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東都院物語  作者: 橘鉄真
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8/61

公式ではない日

 東都院では、二月十四日は行事ではなかった。

 朝礼で触れられることも、掲示板に予定が張り出されることもない。教師たちは、いつも通りに出欠を取り、授業の進度を確認し、提出物の期限を告げる。

 ただ、その日は、教室の空気が薄い紙に包まれているようだった。

 鞄の脇に小さな紙袋が見える。机の中へしまう時、手元だけが妙に丁寧になる生徒がいる。休み時間の廊下では、いつもより声を落として誰かを呼び止める女子がいて、それを見た周囲の視線が静かに寄る。

 騒がしいわけではない。


 むしろ東都院の生徒は、こういう日ほど騒ぎすぎないことを知っていた。

 昼休みの教室で、湊は教科書を鞄へしまいながらそれを見ていた。

 窓際では、女子同士が小さな包みを渡し合っている。笑い声は明るいが、声量は抑えられていた。紙袋を受け取った側が、両手で軽く持ち上げるように礼を言う。その仕草には、何かを大げさにしないための配慮があった。

 別の列では、男子が机の上に置かれた小袋を見て、困った顔をしている。渡した女子はもう席へ戻っていた。近くにいた教師は、袋には触れず、声が大きくなりかけた生徒だけをいつもの調子で注意した。

 東都院では、誰かに何かを渡すことにも意味がつく。

 それが恋愛なのか、友人関係なのか、日頃の礼なのか、家同士のつながりなのか。本人たちが説明しなければ、本当のところは分からない。けれど、分からないものほど周囲は静かに読む。

 湊は、そういう読み方にまだ完全には慣れていなかった。

 半年以上この学校に通っていても、何かを受け取る時に、そこへどれだけの意味が乗るのかを先に考える感覚は、まだ身についていない。


「悠木」


 斜め後ろから声がした。

 兵頭匡平が、机の横に立っていた。片手に薄いメモを持っている。今日も制服の着方に乱れはなく、表情もいつも通りだったが、目だけは教室のあちこちを短く拾っていた。


「このあと、講堂脇の作業室に顔を出せるか」

「式典関係?」

「そうだ。椅子の番号札を確認する。人数は足りてるが、人手が多いほうがいい」

「分かった。昼なら行ける」

「助かる」


 兵頭はそれだけ言うと、小さなメモを湊の机に置いた。講堂脇の作業室、とだけ簡潔に書かれている。

 そのやり取りの間にも、教室の中では紙袋がいくつか動いた。

 兵頭はそれを気にした様子を見せなかった。教室の隅で男子二人が余計な声を上げると、そちらへ視線を向けた。声は、それだけで小さくなった。


「兵頭は、ああいうの受け取った?」


 湊が何となく尋ねると、兵頭は一度だけ瞬きをした。


「二つ」

「意外と普通に答えるんだな」

「隠す内容でもない。手伝い先で世話になっている礼だそうだ」

「なるほど」

「お前も、もらったら礼は言え」

「それは言う」

「ならいい」


 兵頭は短くうなずき、別の席へ向かった。

 湊は机の上のプリントを見てから、隣の席へ視線を移した。

 暦は、英語の単語帳を開いたまま、ほとんど頁を進めていなかった。読んでいるというより、手元に視線を置いているだけに見える。


「影山さん」


 女子の席のほうから、柔らかい声がした。

 牧瀬琴葉だった。編み込みを入れたショートボブと、少し垂れた目元が、穏やかな表情によく合っている。手には小さな紙袋を持っていた。華やかではないが、きれいな淡い色の袋だった。結び目には細いリボンがついている。

 暦は、単語帳から目を上げた。


「牧瀬さん」

「今、いい?」

「はい」


 暦は椅子から立ち上がった。

 動きはいつも通り静かだったが、湊には、暦が一拍置いたのが分かった。

 誰かから何かを渡される時、暦は受け取り方を間違えないようにする。相手の言葉、周囲の視線、袋の大きさ、渡す場所。そのどれかを読み違えると、相手を困らせることがあると知っているからだ。

 牧瀬は、そういう相手の慎重さを急かさない人だった。


「これ、図書委員でいつもお世話になっているから」


 牧瀬はそう言って、紙袋を差し出した。

 言葉は穏やかで、理由もはっきりしていた。だから、周囲に向いていた視線のいくつかは、すぐにほどけた。図書委員。日頃のお礼。女子同士。そこに置かれた意味は、東都院の教室でも扱いやすい形をしていた。

 暦は両手で受け取った。


「……私、今日は何も用意していないんです」

「気にしないで。少しだけだから」


 暦が視線だけ動かして湊のほうを見た。

 湊は、軽く頷いてみせる。

 暦は紙袋へ視線を落とした。


「ありがとうございます」


 牧瀬が小さく笑った。


「図書委員の時に、いつも確認を細かくしてくれるから助かってるの。返却棚の件とか、私、見落としやすいし」

「牧瀬さんの記録は正確ですよ」

「そう言ってもらえると、安心する」


 二人の会話は短い。けれど、余計な緊張はなかった。

 湊はそれを見ながら、暦が肩の力を抜いたのに気づいた。表情はほとんど変わっていない。けれど、紙袋を持つ指の力が、受け取った直後より緩んでいた。

 牧瀬はそこで帰らず、湊のほうへ向き直った。


「悠木くんにも」

「俺にも?」


 湊の声が、思ったより素直に出た。

 教室の視線が、またこちらへ寄った。

 大きな反応ではない。誰かが振り返るわけでもない。机に向いていた目だけが横へずれる。

 牧瀬は、その視線を承知しているように、同じ形の小さな袋を差し出した。


「図書室で影山さんと一緒に手伝ってくれたこともあったから。図書委員として、ということで」

「ああ。ありがとう」


 湊は両手で受け取った。

 袋は軽かった。中身は焼き菓子か、小さなチョコレートだろう。手作りか市販かは分からない。分からなくていい程度の、配慮された軽さだった。


「気を遣わせたかな」

「ううん。数を決めて用意したものだから。あまり大げさにしないでくれると助かるかな」

「分かった」

「ありがとう」


 牧瀬はそう言って、目を細めた。

 それから暦にもう一度小さく会釈し、女子の席のほうへ戻っていく。

 教室の視線は、すぐに散った。

 誰かが小声で何かを言い、別の誰かが笑う。それもすぐに、昼休みのざわめきへ戻っていった。

 湊は、机の上に置いた紙袋を見た。

 こういう時、どこまで考えればいいのか分からない。

 牧瀬の言い方には、必要な説明が揃っていた。図書委員として。日頃のお礼として。

 それなら、暦が受け取っても、湊が受け取っても、誰かが妙な意味を足しすぎずに済む。

 たぶん、そういうことなのだと思う。

 そこまで考えた時点で、もう考えすぎなのかもしれなかった。


「湊」


 暦が席へ戻りながら言った。


「何?」

「返礼が発生した」

「そうだな」

「今年は牧瀬さんも入る」

「それは覚えてると思うけど」

「湊は覚えていても、決めるのを後に回す」

「否定しにくい」


 暦は包みを鞄の内側へしまった。丁寧ではあるが、特別に飾るような扱いではない。日常の中に、きちんと場所を作るような動きだった。


「牧瀬さんには、ホワイトデーで返す」

「うん」

「今年は、作る数を増やす」

「俺の分もだな」

「牧瀬さんから、二人とも受け取った」

「そういう整理?」

「そういう整理」


 暦は単語帳を閉じた。

 その言い方は、少なくとも拗ねたものではなかった。牧瀬から湊に渡されたことを気にしているというより、出来事を正確に分類しているように見えた。誰から、どういう理由で、誰が受け取ったか。その後に何が必要になるか。

 暦にとっては、そうした確認のほうが大事なのだろう。

 湊は、自分の紙袋を鞄へ入れた。

 廊下のほうで、昼休みのざわめきが大きくなる。教室のあちこちで、午後の授業の話と、今日だけの小さな包みの話が混ざっていた。

 公式ではない。

 けれど、何もない日でもない。

 東都院では、そういうものが多い。

 誰もがその日の扱い方を知っている。生徒は騒がず、渡す側は理由を選び、受け取る側は礼の言葉を間違えないようにする。

 湊は、それを窮屈だとは言い切れなかった。

 騒がしさを抑えるための気遣いも、たぶん、そこにはある。

 その形に慣れるには、まだ時間がかかりそうだった。


「悠木」


 教室の入口から、兵頭が呼んだ。

 兵頭はもうメモを持っていない。かわりに、作業用の薄いファイルを小脇に抱えていた。


「行けるか」

「今?」

「先に確認だけ済ませたい。昼休み中に終わらせれば、午後に食い込まない」

「分かった」


 湊は席を立った。

 暦が視線だけを上げる。


「講堂脇の作業室。番号札の確認だって」

「昼食」

「戻ってから食べる」

「購買は混む」

「弁当だから大丈夫」

「ならいい」


 暦はそれだけ言って、鞄の口を閉じた。牧瀬から受け取った包みは、もう外からは見えない。

 湊は自分の鞄を机の脇へ寄せた。牧瀬からの袋も、その内側に収まっている。

 廊下へ出ると、紙袋を持つ生徒が何人かすれ違った。

 兵頭が先に歩き出す。


「急ぐぞ。講堂側は、昼休みでも人が止まる」

「分かった」


 湊は一度だけ教室を振り返った。

 暦はもうこちらを見ていなかった。単語帳を開き直し、いつもの顔で席に座っている。

 その机の下で、鞄の中に小さな紙袋が一つ増えている。

 湊は、それを何となく覚えておこうと思った。

 それから兵頭の後を追い、講堂へ続く廊下へ向かった。

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