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東都院物語  作者: 橘鉄真
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4/61

1年B組

 昇降口へ向かう道には、同じ制服の生徒が途切れずに流れている。

 駅前のような雑然とした混み方ではなかった。誰も大きな声を出さず、歩く速さも、鞄の持ち方も、揃っている。揃えようとしているというより、揃っていないことのほうが目立つ場所なのだった。

 湊は靴を履き替え、上履きの踵を軽く床につけた。

 磨かれた廊下に、小さな音が落ちる。


「今日、一限は現代文」


 隣で暦が言った。


「知ってる」


 昨日の帰り道で、湊は一限を古典だと思い込んでいた。暦はそれを覚えていたのだろう。


「途中で気づいた」

「本当に?」

「本当に」

「ならいい」

「疑ったのに」

「確認しただけ」

「便利な言葉だな、それ」


 暦は答えず、廊下の先へ視線を向けた。

 登校直後の高等部校舎には、まだ授業前の余裕がある。廊下の窓から入る光は白く、床の艶に薄く伸びていた。掲示板には、行事予定と委員会からの連絡が整然と並んでいる。紙の端はきちんと揃えられ、画鋲の位置すら乱れていない。

 東都院では、こういう小さな乱れのなさが当たり前の顔をしている。

 曲がったままの紙や、通り道に残された鞄や、声の大きすぎる会話は、すぐにその場から浮く。そういうものを浮かせないための習慣が、校舎のあちこちに染みている。

 一年B組の教室は、廊下の中ほどにあった。


 扉の前で、暦が一度足を止める。

 中からは、朝の教室らしい低いざわめきが聞こえていた。椅子を引く音。誰かがプリントを机に置く音。窓際で笑う声。そのどれもが一定の大きさを超えない。

 湊が扉に手をかけると、内側で足音が近づいた。

 扉が開き、兵頭匡平が顔を出す。片手には、回収途中の進路希望の下書きプリントを数枚持っていた。


「悠木。おはよう」


 兵頭はそう言って、扉の脇へ半歩下がった。

 背は低いほうで、制服の着方も目立たない。短く整えた髪と、あまり表情を動かさない顔つきのせいで、黙っていると近寄り難く見える。だが、湊たちの後ろにも生徒が続いているのを見て、出入り口をふさがない位置へ自然に退いていた。兵頭は、そういうところをよく見ている。


「おはよう、兵頭」

「影山さんも、おはよう」

「おはよう、兵頭くん」


 暦は短く返した。

 兵頭もそれ以上は続けず、手元の紙束を持ち直して教室の中へ視線を向けた。

 湊が教室へ入ると、後方の通路に椅子がはみ出していた。

 数人が机の中を探しており、その横を通ろうとする生徒が足を止めている。兵頭が持っている紙束も、まだ全員分は揃っていないようだった。


「昨日のプリント、まだ出てない分がある」

「何のプリント?」

「進路希望の下書き。担任が朝一で集めるって言ってたやつ」

「昨日の終礼で言ってたやつか」

「それで今、何人か探してる」


 先生に頼まれたというより、机に出ている分を見て先にまとめていたらしい。

 兵頭の動きは平坦だった。褒められたいのでも、誰かを責めたいのでもなく、状況をそのまま処理しているようだった。

 湊は自分の席へ行く前に、はみ出した椅子を軽く引いた。


「悪い、そこ通る」

「あ、ごめん」


 机を探していた男子が慌てて鞄を抱えた。

 湊はその隙間を通り、いくつかの机の端に出された進路希望の下書きプリントを見た。兵頭はそれを順に回収していたらしい。提出先の箱は教卓の横にある。だが、そこまで行く通路が少し狭い。


「出てる分だけ、先に集めよう。見つからない人は、先生が来たあとで職員室に出せばいい」

「分かった」

「じゃあ、俺はこっちの列を見る。兵頭はそのまま隣の列、頼んでいいか?」

「了解」


 兵頭はすぐに動いた。

 湊は後方の列から順に声をかける。強く急かす必要はない。提出するものがある生徒は机の上へ出し、まだ見つかっていない者は、担任が来たあとで職員室へ持っていく。そう分けるだけで、詰まっていた通路は次第に戻っていった。

 暦はその間、自分の席へ行き、鞄からノートを出していた。

 途中で、通路の端に落ちていた定規を拾い、持ち主の机へ置く。声をかけるでもなく、当然のような動きだった。

 提出物を確認している生徒には、今日出す分だけでいいと伝え、受け取った紙は向きを軽くそろえてから兵頭に渡した。


「助かる」

「先生が来る前に間に合うな」

「ああ」

「兵頭が先に気づいてたからな」


 湊がそう言うと、兵頭はわずかに視線を下げた。


「気づいただけだ」


 朝の教室は、その頃には落ち着きを取り戻していた。

 窓際では、内部生らしい数人が昨日の委員会の話をしている。声は柔らかいが、話題に出る名前には、湊がまだ測りきれない含みがあった。


「白銀会議の準備班、今年はもう名前が出てるらしいよ」

「会議自体は秋でしょう」

「でも、評議会の顔ぶれが少し変わるって聞いた」

「それなら、早いでしょうね」


 そこで、会話の声量がわずかに落ちた。

 湊は紙束を教卓へ置きながら、その変化だけを聞いた。

 白銀会議。評議会。

 どちらも、名前としては知っている。説明されたこともある。東都院の中で何を意味するのかも、頭では分かってきている。

 それが会話に混じる時の温度までは、まだ身体に馴染んでいなかった。

 普通の学校なら、委員会や生徒会の予定は予定でしかない。

 東都院では、誰がその場に呼ばれるか、誰が名前を出されるか、誰が自然に会話の中心に置かれるかに、別の意味がつく。

 名前の後ろに、家や役職や先輩とのつながりがついてくる。

 誰もそれをわざわざ説明しない。説明しなくても分かる者同士で、会話は先へ進んでいく。


 湊は、それを不親切だとは思わなかったが、馴染みのない会話には反応が遅れる。

 一拍遅れて、ああ、今のはただの行事予定の話ではないのだと理解する。

 その一拍が、湊を東都院の外側に残している。


「悠木」


 担任の声がして、湊は顔を上げた。

 一年B組の担任は、四十代半ばの男性教師で、いつも背筋が伸びている。怒鳴ることは少ないが、緩くもない。教室に入るだけで、机の上の物と椅子の角度まで改まるような教師だった。


「はい」

「プリントを回収してくれたのか」

「まだ数名分が未提出です。今探している生徒には、見つかり次第、職員室へ直接出すよう伝えています」

「分かった。助かった」


 担任は教卓へ置かれた紙束を見て、短く頷いた。


「それと、これを配ってくれるか。後ろからでいい」


 薄いプリントの束が差し出される。

 湊は受け取り、枚数をざっと見た。


「一人一枚ですか」

「ああ。今日の連絡と、来週の小テスト範囲だ。影山、前列を頼めるか」

「はい」


 暦は立ち上がり、湊が半分に分けたプリントを受け取った。

 こういう時、暦の動きは速い。声は大きくないが、配る順番を間違えない。空席の分は机の端にまっすぐ置き、余った分はすぐ教卓へ戻す。

 湊は後ろの列を回った。

 机と椅子の間が狭いところは避けて、通りやすい側を進む。話し込んでいる生徒には、プリントの端を机に軽く当てるだけで気づかせる。眠そうにしている男子の机には、角を揃えて置いた。

 湊は最後の一枚を兵頭の机に置いた。


「兵頭、範囲」

「ああ。確認する」


 兵頭はプリントを受け取り、すぐに目を通した。


「古典は別か」

「たぶん、あとで出る」

「分かった」


 朝礼が始まる。

 担任の連絡は短かった。来週の小テスト、委員会の提出物、校内での掲示物更新、昼休みに職員室へ来る生徒の名前。湊の名はそこにはない。担任は話しながら、時折、教卓の紙束へ目を落としていた。

 さっきのプリント回収が、朝の流れを滞らせずに済んだことは、湊にも分かった。

 湊は、それを誇るほどのこととは思っていない。

 詰まっていたから直した。

 頼まれたから配った。

 それだけである。

 けれど、東都院では、その「それだけ」を見ている人間がいる。


 教師も、生徒も、表立って褒めはしない。

 ただ、次に何かがあった時、誰に声をかけるかを覚えている。

 そういう場所だった。

 朝礼が終わると、教室の空気はすぐに戻った。

 暦は席に座り、プリントの小テスト範囲に細く印をつけている。

 隣の席の女子が、控えめに声をかけた。


「影山さん、ここの範囲、教科書の次の頁までで合ってるかな?」


 暦はプリントを見てから、教科書の端を指で押さえた。


「はい。ここまでです。漢字の小問は、前回の続きも入ると思います」

「そっか。ありがとう」

「いえ」


 それで会話は終わった。

 感じが悪いわけではない。必要なことにはきちんと答える。ただ、そこに余分な言葉を足そうとはしない。

 湊が近づくと、暦は目だけを上げた。


「現代文だった」

「だから言っただろ」

「確認」

「またそれか」

「便利だから」


 湊は自分の席へ戻りながら、暦の机の端を見た。

 ノートの角が、きれいに揃っている。筆箱は右上。教科書は左。プリントは下敷きの上。いつもどおりだった。

 返事が遅い。

 湊は自分の席から、暦の横顔を見た。


「昨日、寝るの遅かった?」


 暦の手が止まった。


「いつもよりは」

「天体観測?」

「雲が切れた」

「それで?」

「見るしかなかった」

「まあ、そうなるか」

「そうなる」


 暦は淡々と言ったが、目元がいつもよりわずかに重い。

 周囲の誰かが気づくほどではない。教師なら、眠そうだなと思うかもしれない。けれど湊には、それが暦の中ではかなり眠い側に入ることが分かった。


「昼は寝るか?」

「寝ない」

「寝たほうがいい顔してる」

「顔で判断しないで」

「返事も遅い」

「それは湊の質問が雑だから」

「俺のせいになった」

「そう」

「休み時間くらい、目を閉じたらどうだ」

「必要ない」

「そうか。無理はするなよ」


 暦が顔を上げた。

 無表情に近いが、目だけが少し細い。


「湊は、そういうところがしつこい」

「悪かった」


 そこで教師が入ってきたので、会話は切れた。

 授業が始まると、教室は一段静かになる。

 東都院の生徒は、授業中まで全員が品行方正というわけではない。眠そうにしている者もいるし、ペン回しをする者もいる。ノートの端に何かを書いている者もいる。

 乱れ方にも限度があった。

 誰かが叱られるほど目立つ前に、隣が肘で止める。教師に当てられれば、多少間違えても姿勢を正して答える。分からない時にも、分からないなりの答え方がある。

 そういう作法を、多くの生徒は最初から知っている。


 湊と暦は、あとからここへ入った。

 入試の点数で門を通ったことは確かで、教師もそれを認めている。教科書に載っていない作法までは、試験では測れない。

 湊は板書を写しながら、隣の列の生徒が教師に答える声を聞いていた。


「その解釈は、近代以降の個人観に寄りすぎているかもしれません」


 答えた男子は、落ち着いていた。

 普通の高校生が授業中に使うには、改まった言葉だった。教師は満足そうに頷き、別の生徒に意見を求める。

 誰も気負っていない。

 そういう言葉で答えることが、この教室では特別ではない。

 休み時間になった時、兵頭が湊の席まで来た。


「悠木、さっきのプリント、未提出あと二人」

「誰と誰?」

「三崎と大河内。三崎の分は職員室に出てるらしい。大河内はまだだ」

「なら、大河内には俺から言っておく。見つかったら職員室に出すように」

「助かる」


 兵頭は短く頷き、自分の席へ戻った。

 兵頭は、自分から輪の中心に入ることは少ない。

 教室の中でも、誰かに声をかける前に、相手の邪魔にならないかを一度見ている。

 湊は、そういう兵頭に普通に声をかける。

 兵頭は、普通に応じる。

 それで済む話だった。

 昼休みになると、教室の空気はやわらいだ。


 弁当を広げる者。購買へ急ぐ者。廊下へ出て行く者。机を寄せる者。東都院の昼休みも、そこだけ見れば普通の高校と変わらない。

 机の寄せ方や、グループの作り方には、やはり言葉にならない決まりのようなものがあった。

 窓際の女子たちは、自然に四人でまとまる。廊下側では、内部生の男子数人が近い席を選ぶ。兵頭は、購買へ行く前に一度湊の席へ寄った。


「購買へ行くか?」

「いや、弁当ある」

「そうか」


 兵頭はそれだけ確認すると、暦のほうへ軽く会釈した。暦も小さく頷く。

 関係が悪いわけではないが、二人とも、用件以上の会話を無理に足そうとはしなかった。


「列、長いかもしれないぞ」


 湊が言うと、兵頭は廊下側を一度見た。


「なら、早めに行く」


 兵頭が教室を出ていく。

 その小柄な背中が廊下に消えると、暦は箸を取り出しながら言った。


「兵頭くんは、急いでいる時ほど周りを見る」

「そうだな」

「人にぶつからないようにしている」

「常識的なんだよ」

「それもある」


 湊は少し黙った。


「……よく気づくな」

「そういう動きは、目に入る」


 暦は弁当の蓋を開けた。

 小さな容器に、きっちり詰められた昼食が入っている。彩りは悪くないが、量は少なめだった。


「眠いなら、寝ててもいいぞ」

「眠くない」

「朝より返事が遅くなってる」

「湊は母親?」

「幼馴染だろ」

「そういうところは、母親寄り」

「どこが」

「休むかどうかまで見てくるところ。過保護」

「それは悪かった」


 暦は小さく首を横に振った。


「悪いとは言ってない」


 その言い方は、いつもより柔らかかった。

 湊は自分の弁当を開けた。母が詰めたものだ。派手ではないが、食べ慣れた味がする。東都院の食堂や購買には、もう少し洒落たものもある。けれど湊はこの弁当のほうが好きだった。

 昼休みの教室では、別の会話が流れていた。


「今年の春季晩餐会、準備班の名前がもう出ているって聞いたけれど」

「評議会の顔ぶれが少し変わるなら、先に確認しておくのでしょう」

「九条院さんのところも関係するのかな」


 その名前が出た時、教室の一角で声の調子がわずかに改まった。

 九条院。

 湊は箸を止めなかった。

 けれど、耳だけはそちらへ向いていた。


「九条院さんは去年も式典補佐に入っていたし」

「ああいう場に立つ人は、最初から決まっている感じがするよね」

「そういう言い方は、どうかしら……」


 最後の言葉は、途中で濁された。

 誰かが小さく笑い、誰かがそれを咎めるように目を向ける。露骨な悪口にはならない。けれど、誰も意味を取り違えない。

 湊は、その会話の中に入らなかった。

 入れなかった、というほうが近い。

 家名を口にした時の声量。

 言いかけて、最後まで言わない呼吸。

 笑ってよい範囲と、笑ってはいけない範囲。

 それらは、湊がこれまで暮らしてきた街の感覚とは違っていた。

 東都院では分かりやすく線を引かれることは少ない。


 誰かを乱暴に見下す言葉も、少なくとも教室では滅多に聞かない。

 そのかわり、言わなくても分かること、分からなければいけないことが多すぎる。

 湊はそういう空気をまだ好きにはなれなかったが、嫌いだと断じるほど、何かを知っているわけでもなかった。

 だから、保留する。

 聞こえたことを、すぐに決めつけない。

 目の前にいる相手を見てから考える。

 それが、湊にできるいちばん確かな方法だった。


「湊」


 暦が呼んだ。


「ん?」

「卵焼き、一つ余ってる」

「余ってるっていうか、残してるんじゃないのか」

「余ってる」

「じゃあ、もらう」


 暦は無言で、弁当箱の蓋に卵焼きを一つ置いた。

 湊はそれを箸で取る。


「甘い」

「母の味付け」

「おばさんの?」

「そう」

「久しぶりだな」

「この前も食べた」

「いつ」

「十一日前」

「よく覚えてるな」

「記憶にある」

「そうか」


 湊は笑い、卵焼きを食べた。

 暦は何事もなかったように、自分の昼食へ戻っている。

 教室の向こうでは、まだ春季晩餐会の話が続いていた。

 誰が準備に呼ばれそうだとか、去年は誰が来賓対応をしたとか、どの家が後援会と縁が深いとか。湊には分かる単語と、分からない背景が混じっている。

 けれど、暦が卵焼きを渡してくる気安さだけは、よく分かった。

 その気安さが東都院の中でどう見えるのか。

 湊は、まだあまり考えていなかった。


 昼休みが終わる頃、兵頭が戻ってきた。


「午後の移動教室、変更だそうだ。掲示板に出ていた」


 兵頭はそう言って、自分の席へ戻った。

 暦は弁当箱を片づけながら、教科書を机の端に寄せていた。


「湊」

「何?」

「そろそろ出る」

「分かってる」

「分かってる顔ではなかった」

「そんな顔してたか」


 暦は小さく頷いた。

 教室の中には、午後の授業へ向かう前のやわらいだ空気がある。

 内部生も外部生も、家名の重い者もそうでない者も、同じように掲示の内容を確認し、同じように教科書を持って立ち上がる。

 それでも、この場所では同じであることと、同じに扱われることは、完全には重ならない。

 湊はその違いをまだ言葉にしきれない。

 席を立つ一人一人を見る。


 役職でも、家でも、噂でもなく、その時の表情を見る。

 予鈴が鳴った。

 湊は兵頭に軽く手を上げた。

 兵頭も短く頷き、教科書を持って席を立った。

 湊はそれから暦の席へ目を向けた。


「暦、行くぞ」

「行く」


 暦はすでに教科書を持って立っていた。

 湊が声をかける前から、どの教室へ行くかも、何を持つかも分かっていたのだろう。

 それでも、湊が呼ぶと、暦は必ず返事をする。

 兵頭が廊下側の扉を開けた。

 暦が先に出て、湊がその後に続く。兵頭は最後に扉の位置を確かめ、後ろから来る生徒の邪魔にならないところで手を離した。

 廊下には、移動教室へ向かう一年生たちの流れができていた。

 東都院学園高等部一年B組。

 半年以上を過ごして、湊はその教室に慣れてきている。

 教師に頼まれることも増えた。兵頭のように、普通に話せる友人もいる。暦は相変わらず隣にいて、湊の行く先を当然のように把握している。


 窓の外では、冬の光がまだ白く残っていた。

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