作業室の小さな菓子
湊は教室を出て、兵頭の後ろを歩いた。
昼休みの廊下には、まだ小さな紙袋を持つ生徒が何人かいた。けれど、兵頭はそちらには目を向けなかった。
兵頭は作業用の薄いファイルを小脇に抱えている。表紙の角に、式典局の備品確認票らしい紙が一枚挟まっていた。
式典局は、入学式や講堂行事の準備を受け持つ生徒組織である。高等部の生徒なら名前くらいは知っているが、正式に関わらなければ、普段はあまり意識しない。
兵頭が持っている確認票も、正式な役員用のものではないのだろう。だが、手書きの数字や付箋の位置を見る限り、ただの連絡用紙よりは細かく使われている。
「昼休みで終わる量なのか」
湊が言うと、兵頭は振り返らずに答えた。
「放課後に回すと面倒になる」
「何が」
「番号札と控室表示。講堂脇の作業室に仮置きしてある。放課後は上級生が使う」
「ああ」
「お前は数を読むだけでいい。俺が照合する」
「読むだけなら、俺じゃなくてもよくないか」
「昼休みに捕まって、文句も言わず、字を読み間違えない奴が近くにいた」
「便利なやつもいたものだね」
「だろう?」
兵頭の答えはいつもどおり短い。
ただ、足取りは速かった。
高等部の教室棟から講堂側へ向かうには、新校舎の廊下を抜け、旧校舎寄りの渡り廊下を通る。
昼休みのそこは、普段なら弁当を持って移動する生徒や、委員会の用事で歩く生徒がいる程度だった。今日は、その何人かの手元に小さな包みが見える。
「こういうの、式典局も関係あるのか」
「ない」
兵頭は即答した。
「ただ、講堂側は人が集まりやすい。今日みたいな日は余計に」
「渡す場所になる?」
「人目があるから、逆に安全だと思う奴がいる」
「なるほど」
「実際は邪魔だ」
兵頭らしい結論だった。
湊は軽く笑いかけたが、兵頭はそれを見ていなかった。小脇に抱えたファイルを開き、挟んでいた確認票に目を落としている。
作業室に着く前に、番号と置き場所をもう一度確かめているのだろう。兵頭は、そういう手間を省かない。
講堂脇の廊下に入ると、空気が変わった。
新校舎の昼休みが、教室のざわめきと弁当の匂いを含んでいるのに対して、こちらは紙と木の匂いが強い。古い掲示板、磨かれた床、来賓用の控室に続く扉。普段の生徒の場所から、行事の準備をする場所へ半歩入ったような感覚がある。
作業室の扉は開いていた。
中から、何人かの声が聞こえる。笑い声ではあるが、教室のそれより抑えられていた。誰かが一方的に騒ぐのではなく、相手の言葉が終わるのを待ってから返すような間がある。
「失礼します」
兵頭が先に声をかけた。
室内では、机が二つ並べられていた。片方には番号札の束、もう片方には小さな封筒や控室表示の紙が積まれている。壁際には折りたたみ椅子が寄せられ、床には紐でまとめた案内板が立てかけられていた。
式典局、と名のつく部屋ではない。あくまで講堂脇の作業室である。けれど、そこにいる生徒たちの動きには、ただの空き教室とは違う張りがあった。
作業を見ているのは、壁際に立つ上級生らしかった。式典局の腕章をつけ、案内板の束と確認票を見比べている。近くには、同じ腕章をつけた生徒がもう一人いて、控室表示を種類ごとに分けていた。
その手前で、九条院エリカが控室表示の紙をまとめていた。上級生から渡された束を確かめ、用途ごとに分けていく。
淡い灰みを帯びた金色の髪を控えめにまとめ、制服をきちんと着ている。目立つ飾りはない。それでも、室内に入った時、湊の視線はそこへ引かれた。
立っている位置のせいだけではなかった。
紙の端をそろえる時の手の向き。礼を言われた時の返事の短さ。隣の生徒へ束を渡す時に、相手が受け取りやすい向きへ直す間合い。
その少し後ろに、御厨紗良がいた。
肩にかかる髪を乱れなくまとめた女子で、表情は柔らかい。エリカほど人目を引く立ち方ではないが、机の上の紙束を淡々と分けている。
自分の手を止めず、隣の生徒が迷った時だけ、必要な束をそっと寄せる。前に出ないまま、周囲の迷いを薄くしていく。そういう種類の落ち着きがあった。
エリカは、湊と兵頭に気づくと、手元の紙を机に置き、端を押さえてから顔を上げた。
「兵頭さん。来てくださったのですね」
「確認だけ済ませます。番号札と控室表示です」
「助かります。放課後には上級生の班が作業室を使うので、昼休みのうちに分けておきたかったんです」
エリカが壁際へ目を向けると、腕章の上級生が軽くうなずいた。
この場で最後に判断するのは、そちらなのだろう。エリカは前に出ているが、決める側ではない。上級生の指示を受けて、紙を分け、必要な束を作る。そんな立ち位置だった。
エリカの声は明るい。けれど、浮ついてはいない。
湊に向けられた時も、その調子は大きく変わらなかった。
「悠木さんも。すみません、急なお願いになってしまって」
名を呼ばれて、湊は一拍だけ遅れた。
名前まで覚えられているとは思っていなかった。
「いえ。俺は数を読むだけらしいので」
「それが一番大事です。読み違えると、当日に困りますから」
「責任が増えた気がします」
そう言うと、エリカは小さく笑った。
控えめな笑みだった。声を立てるほどではない。ただ、その場の空気が柔らかくなる。
湊は、以前に廊下で会釈を交わした相手として、エリカを覚えている。
その時も周囲の反応が変わった。今は、それが近い距離で見えている。
彼女がいることで、緊張の置き場が決まる。そんな印象だった。
「先日は、廊下で」
エリカが言った。
「ああ。こちらこそ」
湊は姿勢を正した。
「邪魔になっていなければよかったんですが」
「そんなことはありません。あの時は、こちらの人数が多かっただけです」
エリカはそう答えてから、すぐに兵頭へ視線を戻した。
私的な会話を長く続ける場ではない。そう判断したのだろう。切り上げ方に不自然さがなかった。
兵頭は机の上の番号札を見た。
「一番から四十八番まで、来賓席用。五十番台が教職員側で合っていますか」
「はい。四十九番は欠番扱いです。席を一つ空けるので」
「理由は」
「来賓導入時に、通る場所が狭くなるためです」
「分かりました」
兵頭はファイルを開いた。
湊は横から番号札の束を一つ取る。厚紙に黒い文字が印刷されていて、角には小さく穴が開いている。紐を通して椅子か机にかけるものらしい。
湊が番号を読み上げ、兵頭が表に印を入れる。単純な作業だったが、周囲の手は止まらない。腕章の生徒が控室表示を仕分け、壁際の上級生が案内板の向きを確認している。
紗良は、やはり机の端にいた。
正式な腕章はつけていない。エリカと同じく、式典や接遇の補佐として入っているのだろう。控室表示の紙を種類ごとに分けながら、隣の生徒が迷った時だけ、必要な束をそっと寄せる。
声は大きくない。指示というより、自分の作業を進めながら、周囲の手が止まらないようにしているようだった。
「兵頭さん、そちらが終わったら控室表示ですね」
「その予定です」
「では、こちらで分けておきます。悠木さんも、お昼はまだでしょう?」
紗良は湊へ目を向けた。
穏やかな表情だった。頼みやすい声で、先に逃げ道も用意している。こちらが昼食を後回しにしていることも把握していた。
「はい。戻ってから食べます」
「じゃあ、長くは引き止めません」
「急がせているのは兵頭です」
「必要な速さだ」
兵頭が即座に言ったので、紗良が微笑んだ。
「うん。兵頭さんは、そう言うと思いました」
その言い方に、冷やかしはない。相手を否定せず、会話だけを軽く逃がすような声だった。
兵頭も特に反応しなかった。ただ、表の次の欄へ印を入れる。
しばらく作業が続いた。
番号札の束に、大きな問題はなかった。欠番の札だけが別の封筒に入っており、それを兵頭が確認してファイルに挟む。
控室表示も、紗良たちが先に分けていたため、照合だけで済んだ。兵頭が数を読み、湊が表示名を見る。エリカと紗良が、不要な札と使用する札を分ける。最後は腕章の上級生が引き取り、束ね直した。
湊は、式典というものが当日の華やかさより前に、こうした紙と札と確認でできているのだと思った。
十分もかからなかった。
「これで足ります」
兵頭がファイルを閉じた。
「助かりました」
エリカが軽く頭を下げる。
湊もつられて頭を下げた。相手の礼が深すぎないから、こちらも大げさにならない。それでいて、失礼にもならない。
「昼休みを取らせてしまって、すみません」
「戻れば食べられます」
兵頭が答える。
兵頭が戻ろうとした時、エリカが机の端に置いていた小さな箱へ手を伸ばした。
白い箱ではない。薄い生成り色の紙箱で、中には同じ小さな包みがいくつも並んでいる。包み紙は淡い茶色で、リボンも細い。
すでに腕章の上級生や、控室表示を分けていた生徒の手元にも、同じ包みが一つずつ置かれていた。
「お待ちください。作業室にいらっしゃる方に、お渡ししているものがあるんです」
エリカは、まず兵頭へ包みを差し出した。
「ほんの気持ちです。お礼も兼ねた、私からのご挨拶です」
「自分もですか」
「はい。今日だけでなく、以前からお手伝いいただいていますから」
兵頭は一拍だけ間を置いた。
照れている、というより、受け取る理由を確認しているようだった。
「ありがとうございます」
短く礼を言って、包みを受け取る。
それから、自分の制服の内ポケットへ丁寧にしまった。潰さない場所を選んだのだろう。
「悠木さんも」
エリカが湊へ向き直った。
「急にお願いしたのに、助かりました」
「俺は、本当に読み上げただけです」
「それがないと、確認は進みませんから」
湊は、返す言葉を探した。
大げさに褒められたわけではない。けれど、簡単な作業だと思っていたものに、きちんと礼を言われると、落ち着かない。
「ありがとうございます」
結局、そう言って受け取った。
包みは軽かった。指先に、紙の細かな質感だけが残る。
その瞬間、室内の視線が一拍だけ集まった。
騒ぎにはならない。誰も声を上げない。けれど、兵頭が受け取った時よりも、わずかに見る時間が長い。
九条院エリカが、一般受験組の男子に菓子を渡した。
そういう形だけを切り取れば、東都院では意味がつくのかもしれない。
湊には、その意味の重さがまだ測りきれなかった。
ただ、エリカが同じ包みを複数人へ配っていること、兵頭も同じように受け取っていること、紗良が何も言わずに見ていることだけは分かる。
ここでは、騒がないほうがいい。
「大事にいただきます」
湊が言うと、エリカは目元を和らげた。
「お口に合えば嬉しいです」
その横で、紗良が湊とエリカを見ていた。
露骨ではない。友人が会話しているのを、横から眺めているだけの表情である。けれど湊には一瞬、彼女が言葉よりも、二人の間に残った距離を見ているように思えた。
「では、戻ります」
兵頭が言った。
「はい。午後の授業に遅れないように」
「そのつもりです」
兵頭はファイルを抱え直し、湊に視線だけを送った。
行くぞ、という意味だった。
作業室を出る直前、湊はもう一度だけ室内を見た。
エリカは次の紙束を手に取り、上級生の指示に従って封筒を分けている。紗良はその横で、使わない札を箱に戻していた。
小さな菓子の包みは、机の端にまだいくつか残っている。
誰かのための特別な一つではなく、場にいる人たちへ行き渡るように用意されたもの。
それでも、受け取った側の手元には、一つずつ残る。
廊下へ出ると、講堂側の静けさが戻ってきた。
湊は受け取った包みを、制服のポケットへ入れた。
潰さないようにすると、動きにくい。
「兵頭は、前から式典局の手伝いをしてたのか」
「正式な所属じゃない」
「所属の話じゃなくて」
「この一年、行事前に人手が足りない時だけ呼ばれる」
「向いてるから?」
「部活がなかった。力仕事ができる。あと、途中で帰らない」
「最後が一番大事そうだな」
「実際、大事だ」
兵頭は淡々と言った。
東都院の行事は、表から見ると隙がない。だが、その裏側では誰かが番号札を数え、椅子を運び、表示を貼り直している。
兵頭は、そちら側にいる人間なのだろう。
湊は、さっきの作業室を思い出した。
エリカは表に立つ人間に見えた。けれど、彼女もまた、紙を渡し、札を分け、手伝ってくれた相手に礼を言っていた。
表に立つことと、裏を知らないことは、同じではないらしい。
廊下を曲がると、新校舎側のざわめきが近づいてきた。
昼休みはまだ終わっていない。教室へ戻れば、弁当を食べる時間くらいは残っているだろう。
湊はポケットの中の包みに指先で触れた。
牧瀬から受け取った袋は鞄の中にある。暦の鞄にも、同じ日に増えた包みがある。
そして今、エリカから受け取った小さな菓子が一つ。
どれも、同じ意味ではない。
旧校舎寄りの廊下を抜ける時、ふと春の匂いを思い出した。
実際には、まだ二月である。廊下の空気は冷たく、窓の外の木々も冬の色をしている。
それでも、湊の頭に浮かんだのは、去年の春のことだった。
講堂の前に椅子が並び、見慣れない札がいくつも置かれていた日。
どこを通ってよいのか分からず、湊が立ち止まった場所。
その時、責めない声で注意してくれた女子生徒がいた。
――そちらは、来賓の方が通られる場所です。
声だけではない。
言い方も、立っていた位置も、相手を責めない距離の取り方も、どこかで覚えていた。
九条院エリカ。
廊下で会釈を交わした令嬢。作業室で、小さな菓子を渡してくれた少女。
そして、去年の春、講堂の前で声をかけてくれた相手。
名前が、いくつかの場面と重なった。
「悠木」
兵頭が呼んだ。
「何?」
「歩くのが遅い」
「ああ。悪い」
「昼、食うんだろ」
「食べる」
「なら急げ」
兵頭はもう前を向いていた。
湊も足を速める。
新校舎へ戻る廊下の先から、教室の声が聞こえてくる。
公式ではない日の、静かなざわめきだった。
湊はポケットの包みを潰さないように気をつけながら、兵頭の後を追った。




