公式ではない日
東都院では、二月十四日は行事ではなかった。
朝礼で触れられることも、掲示板に予定が張り出されることもない。教師たちは、いつも通りに出欠を取り、授業の進度を確認し、提出物の期限を告げる。
ただ、その日は、教室の空気が薄い紙に包まれているようだった。
鞄の脇に小さな紙袋が見える。机の中へしまう時、手元だけが妙に丁寧になる生徒がいる。休み時間の廊下では、いつもより声を落として誰かを呼び止める女子がいて、それを見た周囲の視線が静かに寄る。
騒がしいわけではない。
むしろ東都院の生徒は、こういう日ほど騒ぎすぎないことを知っていた。
昼休みの教室で、湊は教科書を鞄へしまいながらそれを見ていた。
窓際では、女子同士が小さな包みを渡し合っている。笑い声は明るいが、声量は抑えられていた。紙袋を受け取った側が、両手で軽く持ち上げるように礼を言う。その仕草には、何かを大げさにしないための配慮があった。
別の列では、男子が机の上に置かれた小袋を見て、困った顔をしている。渡した女子はもう席へ戻っていた。近くにいた教師は、袋には触れず、声が大きくなりかけた生徒だけをいつもの調子で注意した。
東都院では、誰かに何かを渡すことにも意味がつく。
それが恋愛なのか、友人関係なのか、日頃の礼なのか、家同士のつながりなのか。本人たちが説明しなければ、本当のところは分からない。けれど、分からないものほど周囲は静かに読む。
湊は、そういう読み方にまだ完全には慣れていなかった。
半年以上この学校に通っていても、何かを受け取る時に、そこへどれだけの意味が乗るのかを先に考える感覚は、まだ身についていない。
「悠木」
斜め後ろから声がした。
兵頭匡平が、机の横に立っていた。片手に薄いメモを持っている。今日も制服の着方に乱れはなく、表情もいつも通りだったが、目だけは教室のあちこちを短く拾っていた。
「このあと、講堂脇の作業室に顔を出せるか」
「式典関係?」
「そうだ。椅子の番号札を確認する。人数は足りてるが、人手が多いほうがいい」
「分かった。昼なら行ける」
「助かる」
兵頭はそれだけ言うと、小さなメモを湊の机に置いた。講堂脇の作業室、とだけ簡潔に書かれている。
そのやり取りの間にも、教室の中では紙袋がいくつか動いた。
兵頭はそれを気にした様子を見せなかった。教室の隅で男子二人が余計な声を上げると、そちらへ視線を向けた。声は、それだけで小さくなった。
「兵頭は、ああいうの受け取った?」
湊が何となく尋ねると、兵頭は一度だけ瞬きをした。
「二つ」
「意外と普通に答えるんだな」
「隠す内容でもない。手伝い先で世話になっている礼だそうだ」
「なるほど」
「お前も、もらったら礼は言え」
「それは言う」
「ならいい」
兵頭は短くうなずき、別の席へ向かった。
湊は机の上のプリントを見てから、隣の席へ視線を移した。
暦は、英語の単語帳を開いたまま、ほとんど頁を進めていなかった。読んでいるというより、手元に視線を置いているだけに見える。
「影山さん」
女子の席のほうから、柔らかい声がした。
牧瀬琴葉だった。編み込みを入れたショートボブと、少し垂れた目元が、穏やかな表情によく合っている。手には小さな紙袋を持っていた。華やかではないが、きれいな淡い色の袋だった。結び目には細いリボンがついている。
暦は、単語帳から目を上げた。
「牧瀬さん」
「今、いい?」
「はい」
暦は椅子から立ち上がった。
動きはいつも通り静かだったが、湊には、暦が一拍置いたのが分かった。
誰かから何かを渡される時、暦は受け取り方を間違えないようにする。相手の言葉、周囲の視線、袋の大きさ、渡す場所。そのどれかを読み違えると、相手を困らせることがあると知っているからだ。
牧瀬は、そういう相手の慎重さを急かさない人だった。
「これ、図書委員でいつもお世話になっているから」
牧瀬はそう言って、紙袋を差し出した。
言葉は穏やかで、理由もはっきりしていた。だから、周囲に向いていた視線のいくつかは、すぐにほどけた。図書委員。日頃のお礼。女子同士。そこに置かれた意味は、東都院の教室でも扱いやすい形をしていた。
暦は両手で受け取った。
「……私、今日は何も用意していないんです」
「気にしないで。少しだけだから」
暦が視線だけ動かして湊のほうを見た。
湊は、軽く頷いてみせる。
暦は紙袋へ視線を落とした。
「ありがとうございます」
牧瀬が小さく笑った。
「図書委員の時に、いつも確認を細かくしてくれるから助かってるの。返却棚の件とか、私、見落としやすいし」
「牧瀬さんの記録は正確ですよ」
「そう言ってもらえると、安心する」
二人の会話は短い。けれど、余計な緊張はなかった。
湊はそれを見ながら、暦が肩の力を抜いたのに気づいた。表情はほとんど変わっていない。けれど、紙袋を持つ指の力が、受け取った直後より緩んでいた。
牧瀬はそこで帰らず、湊のほうへ向き直った。
「悠木くんにも」
「俺にも?」
湊の声が、思ったより素直に出た。
教室の視線が、またこちらへ寄った。
大きな反応ではない。誰かが振り返るわけでもない。机に向いていた目だけが横へずれる。
牧瀬は、その視線を承知しているように、同じ形の小さな袋を差し出した。
「図書室で影山さんと一緒に手伝ってくれたこともあったから。図書委員として、ということで」
「ああ。ありがとう」
湊は両手で受け取った。
袋は軽かった。中身は焼き菓子か、小さなチョコレートだろう。手作りか市販かは分からない。分からなくていい程度の、配慮された軽さだった。
「気を遣わせたかな」
「ううん。数を決めて用意したものだから。あまり大げさにしないでくれると助かるかな」
「分かった」
「ありがとう」
牧瀬はそう言って、目を細めた。
それから暦にもう一度小さく会釈し、女子の席のほうへ戻っていく。
教室の視線は、すぐに散った。
誰かが小声で何かを言い、別の誰かが笑う。それもすぐに、昼休みのざわめきへ戻っていった。
湊は、机の上に置いた紙袋を見た。
こういう時、どこまで考えればいいのか分からない。
牧瀬の言い方には、必要な説明が揃っていた。図書委員として。日頃のお礼として。
それなら、暦が受け取っても、湊が受け取っても、誰かが妙な意味を足しすぎずに済む。
たぶん、そういうことなのだと思う。
そこまで考えた時点で、もう考えすぎなのかもしれなかった。
「湊」
暦が席へ戻りながら言った。
「何?」
「返礼が発生した」
「そうだな」
「今年は牧瀬さんも入る」
「それは覚えてると思うけど」
「湊は覚えていても、決めるのを後に回す」
「否定しにくい」
暦は包みを鞄の内側へしまった。丁寧ではあるが、特別に飾るような扱いではない。日常の中に、きちんと場所を作るような動きだった。
「牧瀬さんには、ホワイトデーで返す」
「うん」
「今年は、作る数を増やす」
「俺の分もだな」
「牧瀬さんから、二人とも受け取った」
「そういう整理?」
「そういう整理」
暦は単語帳を閉じた。
その言い方は、少なくとも拗ねたものではなかった。牧瀬から湊に渡されたことを気にしているというより、出来事を正確に分類しているように見えた。誰から、どういう理由で、誰が受け取ったか。その後に何が必要になるか。
暦にとっては、そうした確認のほうが大事なのだろう。
湊は、自分の紙袋を鞄へ入れた。
廊下のほうで、昼休みのざわめきが大きくなる。教室のあちこちで、午後の授業の話と、今日だけの小さな包みの話が混ざっていた。
公式ではない。
けれど、何もない日でもない。
東都院では、そういうものが多い。
誰もがその日の扱い方を知っている。生徒は騒がず、渡す側は理由を選び、受け取る側は礼の言葉を間違えないようにする。
湊は、それを窮屈だとは言い切れなかった。
騒がしさを抑えるための気遣いも、たぶん、そこにはある。
その形に慣れるには、まだ時間がかかりそうだった。
「悠木」
教室の入口から、兵頭が呼んだ。
兵頭はもうメモを持っていない。かわりに、作業用の薄いファイルを小脇に抱えていた。
「行けるか」
「今?」
「先に確認だけ済ませたい。昼休み中に終わらせれば、午後に食い込まない」
「分かった」
湊は席を立った。
暦が視線だけを上げる。
「講堂脇の作業室。番号札の確認だって」
「昼食」
「戻ってから食べる」
「購買は混む」
「弁当だから大丈夫」
「ならいい」
暦はそれだけ言って、鞄の口を閉じた。牧瀬から受け取った包みは、もう外からは見えない。
湊は自分の鞄を机の脇へ寄せた。牧瀬からの袋も、その内側に収まっている。
廊下へ出ると、紙袋を持つ生徒が何人かすれ違った。
兵頭が先に歩き出す。
「急ぐぞ。講堂側は、昼休みでも人が止まる」
「分かった」
湊は一度だけ教室を振り返った。
暦はもうこちらを見ていなかった。単語帳を開き直し、いつもの顔で席に座っている。
その机の下で、鞄の中に小さな紙袋が一つ増えている。
湊は、それを何となく覚えておこうと思った。
それから兵頭の後を追い、講堂へ続く廊下へ向かった。




