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東都院物語  作者: 橘鉄真
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弓道場の帰り道

 午後の授業が終わるころには、窓の外の光もやわらいでいた。

 窓際に残っていた明るさは、放課後のざわめきに混じってゆっくり薄れていく。教室では、帰り支度をする者、部活動の道具を取りに行く者、委員会の連絡を確認する者が、それぞれの速度で席を立っていた。

 湊は机の横に置いていた鞄を持ち上げ、弓道着の入った袋を肩に掛けた。


「部活か?」


 兵頭が、机の上の教科書をそろえながら言った。


「ああ。今日はある」

「終わりはいつも通りか」

「たぶん」

「なら、帰りもいつも通りか」


 兵頭はそう言うと、そろえた教科書を鞄に入れた。


「俺は生徒会に寄る」

「手伝いか」

「今日は資料運びだけだ」


 兵頭は短く頷き、先に教室を出ていった。

 暦はすでに教科書を鞄に収めていた。湊の方を見たが、今日の予定を確認することはない。


「図書室?」

「少しだけ」

「先に帰ってもいいぞ」

「必要なら帰る」

「必要じゃないなら?」

「残る」


 短い返事だった。

 湊はそれ以上言わなかった。

 暦が残ると言った時、それは誰かを待つための言葉には聞こえにくい。図書室の作業があるから残る。終わる頃に湊の部活も終わる。そういう予定というだけのこと。

 少なくとも、暦はそういう顔をしていた。


「じゃあ、あとで」

「うん」


 湊は軽く手を上げ、教室を出た。


 廊下には、放課後の人の動きがいくつも重なっていた。

 湊は正門へ向かう生徒や、特別教室棟へ急ぐ生徒の間を抜け、弓道場へ向かった。

 東都院の弓道場は、校舎の賑やかさから離れた場所にある。派手な建物ではない。古い木の柱と、よく掃かれた床と、静けさを含んだ射場がある。


 弓道場は、中等部と高等部が共用している。活動時間は重なりすぎないように組まれていて、中等部の稽古は高等部より早く始まり、早く終わる。

 湊が足を踏み入れると、弦音と矢が的に触れる乾いた音が聞こえた。

 湊は更衣を済ませ、一礼して射場へ入った。


 弓を手に取ると、冷たさが指先に移る。

 息を整え、足を置き、目の前の的を見る。

 的は遠いが、その遠さは毎回変わらない。

 変わるのは、自分の方だった。

 指先の冷え。肩の入り方。息の浅さ。授業の疲れが、思ったより体に残っている日もある。

 だから、湊はまず、いつもの手順を確かめる。


 足を決める。

 胴を保つ。

 肩に余計な力を入れない。

 離れの瞬間だけを急がない。


 一本目は、中心から大きく外れなかった。

 悪くはない。

 周囲が声を上げるほどでもない。

 湊は軽く息を吐き、次の矢を番えた。


 弓道部の中で、湊は目立つ選手ではなかった。大会で名前が響くような強さがあるわけではない。射も、特別に華やかなわけではない。

 ただ、一本ごとの所作は安定していた。

 練習の入り方、礼、片づけ、他の部員への声のかけ方。そのあたりを、先輩はよく見ていた。


「悠木、三番に置いてある矢、あとで見ておいてくれるか」


 稽古の合間に、二年の先輩が言った。


「分かりました。羽根ですか?」

「そう。何本かは傷んでいるかもしれない。無理なら使わないようにしておいて」

「はい」


 湊は頷いた。

 頼まれたことは、大きな仕事ではない。

 それでも、そういう確認を任されるようにはなっていた。


 練習が終わる頃には、外の明るさもさらに落ちていた。

 湊は弓を戻し、三番に置かれた矢を確認し、羽根の傷んだ一本に目印をつけた。床に落ちた小さな埃を箒で寄せ、最後に射場を出る前に一礼する。

 部員たちは更衣室の前で、今日の射の話や、次の練習日の話をしていた。


「悠木、帰りか」


 先輩がタオルを首にかけながら言った。


「はい。片づけは終わりました」

「お疲れ。寒いから早めに帰れよ」

「ありがとうございます」

「寄り道して冷やすなよ」


 別の先輩が、軽く言った。


「気をつけます」


 湊が答えると、先輩は短く頷いた。

 部活後の声かけはそこで終わった。


 更衣を済ませ、弓道場を出る。

 外の空気は、練習前より冷えていた。汗が引いた首筋に、冬の風が触れる。湊は制服の上着を整え、弓道着の入った袋を持ち直した。

 校舎へ戻る途中、体育館の方からはかけ声が聞こえてくる。グラウンドではまだ走っている生徒がいた。校舎の窓には、灯りのついた教室がいくつか残っていた。

 放課後の東都院には、帰る者と残る者の気配がまだある。


 湊が新校舎まで戻ると、昇降口の庇の下に暦がいた。

 壁に寄りかかってはいない。

 鞄を両手で持ち、校庭の方を見ている。待っているというより、そこに置かれた予定が、時間通りに次の予定へ移るのを確認しているようだった。

 湊が近づくと、暦は校庭側へ向けていた体を戻し、何も言わずに歩き出した。

 湊も隣に並ぶ。


「待ってたのか」

「終わる時間、分かってたから」

「遅かった?」

「三分」

「誤差だろ」

「普通ならそう」

「俺だけ基準が厳しいな」

「いつものこと」


 暦の声音は平坦だった。

 教室でほかの生徒に返す時よりも、ずっと。

 湊は歩く速度を落とした。

 暦の返事が、いつもより半拍遅い。髪は整っているが、リボンの位置がいつもより低かった。

 言えば、暦は否定するだろう。

 だから、湊は聞かなかった。


「図書室、忙しかったのか」

「返却本が多かった」

「誰か手伝ってくれた?」

「牧瀬さんが少し」

「ならよかった」

「湊は?」

「普通。矢が一本危なかったから、外しておいた」

「怪我?」

「してない」

「ならいい」


 そこで、会話はいったん途切れた。


 外の空気は、弓道場を出た時よりも冷たく感じた。汗の引いた首筋に、制服の襟が触れる。

 湊は、正門の向こうに見える白藤坂通りへ目を向けた。

 本当は駅前の店に寄って弓道用のテーピングを買うつもりだったが、先輩に言われた通り、あまり長く歩き回るのもよくない。


「今日はまっすぐ帰るか」

「寄らないの」

「汗が冷えた」

「風邪ひく」

「だから帰る」

「テープは」

「明日でいい」

「残り、少ない」

「一本ある」

「ぎりぎり」

「じゃあ明日買う」

「忘れる」

「忘れない」

「湊は時々、必要なものを後回しにする」

「よく見てるな」

「見てなくても分かる」


 そう言って、暦は肩をすぼめた。

 湊は自分のマフラーを巻き直し、歩幅を落とした。


 白藤坂通りでは、登校時に上へ向かっていた生徒たちが、今は駅へ向かってほどけていた。正門を出た生徒たちは、部活の荷物を持ち、友人と並び、坂道を下りていく。車寄せの方では、迎えの車を待つ生徒が数人いた。

 湊はその人波を見ながら、暦の左側を歩いた。

 車道に近い方を、自分が取る。

 いつからそうしているのかは覚えていないが、小学生の頃くらいからだろう。暦が何も言わずに内側へ入るのも、同じくらい昔からだ。


「今日、兵頭が言ってた」


 湊が言うと、暦は前を向いたまま返した。


「何を」

「帰りもいつも通りかって」

「そうだな」

「見た目で判断してる人が多いけどな」

「多い」


 暦はそこで一度、足元を見た。


「湊は、あまりしない」

「何を」

「見た目だけで決めること」

「そうでもない。最初の印象はある」

「そのあと変える」

「話してみないと分からないだろ」

「みんながそうなら楽」


 暦の声はいつも通りだったが、最後の言葉だけ、わずかに低かった。

 湊は横を見る。

 暦は正面を向いている。

 何か言おうとして、やめた。

 暦は答えを求めて言ったわけではない。たぶん、自分の中で確認したことが、そのまま口に出たのだ。


 坂を下りる途中で、上級生らしい女子生徒たちが前を歩いていた。そのうちの一人が湊と暦に気づき、軽く会釈した。湊も返す。暦も少し遅れて頭を下げた。

 すれ違うと、女子生徒たちの声量が戻った。

 湊と暦が一緒にいることは、もう珍しいものではない。

 それでも、誰かの視界に入るたびに、何かしらの意味を与えられている気配はあった。

 湊にとっては、ただの帰り道だった。


 駅前に近づくと、店の明かりが増えた。

 白藤坂通りの店は、どれも控えめな店構えをしている。学生向けの安い店もあるが、看板は小さく、窓の中の照明も強すぎない。

 いつもの書店の前で、暦の視線が一瞬だけ動いた。

 湊は気づいて、足を止めなかった。


「寄る?」


 暦が聞いた。


「今日はいい」

「私は見てもいい」

「見たら買うだろ」

「必要なら」

「見たら必要になるだろ」

「理不尽」

「明日な」

「明日、テープと本」

「本も買うのか」

「必要なら」

「その必要は強そうだな」


 暦は答えなかった。

 代わりに、表情がわずかにゆるんだ。


 駅の改札を通るころには、湊の指先も冷えていた。

 電車は混みすぎてはいなかった。東都院の生徒だけでなく、仕事帰りの大人や、別の学校の生徒もいる。

 湊と暦は、扉の近くに並んで立った。


 暦は片手で吊革をつかみ、もう片方の手で鞄の持ち手を握っていた。電車が揺れた時、湊は何も言わず、わずかに位置を変えた。

 暦の肩が、人にぶつからない場所へ収まる。

 暦も何も言わない。

 そのまま窓の外を見ていた。


 窓の外を、夕方の街が流れていく。

 東都院の校舎も、白藤坂通りも、正門前の空気も、電車が進むにつれて遠ざかる。代わりに、普通の店、普通の住宅、普通の踏切が戻ってくる。

 湊は、その切り替わりを見るのが嫌いではなかった。

 暦は、窓の方を見ていた。


「明日」

「ん?」

「図書室、返却本の整理が残る」

「また待つのか」

「湊は部活ない」

「把握が早いな」

「予定表に書いてあった」

「俺の?」

「弓道部の」

「なるほど」

「だから、明日は一緒に帰れる」


 湊は、返事をするまでに間を置いた。

 暦の言い方は、約束を取りつけるものではなかった。予定を確認しているだけだった。

 暦にとっては、それも予定の一つなのだろう。


「じゃあ、テープと本だな」

「本は未確定」

「必要なら?」

「必要なら」


 電車が次の駅に近づき、速度を落とした。

 湊は吊革を握り直した。暦も、つかんでいた吊革に少し力を入れる。

 それだけで、二人とも揺れに備えた。


 特別な話はしていない。

 大きな出来事もない。

 部活があり、図書室の作業があり、帰り道があり、明日の予定がある。

 湊にとって、それは日常だった。

 あまりにも自然に続いてきたので、いつか形が変わるかもしれないとは、まだ考えていなかった。

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