1年B組
昇降口へ向かう道には、同じ制服の生徒が途切れずに流れている。
駅前のような雑然とした混み方ではなかった。誰も大きな声を出さず、歩く速さも、鞄の持ち方も、揃っている。揃えようとしているというより、揃っていないことのほうが目立つ場所なのだった。
湊は靴を履き替え、上履きの踵を軽く床につけた。
磨かれた廊下に、小さな音が落ちる。
「今日、一限は現代文」
隣で暦が言った。
「知ってる」
昨日の帰り道で、湊は一限を古典だと思い込んでいた。暦はそれを覚えていたのだろう。
「途中で気づいた」
「本当に?」
「本当に」
「ならいい」
「疑ったのに」
「確認しただけ」
「便利な言葉だな、それ」
暦は答えず、廊下の先へ視線を向けた。
登校直後の高等部校舎には、まだ授業前の余裕がある。廊下の窓から入る光は白く、床の艶に薄く伸びていた。掲示板には、行事予定と委員会からの連絡が整然と並んでいる。紙の端はきちんと揃えられ、画鋲の位置すら乱れていない。
東都院では、こういう小さな乱れのなさが当たり前の顔をしている。
曲がったままの紙や、通り道に残された鞄や、声の大きすぎる会話は、すぐにその場から浮く。そういうものを浮かせないための習慣が、校舎のあちこちに染みている。
一年B組の教室は、廊下の中ほどにあった。
扉の前で、暦が一度足を止める。
中からは、朝の教室らしい低いざわめきが聞こえていた。椅子を引く音。誰かがプリントを机に置く音。窓際で笑う声。そのどれもが一定の大きさを超えない。
湊が扉に手をかけると、内側で足音が近づいた。
扉が開き、兵頭匡平が顔を出す。片手には、回収途中の進路希望の下書きプリントを数枚持っていた。
「悠木。おはよう」
兵頭はそう言って、扉の脇へ半歩下がった。
背は低いほうで、制服の着方も目立たない。短く整えた髪と、あまり表情を動かさない顔つきのせいで、黙っていると近寄り難く見える。だが、湊たちの後ろにも生徒が続いているのを見て、出入り口をふさがない位置へ自然に退いていた。兵頭は、そういうところをよく見ている。
「おはよう、兵頭」
「影山さんも、おはよう」
「おはよう、兵頭くん」
暦は短く返した。
兵頭もそれ以上は続けず、手元の紙束を持ち直して教室の中へ視線を向けた。
湊が教室へ入ると、後方の通路に椅子がはみ出していた。
数人が机の中を探しており、その横を通ろうとする生徒が足を止めている。兵頭が持っている紙束も、まだ全員分は揃っていないようだった。
「昨日のプリント、まだ出てない分がある」
「何のプリント?」
「進路希望の下書き。担任が朝一で集めるって言ってたやつ」
「昨日の終礼で言ってたやつか」
「それで今、何人か探してる」
先生に頼まれたというより、机に出ている分を見て先にまとめていたらしい。
兵頭の動きは平坦だった。褒められたいのでも、誰かを責めたいのでもなく、状況をそのまま処理しているようだった。
湊は自分の席へ行く前に、はみ出した椅子を軽く引いた。
「悪い、そこ通る」
「あ、ごめん」
机を探していた男子が慌てて鞄を抱えた。
湊はその隙間を通り、いくつかの机の端に出された進路希望の下書きプリントを見た。兵頭はそれを順に回収していたらしい。提出先の箱は教卓の横にある。だが、そこまで行く通路が少し狭い。
「出てる分だけ、先に集めよう。見つからない人は、先生が来たあとで職員室に出せばいい」
「分かった」
「じゃあ、俺はこっちの列を見る。兵頭はそのまま隣の列、頼んでいいか?」
「了解」
兵頭はすぐに動いた。
湊は後方の列から順に声をかける。強く急かす必要はない。提出するものがある生徒は机の上へ出し、まだ見つかっていない者は、担任が来たあとで職員室へ持っていく。そう分けるだけで、詰まっていた通路は次第に戻っていった。
暦はその間、自分の席へ行き、鞄からノートを出していた。
途中で、通路の端に落ちていた定規を拾い、持ち主の机へ置く。声をかけるでもなく、当然のような動きだった。
提出物を確認している生徒には、今日出す分だけでいいと伝え、受け取った紙は向きを軽くそろえてから兵頭に渡した。
「助かる」
「先生が来る前に間に合うな」
「ああ」
「兵頭が先に気づいてたからな」
湊がそう言うと、兵頭はわずかに視線を下げた。
「気づいただけだ」
朝の教室は、その頃には落ち着きを取り戻していた。
窓際では、内部生らしい数人が昨日の委員会の話をしている。声は柔らかいが、話題に出る名前には、湊がまだ測りきれない含みがあった。
「白銀会議の準備班、今年はもう名前が出てるらしいよ」
「会議自体は秋でしょう」
「でも、評議会の顔ぶれが少し変わるって聞いた」
「それなら、早いでしょうね」
そこで、会話の声量がわずかに落ちた。
湊は紙束を教卓へ置きながら、その変化だけを聞いた。
白銀会議。評議会。
どちらも、名前としては知っている。説明されたこともある。東都院の中で何を意味するのかも、頭では分かってきている。
それが会話に混じる時の温度までは、まだ身体に馴染んでいなかった。
普通の学校なら、委員会や生徒会の予定は予定でしかない。
東都院では、誰がその場に呼ばれるか、誰が名前を出されるか、誰が自然に会話の中心に置かれるかに、別の意味がつく。
名前の後ろに、家や役職や先輩とのつながりがついてくる。
誰もそれをわざわざ説明しない。説明しなくても分かる者同士で、会話は先へ進んでいく。
湊は、それを不親切だとは思わなかったが、馴染みのない会話には反応が遅れる。
一拍遅れて、ああ、今のはただの行事予定の話ではないのだと理解する。
その一拍が、湊を東都院の外側に残している。
「悠木」
担任の声がして、湊は顔を上げた。
一年B組の担任は、四十代半ばの男性教師で、いつも背筋が伸びている。怒鳴ることは少ないが、緩くもない。教室に入るだけで、机の上の物と椅子の角度まで改まるような教師だった。
「はい」
「プリントを回収してくれたのか」
「まだ数名分が未提出です。今探している生徒には、見つかり次第、職員室へ直接出すよう伝えています」
「分かった。助かった」
担任は教卓へ置かれた紙束を見て、短く頷いた。
「それと、これを配ってくれるか。後ろからでいい」
薄いプリントの束が差し出される。
湊は受け取り、枚数をざっと見た。
「一人一枚ですか」
「ああ。今日の連絡と、来週の小テスト範囲だ。影山、前列を頼めるか」
「はい」
暦は立ち上がり、湊が半分に分けたプリントを受け取った。
こういう時、暦の動きは速い。声は大きくないが、配る順番を間違えない。空席の分は机の端にまっすぐ置き、余った分はすぐ教卓へ戻す。
湊は後ろの列を回った。
机と椅子の間が狭いところは避けて、通りやすい側を進む。話し込んでいる生徒には、プリントの端を机に軽く当てるだけで気づかせる。眠そうにしている男子の机には、角を揃えて置いた。
湊は最後の一枚を兵頭の机に置いた。
「兵頭、範囲」
「ああ。確認する」
兵頭はプリントを受け取り、すぐに目を通した。
「古典は別か」
「たぶん、あとで出る」
「分かった」
朝礼が始まる。
担任の連絡は短かった。来週の小テスト、委員会の提出物、校内での掲示物更新、昼休みに職員室へ来る生徒の名前。湊の名はそこにはない。担任は話しながら、時折、教卓の紙束へ目を落としていた。
さっきのプリント回収が、朝の流れを滞らせずに済んだことは、湊にも分かった。
湊は、それを誇るほどのこととは思っていない。
詰まっていたから直した。
頼まれたから配った。
それだけである。
けれど、東都院では、その「それだけ」を見ている人間がいる。
教師も、生徒も、表立って褒めはしない。
ただ、次に何かがあった時、誰に声をかけるかを覚えている。
そういう場所だった。
朝礼が終わると、教室の空気はすぐに戻った。
暦は席に座り、プリントの小テスト範囲に細く印をつけている。
隣の席の女子が、控えめに声をかけた。
「影山さん、ここの範囲、教科書の次の頁までで合ってるかな?」
暦はプリントを見てから、教科書の端を指で押さえた。
「はい。ここまでです。漢字の小問は、前回の続きも入ると思います」
「そっか。ありがとう」
「いえ」
それで会話は終わった。
感じが悪いわけではない。必要なことにはきちんと答える。ただ、そこに余分な言葉を足そうとはしない。
湊が近づくと、暦は目だけを上げた。
「現代文だった」
「だから言っただろ」
「確認」
「またそれか」
「便利だから」
湊は自分の席へ戻りながら、暦の机の端を見た。
ノートの角が、きれいに揃っている。筆箱は右上。教科書は左。プリントは下敷きの上。いつもどおりだった。
返事が遅い。
湊は自分の席から、暦の横顔を見た。
「昨日、寝るの遅かった?」
暦の手が止まった。
「いつもよりは」
「天体観測?」
「雲が切れた」
「それで?」
「見るしかなかった」
「まあ、そうなるか」
「そうなる」
暦は淡々と言ったが、目元がいつもよりわずかに重い。
周囲の誰かが気づくほどではない。教師なら、眠そうだなと思うかもしれない。けれど湊には、それが暦の中ではかなり眠い側に入ることが分かった。
「昼は寝るか?」
「寝ない」
「寝たほうがいい顔してる」
「顔で判断しないで」
「返事も遅い」
「それは湊の質問が雑だから」
「俺のせいになった」
「そう」
「休み時間くらい、目を閉じたらどうだ」
「必要ない」
「そうか。無理はするなよ」
暦が顔を上げた。
無表情に近いが、目だけが少し細い。
「湊は、そういうところがしつこい」
「悪かった」
そこで教師が入ってきたので、会話は切れた。
授業が始まると、教室は一段静かになる。
東都院の生徒は、授業中まで全員が品行方正というわけではない。眠そうにしている者もいるし、ペン回しをする者もいる。ノートの端に何かを書いている者もいる。
乱れ方にも限度があった。
誰かが叱られるほど目立つ前に、隣が肘で止める。教師に当てられれば、多少間違えても姿勢を正して答える。分からない時にも、分からないなりの答え方がある。
そういう作法を、多くの生徒は最初から知っている。
湊と暦は、あとからここへ入った。
入試の点数で門を通ったことは確かで、教師もそれを認めている。教科書に載っていない作法までは、試験では測れない。
湊は板書を写しながら、隣の列の生徒が教師に答える声を聞いていた。
「その解釈は、近代以降の個人観に寄りすぎているかもしれません」
答えた男子は、落ち着いていた。
普通の高校生が授業中に使うには、改まった言葉だった。教師は満足そうに頷き、別の生徒に意見を求める。
誰も気負っていない。
そういう言葉で答えることが、この教室では特別ではない。
休み時間になった時、兵頭が湊の席まで来た。
「悠木、さっきのプリント、未提出あと二人」
「誰と誰?」
「三崎と大河内。三崎の分は職員室に出てるらしい。大河内はまだだ」
「なら、大河内には俺から言っておく。見つかったら職員室に出すように」
「助かる」
兵頭は短く頷き、自分の席へ戻った。
兵頭は、自分から輪の中心に入ることは少ない。
教室の中でも、誰かに声をかける前に、相手の邪魔にならないかを一度見ている。
湊は、そういう兵頭に普通に声をかける。
兵頭は、普通に応じる。
それで済む話だった。
昼休みになると、教室の空気はやわらいだ。
弁当を広げる者。購買へ急ぐ者。廊下へ出て行く者。机を寄せる者。東都院の昼休みも、そこだけ見れば普通の高校と変わらない。
机の寄せ方や、グループの作り方には、やはり言葉にならない決まりのようなものがあった。
窓際の女子たちは、自然に四人でまとまる。廊下側では、内部生の男子数人が近い席を選ぶ。兵頭は、購買へ行く前に一度湊の席へ寄った。
「購買へ行くか?」
「いや、弁当ある」
「そうか」
兵頭はそれだけ確認すると、暦のほうへ軽く会釈した。暦も小さく頷く。
関係が悪いわけではないが、二人とも、用件以上の会話を無理に足そうとはしなかった。
「列、長いかもしれないぞ」
湊が言うと、兵頭は廊下側を一度見た。
「なら、早めに行く」
兵頭が教室を出ていく。
その小柄な背中が廊下に消えると、暦は箸を取り出しながら言った。
「兵頭くんは、急いでいる時ほど周りを見る」
「そうだな」
「人にぶつからないようにしている」
「常識的なんだよ」
「それもある」
湊は少し黙った。
「……よく気づくな」
「そういう動きは、目に入る」
暦は弁当の蓋を開けた。
小さな容器に、きっちり詰められた昼食が入っている。彩りは悪くないが、量は少なめだった。
「眠いなら、寝ててもいいぞ」
「眠くない」
「朝より返事が遅くなってる」
「湊は母親?」
「幼馴染だろ」
「そういうところは、母親寄り」
「どこが」
「休むかどうかまで見てくるところ。過保護」
「それは悪かった」
暦は小さく首を横に振った。
「悪いとは言ってない」
その言い方は、いつもより柔らかかった。
湊は自分の弁当を開けた。母が詰めたものだ。派手ではないが、食べ慣れた味がする。東都院の食堂や購買には、もう少し洒落たものもある。けれど湊はこの弁当のほうが好きだった。
昼休みの教室では、別の会話が流れていた。
「今年の春季晩餐会、準備班の名前がもう出ているって聞いたけれど」
「評議会の顔ぶれが少し変わるなら、先に確認しておくのでしょう」
「九条院さんのところも関係するのかな」
その名前が出た時、教室の一角で声の調子がわずかに改まった。
九条院。
湊は箸を止めなかった。
けれど、耳だけはそちらへ向いていた。
「九条院さんは去年も式典補佐に入っていたし」
「ああいう場に立つ人は、最初から決まっている感じがするよね」
「そういう言い方は、どうかしら……」
最後の言葉は、途中で濁された。
誰かが小さく笑い、誰かがそれを咎めるように目を向ける。露骨な悪口にはならない。けれど、誰も意味を取り違えない。
湊は、その会話の中に入らなかった。
入れなかった、というほうが近い。
家名を口にした時の声量。
言いかけて、最後まで言わない呼吸。
笑ってよい範囲と、笑ってはいけない範囲。
それらは、湊がこれまで暮らしてきた街の感覚とは違っていた。
東都院では分かりやすく線を引かれることは少ない。
誰かを乱暴に見下す言葉も、少なくとも教室では滅多に聞かない。
そのかわり、言わなくても分かること、分からなければいけないことが多すぎる。
湊はそういう空気をまだ好きにはなれなかったが、嫌いだと断じるほど、何かを知っているわけでもなかった。
だから、保留する。
聞こえたことを、すぐに決めつけない。
目の前にいる相手を見てから考える。
それが、湊にできるいちばん確かな方法だった。
「湊」
暦が呼んだ。
「ん?」
「卵焼き、一つ余ってる」
「余ってるっていうか、残してるんじゃないのか」
「余ってる」
「じゃあ、もらう」
暦は無言で、弁当箱の蓋に卵焼きを一つ置いた。
湊はそれを箸で取る。
「甘い」
「母の味付け」
「おばさんの?」
「そう」
「久しぶりだな」
「この前も食べた」
「いつ」
「十一日前」
「よく覚えてるな」
「記憶にある」
「そうか」
湊は笑い、卵焼きを食べた。
暦は何事もなかったように、自分の昼食へ戻っている。
教室の向こうでは、まだ春季晩餐会の話が続いていた。
誰が準備に呼ばれそうだとか、去年は誰が来賓対応をしたとか、どの家が後援会と縁が深いとか。湊には分かる単語と、分からない背景が混じっている。
けれど、暦が卵焼きを渡してくる気安さだけは、よく分かった。
その気安さが東都院の中でどう見えるのか。
湊は、まだあまり考えていなかった。
昼休みが終わる頃、兵頭が戻ってきた。
「午後の移動教室、変更だそうだ。掲示板に出ていた」
兵頭はそう言って、自分の席へ戻った。
暦は弁当箱を片づけながら、教科書を机の端に寄せていた。
「湊」
「何?」
「そろそろ出る」
「分かってる」
「分かってる顔ではなかった」
「そんな顔してたか」
暦は小さく頷いた。
教室の中には、午後の授業へ向かう前のやわらいだ空気がある。
内部生も外部生も、家名の重い者もそうでない者も、同じように掲示の内容を確認し、同じように教科書を持って立ち上がる。
それでも、この場所では同じであることと、同じに扱われることは、完全には重ならない。
湊はその違いをまだ言葉にしきれない。
席を立つ一人一人を見る。
役職でも、家でも、噂でもなく、その時の表情を見る。
予鈴が鳴った。
湊は兵頭に軽く手を上げた。
兵頭も短く頷き、教科書を持って席を立った。
湊はそれから暦の席へ目を向けた。
「暦、行くぞ」
「行く」
暦はすでに教科書を持って立っていた。
湊が声をかける前から、どの教室へ行くかも、何を持つかも分かっていたのだろう。
それでも、湊が呼ぶと、暦は必ず返事をする。
兵頭が廊下側の扉を開けた。
暦が先に出て、湊がその後に続く。兵頭は最後に扉の位置を確かめ、後ろから来る生徒の邪魔にならないところで手を離した。
廊下には、移動教室へ向かう一年生たちの流れができていた。
東都院学園高等部一年B組。
半年以上を過ごして、湊はその教室に慣れてきている。
教師に頼まれることも増えた。兵頭のように、普通に話せる友人もいる。暦は相変わらず隣にいて、湊の行く先を当然のように把握している。
窓の外では、冬の光がまだ白く残っていた。




