシルの言葉を最後まで聞かずに、血で汚れた服を脱ぎ捨てる。
そして洞窟の入り口まで歩いて行き、膝をつくとそのまま滝に頭を突っ込む。
苛立つ感情を抑えられなかった。
流れ落ちる水音は、全ての音を遮り、沸騰した頭を冷やしていく。
金持ちの子供と薄汚れたガキ、どちらを助ければ得かなんて、誰にだってわかることだ。
それでもあの人は、両方を助ける選択をするのだろう。
――それは、あの頃の僕が一番欲しかった言葉じゃないだろうか。
苛立ちの理由はわかっている。
あの人は――セシルは正しい。
ただ、僕の醜さが、セシルによって浮き彫りにされたことを恥じただけだ。
謝ろう。
僕は僕で、あの状況で、全員を生かすために最善だと思って行動をした。
でも、最後の言葉は、言うべきではなかった。
レイは立ち上がり、セシルへ謝罪をするために歩み寄る。
「――セシルさん…………」
――そして見てしまった。
ヴェルの体に寄り添うセシルの、その表情を。
それは、慈愛に満ちた、悲しげな表情だった。
命を慈しみ、敬う、そしてヴェルへの感情。
言葉が出なかった。
ヴェルは死んでいるのに、体の中は再生しようと蠢いている。
吐き気をもよおすような、残酷な光景なのに。
それに寄り添う、不釣り合いなほどのセシルの慈愛と献身。
「……馬車の方を、見てきます。――可能なら、助けを呼びますので、ここにいてください」
謝ろうと思ったはずなのに、出てきたのは、ここから逃げ出すための口実だった。
レイはこちらを振り向くセシルの顔を見ないように、静かに洞窟を出て、走り出した。
――――――
「レイくん……」
セシルが伸ばした手は、力無く膝の上に落ちる。
謝れなかった。
レイは年下で、まだ子供で、私が守らなきゃいけなかったのに。
私が弱いせいで、レイに全ての決断を委ねてしまった。
その結果がどうであれ、私が彼を責める権利はない。
突然魔物に襲われて、仲間が致命傷を負った。
冒険者ならよくあることだ。
『私が同じ状況だったら』などと、レイを試すような言い方をしてしまった。
もしそうだとしたら、半身を食いちぎられて、絶命していく自分を、どうか連れて行ってくれなどとは思わない。
見捨てて、逃げてくれと思うだろう。
それなのに、彼は私を助けると言った。
本当は優しい子なのに。
あんな言い方しかできなかった。
私は、私の利己的な感情で、ヴェルを見捨てることができなかっただけなのだ。
それに他人を巻き込むなんて、あってはならないのに。
「――ヴェルさん……私、どうしたらよかったんでしょうか」
冷たい体は返事をしない。
答えてくれたとしても、この人は自分を見捨てたレイが正しいと言うだろう。
そんな残酷な運命を、甘んじて受け入れて。
自分の存在に価値を見出せない、悲しい人。
どうしても放っておけないと思うこの人は、一体何なんでしょう。
知りたい、この人のことを。
あなたがどれだけ価値のある人間か、教えてあげたい。
早く、あの家に帰りたい。
セシルは空の見えない洞窟の中で、穏やかな日々への回帰を静かに願うのだった。




