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東都院物語  作者: 橘鉄真
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放課後の令嬢

 台車は、講堂脇の用具置き場へ戻した。

 案内札と余った資料は、兵頭が数を確かめて棚の前にそろえた。三崎はその横で、控えとして残す紙だけを抱えている。

 金属の台車が壁際に収まると、さっきまでの慌ただしさも、そこへ一緒に片付けられたように見えた。


 廊下へ戻ると、兵頭と三崎の足音が前を行き、暦は湊の隣に並んだ。

 兵頭と三崎は、もう前の件を口にしていない。

 小さな失敗は小さな失敗のまま、放課後の校舎に吸い込まれていく。

 湊はその後ろを歩きながら、講堂へ向かう通路のほうへ出た。


 冬の東都院は、夕方になると輪郭が濃くなる。

 窓の外には、まだ明るさが残っていた。校舎の内側には、昼間とは違う静けさが降りている。

 生徒はいる。部活動へ向かう者、教室へ戻る者、職員室へ急ぐ者。声も足音もある。

 騒がしいとは感じない。

 その中で、廊下の先だけが、ほかと違っていた。


 湊は足を止めなかった。

 歩幅だけが緩んだ。

 講堂へ向かう通路と、音楽室のある特別教室棟が交わるあたりだった。

 数人の生徒と一人の教師が、壁際に寄って話している。黒い譜面ケースを持つ女子生徒たち、紙束を抱えた上級生、講堂の鍵らしいものを手にした教師。

 その中心に、一人の女子生徒がいた。


 淡い灰みを帯びた金色の髪が、廊下の光を静かに受けていた。

 控えめにまとめられた長い髪も、制服の襟元も、手元の薄い革のファイルも、どれか一つだけが目立つわけではない。ただ、全体がきちんと収まっている。

 姿勢がよい生徒なら、東都院には何人もいる。

 彼女の場合は、ただ背筋が伸びているのとは違った。

 そこにいるだけで、周囲の人が自分の振る舞いを思い出す。

 そういう種類の存在感だった。


「講堂側は、先に先生へお渡しした確認表で足ります」


 彼女の声はよく通った。

 強くはない。廊下に広げるのではなく、必要な相手へまっすぐ届く声だった。


「追加の譜面台は、音楽室側から二本だけお借りできると伺っています。来賓の方が通られる場所には置かず、こちらの壁際で一度そろえます」

「九条院さん、弦楽部のほうは大丈夫ですか」


 教師が確認した。

 九条院。

 三崎の足が、ほんのわずか遅れた。

 兵頭は前を向いたまま、三崎の肩口を軽く押して歩かせる。


 湊も、その名と顔は知っていた。

 東都院にいて、知らずに済む相手ではない。式典の名簿、行事の配置表、廊下で交わされる短い噂。そういうところに、九条院という名はときどき現れる。

 知っているのは、そこまでだった。

 教師や上級生に丁寧に応じ、式典や行事の場で名前を見かける人。

 それ以上のことを、湊はまだ知らなかった。


「はい。部長には共有済みです。私はこのあと音楽室へ戻りますので、変更があればそちらへお願いします」


 九条院と呼ばれた女子生徒は、上級生の持つ資料へ視線を落とした。


「控室前は、一人減らしたほうがよいかもしれません」

「少ないと案内が回らないんじゃない?」


 上級生にそう言われても、彼女はすぐには反論しなかった。

 一拍置き、紙面の一点を指で示す。


「正面に二人、曲がり角に一人なら足ります。扉の前に立つ方が多いと、来賓の方が足を止められてしまいます。最初にお声がけしておけば、ここで迷われることはないと思います」


 丁寧だった。

 それでいて、曖昧ではない。

 相手の案を否定するのではなく、場がうまく流れる形へ戻している。

 湊は、そのやり取りを追っていた。


「すごいな」


 三崎が、小さく言った。

 兵頭が横目を向ける。


「邪魔になるな」

「邪魔はしてないって」

「立ち止まるだけでも、邪魔になる時はある」


 三崎は今度こそ黙った。


 湊たちが近づくころ、紙束を持っていた上級生が資料を抱え直した。

 その拍子に、九条院と呼ばれた女子生徒も顔を上げる。

 一瞬、目が合った。

 氷のよう、と言うには、冷たさが足りなかった。青灰色の瞳は静かで、相手を遠ざけるより先に、こちらの立ち位置を確かめているように見えた。

 こちらがどこから来て、どこへ行こうとしているのかを、自然に捉えている。

 湊は軽く会釈した。

 彼女も、同じ深さで会釈を返した。

 それだけだった。


 名前を呼ぶほどの関係ではない。

 話しかける理由もない。

 東都院の廊下では、すれ違うだけの相手にも、場にふさわしい距離がある。


「失礼します」


 彼女は教師と上級生にそう告げ、譜面ケースを持つ生徒のほうへ歩き出した。

 歩調は速くない。遅くもない。

 誰かを待たせない速度で、誰かを急かさない速度だった。


 数人がその後に続く。

 講堂側へ向かう者、音楽室へ戻る者、紙束を持って階段のほうへ向かう者。

 ばらばらだった動きが、いつの間にか重ならない形で分かれていく。

 湊は、その背を見送った。

 長く追ったつもりはなかった。

 隣の暦がこちらを見ていることには気づいた。


「珍しい?」

「何が?」

「近くで見るの」


 湊は少し考えた。


「そうだな。名前と顔は知ってたけど、話したことはほとんどない」

「そう」


 暦はそれだけ言った。

 それ以上は聞かなかった。

 聞かなかったことと、覚えなかったことは違う。

 廊下の声量が落ちたこと。

 湊の歩幅が緩んだこと。

 会釈を返されたあと、湊が一拍だけ遅れて歩き出したこと。

 暦は、そういうものを忘れない。


「近くで見ると、余計にすごいな」


 三崎が、小さな声で言った。

 兵頭が三崎を見る。


「感想で済ませろ。噂にするな」

「広めないって。ただ、すごいなって思っただけ」

「それなら、思うだけにしておけ」

「はい」


 三崎の返事は、さっきより素直だった。


 廊下の空気は、すぐに普段の温度へ戻っていった。

 弦楽部の生徒たちの足音が遠ざかり、講堂の扉のほうから鍵の鳴る音がする。特別教室棟の奥では、誰かが椅子を動かしていた。

 何事も起きていない。

 誰かが誰かに声を荒げたわけでも、特別なことをしたわけでもない。

 ただ、東都院の廊下を、一人の令嬢が通り過ぎた。


 それだけで、そこにいた人たちの足並みが揃った。

 彼女の歩く場所を中心に、廊下の空気が自然に形を取ったようだった。

 湊は、さっき彼女が資料の一点を指で示した時の動きを思い出した。

 指先は細く、動きは小さい。その小さな指示で、人の並びが変わる。

 家名だけなら、もっと重く人を動かしたかもしれない。

 さっきの廊下にあったのは、それとは違っていた。

 誰も萎縮していない。ただ、より動きやすい形になっていた。

 湊には、そう思えた。


「悠木」


 兵頭が言った。


「俺たちは職員室に寄る。三崎の控えを確認してから帰る」

「分かった」


 三崎は一度だけ振り返った。


「じゃあ、また明日」

「ああ」


 兵頭は短くうなずき、三崎を連れて職員室側の廊下へ向かった。

 足音が曲がり角の向こうへ消える。

 湊と暦は、正門へ向かう階段のほうへ歩き出した。


 窓の外には、冬の夕方が近づいていた。

 日が沈むにはまだ早い。校庭の端はもう日陰になり、講堂の窓ガラスには薄い光が残っている。

 東都院は、夕方になると輪郭がきれいになる。

 昼間よりも影が伸び、石造りの壁や古い木の扉に、重さが戻る。

 その美しさは、外から眺めるにはよいものだった。


「湊」

「何?」

「見てた」


 暦は前を向いたまま言った。

 湊は、誰を、と聞きかけてやめた。

 聞かなくても分かった。


「廊下の空気が変わったから」

「うん」

「人がいるだけで、ああいうふうに変わるんだな」


 湊が言うと、暦は一拍置いた。


「ここでは、ある」

「暦は慣れた?」

「慣れてはいない。覚えた」

「そっか」


 暦はそれ以上、言わなかった。

 湊は、今の答えも覚えられたのだろうと思った。


 階段を下りると、正門へ向かう廊下に出た。

 外の冷気が、扉の隙間から薄く入ってくる。夕方の校舎は、朝とは違う匂いがした。

 暖房の残り。

 磨かれた床。

 冬の空気。

 その奥に、音楽室のほうから弦の音が短く伸びた。

 何の楽器か、湊には分からない。

 低く柔らかい音だった。

 暦は何も言わなかった。

 湊も、何も言わなかった。


 正門の外では、車寄せに数台の車が並んでいた。

 徒歩で帰る生徒の流れと、迎えの車へ向かう生徒の流れは、自然に分かれている。誰かが線を引いたわけではない。互いの歩く場所は混ざらなかった。

 湊と暦は、徒歩の流れに入った。


 坂を下り始めると、東都院の校舎は背後へ遠ざかっていく。

 さっきまでの廊下の静けさも、九条院と呼ばれた少女の声も、冬の夕方に薄まっていった。

 完全には消えない。

 湊は、歩きながら一度だけ振り返った。

 講堂の窓に、夕方の光が細く残っている。

 きれいだ、と思った。

 同時に、あの場所では誰かがいつも、きれいに見える場所へ置かれているのだろうとも思った。


「湊」

「何?」

「前」


 暦に言われて、湊は視線を戻した。

 坂道はまだ続いている。足元を見ずに歩くには、少しだけ危うい。


「よそ見が多い」

「そうか?」

「うん」


 暦は、いつもの調子で答えた。


「でも、転ばないならいい」

「転ばないよ」

「たぶん?」

「そこは信用してくれ」

「努力する」


 湊は笑った。

 暦の横顔は、笑っていない。会話の温度は朝と同じだった。


 冬の坂道を、二人分の足音が下りていく。

 東都院の放課後は、もう背後にあった。

 何事もなかったように静かな一日だった。

 それでも湊は、ふっと静かになった廊下と、同じ深さで返された会釈を、しばらく忘れなかった。

 暦もまた、忘れなかった。

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