友人たち
放課後の教室には、授業中とは違う音が残る。
椅子を引く音。鞄の金具が机の角に当たる音。誰かが教科書を閉じ、別の誰かが部活の集合時間を確かめる声。窓の外では、冬の陽が校舎の壁に浅く残っていた。
湊は自分の席で、弓道部の予定表を鞄にしまった。
先日、テープを買いに行ってから何日か経ち、部活と図書室と帰り道は、いつもの順番で何度か過ぎている。
今日は部活がない。暦は図書室の作業があると言っていた。作業が長くなるなら待つし、暦が帰るなら、それに合わせる。
そのくらいのつもりで鞄を閉じたところで、後ろの席から兵頭匡平が声をかけてきた。
「悠木、帰りか」
「暦の作業次第。兵頭は?」
「用事を済ませてから帰る」
兵頭はそう言って、机の上に残っていたプリントをそろえた。
体格がよく、声もよく通る。初対面なら、ただ大雑把な男子に見えるかもしれない。けれど、兵頭の机の上には、不要なものが残っていなかった。筆記具は筆箱に収まり、配られたプリントは科目ごとに挟まれている。
それを兵頭自身が几帳面だと言うことはない。
乱れていると後で面倒だと知っているのだろう。
「影山さんの作業というのは?」
「図書室。返却棚の整理があるって」
「図書委員は真面目だな」
「本人に言うと、仕事だからって返ってくる」
「だろうな」
兵頭が短く笑ったところで、教室の前の扉が勢いよく開いた。
「湊、いた。よかった」
入ってきたのは三崎悠真だった。
同じB組の生徒で、顔を合わせれば誰にでも声をかける。明るく、人懐こい。そういう長所がある一方で、急いでいる時ほど、何がどこまで済んでいるのか分からなくなるところがあった。
三崎は教室の中を見回し、湊の席まで来ると両手を合わせた。
「悪い、ちょっとだけ手伝って」
「何を」
「ほんとにちょっと。たぶん」
兵頭が眉を上げた。
「たぶんで人を呼ぶな」
「兵頭も手伝ってくれる?」
「手伝う前提で話を進めるな。まず説明しろ」
三崎は笑ってごまかそうとしたが、兵頭の顔を見て、少しだけ姿勢を正した。
「ええと、備品の返却」
「何の備品」
「昨日の合同説明会で、片付けだけ手伝ったんだ。掲示板と、クリップと、案内札。あと、鍵」
「あと、じゃないだろ」
兵頭の声は荒くない。けれど、そこだけで話の重さが変わった。
湊は椅子から立ち上がった。
「返却先が分からないのか」
「それもある。いや、最初は分かってたんだけど、先生に言われた場所と、生徒会の先輩が言ってた場所が違ってさ。で、とりあえず一時保管室に置いたんだけど、さっき確認したら、案内札が二枚足りない」
「鍵は」
「ある」
三崎は制服のポケットを叩いた。
軽い音がした。鍵束がそこにあるのは分かったが、兵頭の表情は変わらなかった。
「そのあと、誰に確認した?」
「え?」
「案内札が足りないって分かったあとだ。先生、生徒会の先輩、一時保管室を使う人。どこまで確認したんだ?」
「まだ」
「じゃあ、今分かってるのは、数が合わないってことだけだな」
三崎はそこで初めて、笑うのをやめた。
教室に残っていた数人が、こちらを見ていた。誰かが助けに入るほど大きな騒ぎではないが、誰も気づかないほど小さくもなかった。
こういう時、三崎は悪びれないわけではない。
困っている顔をするし、謝ることもできる。ただ、その謝り方にはどこかで「誰かが一緒に困ってくれる」と思っている気配があった。
「とりあえず、見に行こうか」
湊が言うと、兵頭がすぐにこちらを見た。
「全部見るのか」
「全部は見ない。足りないものが本当に足りないか、確認だけ」
「ならいい」
三崎がほっとした顔をした。
「助かる。ほんと助かる」
「三崎」
兵頭が言った。
「先生に説明するのは、お前がやれ」
「え、俺?」
「預かったのはお前だろ」
「いや、それはそうなんだけど」
語尾が弱くなる。
兵頭は机の端に置いた手を離した。
「悠木が行ったら、悠木が預かったみたいになる。違うだろ」
「そこまでは思ってないって」
「思ってなくても、そうなる」
言い切り方が早かった。
湊は、その早さに少しだけ感心した。兵頭の言葉は、いつも先に後始末のほうを向いている。
三崎は言い返せず、視線を泳がせた。
「……分かった。説明は俺がする」
「それでいい」
兵頭は廊下へ向かいながら言った。
「まず現物を見る。次に数。最後に返却先。鍵は最後までお前が持て。途中で誰にも渡すな」
「そこまで?」
「責任を持つっていうのはそういうことだろ」
三人で教室を出た。
廊下には、部活へ向かう生徒と、帰宅する生徒の流れができていた。東都院の廊下は放課後でも荒れない。声はあるが、どこか抑えられている。走る者は少なく、すれ違う時には自然に肩を引く。
その中で、三崎だけが少し浮いていた。
本人にそのつもりはないのだろう。歩きながらポケットを探り、途中で別の生徒に声をかけられ、返事をしてから話の続きを忘れかける。
「三崎」
「ん?」
「鍵」
「あ、あるある」
「出すな。持っていることだけ確認しろ」
「細かいな、兵頭」
「鍵を失くした奴は、だいたいそう言う」
購買へ向かう角を曲がらず、三人は新校舎の端から渡り廊下へ出て特別教室棟へ向かう。
一時保管室は、通常の教室とは違って人の出入りが少ない。三崎が鍵を開けると、中には古い木製の台車が一台置かれていた。上には折りたたみ式の掲示板が二枚、重ねられている。
「これ」
三崎が言った。
兵頭はすぐには触らなかった。
まず周囲を見た。扉の札、台車の位置、掲示板に貼られた紙片、台車の端に重ねられた四枚の案内札、床に落ちているクリップ。見終えてから、ようやく手を伸ばした。
「案内札は何枚あった」
「たしか六枚」
「たしかじゃなくて」
「六枚。正門、受付、講堂、控室、資料配布、順路。……だったと思う」
「最後が弱い」
三崎は肩をすくめた。
湊は掲示板の裏を見た。紙の角が一枚、金具の間に挟まっている。剥がれかけた案内札だった。
「一枚あった」
「どれ?」
「資料配布」
湊が差し出すと、三崎の顔が明るくなった。
「さすが湊」
「まだ一枚足りない」
兵頭がすぐに言った。
三崎の顔が戻る。
「あと何だっけ」
「お前が思い出せ」
「順路、かな」
「なら、順路をどこで外したか考えろ」
「講堂前……いや、帰りに剥がしたのは俺じゃない。たぶん、生徒会の先輩が」
「生徒会の先輩のせいにする前に、その先輩に確認」
「今から?」
「今から」
兵頭は台車から手を離し、三崎を見た。
「足りない一枚がどこにあるか聞いてこい。ついでに、返却場所も確認」
「一人で?」
「一人で」
兵頭は台車を扉の外まで引き出した。
「鍵をかけてから行け」
「……分かった。行ってくる」
三崎は一時保管室を施錠し、鍵をポケットに戻した。
「鍵は?」
「持ったまま。誰にも渡さない」
「よし」
兵頭が短く答えた。
三崎は廊下の向こうへ走りかけ、すぐに歩き直した。廊下で走るな、と言われる前に思い出したのだろう。
その背中を見送ってから、兵頭は台車の上を整えた。掲示板の角をそろえ、クリップを小さな箱に戻し、案内札を種類ごとに重ねる。動きに派手さはない。けれど、散らばっていたものが短い時間で見える形になった。
湊はそれを見ながら、足元に落ちていたクリップを拾った。
「返却場所も、三崎が確認するんだな」
「預かったのはあいつだからな」
「兵頭は、だいたい分かってるのか」
湊が聞くと、兵頭は少しだけ肩をすくめた。
「前に片付けを手伝った時、似たようなことがあった。借りる時は教員、戻す時は担当棚。鍵だけ職員室。物によって違う」
「面倒だな」
「面倒だから、紙に書くんだよ」
湊は台車に残った掲示板を押さえた。
「悪い。巻き込んだ」
「お前が巻き込んだわけじゃない」
「でも、兵頭は寄るところがあったんだろ」
「急ぎじゃない」
兵頭はそう言って、台車の上に視線を戻した。
「間に合わなかったら、悪い」
「お前が謝るところじゃない」
二人で台車の上を確認していると、暦が通りかかった。 図書室へ行く途中なのだろう。手には数冊の本を抱えている。
「何をしているの」
「三崎の備品返却の手伝い」
湊が答えると、暦は台車の上を一度見て、次に兵頭を見た。
「兵頭くんがいるなら、終わりそうですね」
「影山さん、それ褒めてるのか」
「事実です」
「ならいいか」
兵頭は苦笑した。
暦は湊に視線を戻した。
「図書室、先に行く」
「ああ」
暦はそれだけ聞いて、廊下を曲がっていった。
兵頭が小さく息を吐いた。
「影山さん、言い方は静かなのにな」
「三崎が一人で最後まで片付けるとは、俺も思ってなかった」
湊が答えると、兵頭は苦笑した。
しばらくして、三崎が戻ってきた。
手には、折れ曲がった案内札を一枚持っている。紙の端に、小さな靴跡がついていた。
「講堂の端に落ちてた。生徒会の先輩に確認したら、俺が最後にまとめる係だったって」
「だったって、じゃない」
「はい」
「次は書く。たぶん」
兵頭が黙って見ると、三崎は慌てて言い直した。
「書く。ちゃんと」
三崎は素直にうなずいた。
その素直さが、かえって厄介なのかもしれないと湊は思った。謝れるし、人に頼れる。だから周囲も、強く突き放しにくい。
兵頭は案内札を受け取り、枚数を数えた。
「六枚。掲示板二枚。クリップ十二。案内札六。鍵一つ」
「おお」
「おお、じゃない。これを先生に報告。最終返却場所も確認。お前が行く」
「一緒に来てくれない?」
兵頭は即答しなかった。
代わりに湊を見た。
湊は、三崎を見た。
ここで一緒に行けば、早く終わる。説明も整理できる。三崎が言葉に詰まれば、横から補えばいい。
そう考えたところで、兵頭のさっきの言葉を思い出した。
悠木が行ったら、悠木が預かったみたいになる。
「途中までなら」
湊は言った。
「職員室の前まで。説明は三崎がする」
三崎は一瞬だけ残念そうにしたが、すぐにうなずいた。
「分かった。そこまで来てくれるなら助かる」
「台車は?」
「先生の確認が取れるまでここ。鍵は三崎。戻ってきたら、最終返却」
兵頭がまとめた。
職員室までの廊下を歩きながら、三崎は何度か説明の順番を口の中で練習した。
「昨日の合同説明会の備品を一時保管室に置いて、案内札が一枚不足していました。講堂前で見つかって、今は六枚そろっています。最終返却場所を確認したいです。……これでいい?」
「それでいい」
「謝るのを先にしたほうがいい?」
「最初に謝って、それから報告」
「分かった」
職員室の前で、湊は足を止めた。
三崎も止まる。
「ここまで」
「うん。ありがと」
「次は、先に確認したほうがいい」
「湊まで兵頭みたいなこと言う」
「兵頭が正しいから」
三崎は少しだけ目を丸くしたあと、苦笑した。
「分かった。行ってくる」
職員室の扉を叩く音がした。
中から教師の返事があり、三崎は背筋を伸ばして入っていった。
湊が戻ると、兵頭は一時保管室の前で台車にもたれずに立っていた。もたれれば楽なのに、掲示板がずれないようにしているのだと分かった。
「行ったか」
「行った」
「なら、あとは本人の仕事だ」
「冷たいな」
「冷たくない。ここで代わると、話がずれるだろ」
兵頭の言葉は、説教の形をしていなかった。
ただ、ものの位置を正すように、当然の場所へ置いただけだった。
湊は台車の上を見た。
掲示板、案内札、クリップ、鍵。どれも小さなものだ。けれど、それぞれに戻る場所がある。戻す人がいる。確認する相手がいる。
なくなれば、誰かが探す。
曖昧にすれば、誰かが困る。
「……こういう時、どこまでやるか迷うな」
湊が言うと、兵頭は少し意外そうな顔をした。
「お前でも迷うのか」
「迷う」
「なら、迷った時点で一回止めろ。だいたい、そこから先は本人がやる分だ」
「耳が痛いな」
「お前、痛い耳あったのか」
「あるぞ」
兵頭は笑った。
やがて三崎が戻ってきた。
教師から最終返却先を確認したらしく、今度は自分で台車を押した。兵頭は鍵の返却だけ最後に確認し、湊は途中まで一緒に歩いたが、案内札には触らなかった。
返却が終わるころには、廊下の人影は少なくなっていた。
冬の夕方は早い。窓の外の光は薄く、校舎の中に残る足音も少し遠く聞こえた。
「先生への報告まで終わったなら、今日はここまでだな」
兵頭が言った。
「それ、俺が言っていいやつ?」
三崎が言った。
さっきより声は軽くなかった。
「言う前に、次の話だ」
兵頭は短く答えた。
「預かった時点で一覧にしろ。謝るだけで終わりにするな」
「……分かった」
三崎はうなずいた。
叱られたが、切り捨てられたわけではない。本人はきっと、そう受け取っている。
湊はそれでいいのだろうと思いかけて、少しだけ立ち止まった。
いいかどうかは、次に三崎が同じことをするかで決まるのかもしれない。
廊下の先で、暦が立っていた。
待っていた、というより、通りかかった時刻が合ったような立ち方だった。
「終わった?」
「終わった」
「三崎くんが自分で報告した?」
「ああ」
「なら、よかった」
暦はそれだけ言って、三崎のほうを見た。
責める目ではない。感情を乗せすぎない、いつもの観察の目だった。
三崎は首を傾げた。
「影山さん、何か怖くない?」
「怖くはありません」
「即答が怖い」
「そう見えるなら、三崎くんの受け取り方だと思います」
兵頭が笑い、三崎もつられて笑った。
廊下を歩き出すと、暦が隣に並んだ。
「湊」
「何?」
「今回は、全部やらなかった?」
「そうだな」
「兵頭くんがいたから?」
湊は少し考えた。
「それもある」
「そう」
暦はそれ以上聞かなかった。
ただ、その答えを覚えたようだった。
兵頭は前を歩きながら、三崎に次から書く項目を短く並べている。三崎は言い訳をしそうになり、そのたびに口を閉じていた。
大きな出来事ではない。
誰かが怪我をしたわけでも、取り返しのつかない失敗が起きたわけでもない。
散らばっていたものは、もう片付けられていた。
それでも湊は、台車の上でそろえられた案内札の端を、しばらく思い出していた。
冬の廊下を、四人分の足音が進んでいく。
東都院の放課後は、何事もなかったように静かだった。




