春の記憶
旧校舎寄りの廊下を抜ける時、湊はふと、春の会場の匂いを思い出した。
磨かれた床と、折り畳み椅子の金具と、まだ人が入りきっていない講堂の空気。
実際には、まだ二月である。廊下の空気は冷たく、窓の外の木々も冬の色をしていた。作業室で受け取った小さな包みも、春というよりは、暦の上だけの季節を思わせるものだった。
それでも、湊の頭に浮かんだのは、去年の春だった。
高等部に入って、まだ東都院の廊下の使い分けもよく分かっていなかったころである。
春季晩餐会の準備が始まっていた。講堂の前には椅子が並び、普段は見かけない札がいくつも置かれていた。高等部の生徒だけでなく、教師、事務方らしい大人、式典補助に入っている上級生が、静かな足取りで行き来している。
慌ただしい、という言葉は似合わなかった。
誰も走らない。声も荒げない。けれど、普段の講堂前とは明らかに違う。人は多いのに、流れには妙な空白があった。正面扉の前を避けるように歩く生徒がいて、旧校舎側の廊下には、近づきすぎない距離が自然に作られていた。
湊は、その空白の意味を知らなかった。
その日、湊は暦と一緒に新校舎の廊下を歩いていた。授業後に図書室へ寄るという暦に付き合って、図書館棟へ向かう渡り廊下のほうへ出るところだった。
新校舎からは、図書館棟へ向かう渡り廊下と、講堂へ向かう渡り廊下が近い場所で分かれている。春季晩餐会の準備が入っているせいで、そのあたりにも普段はない札が立っていた。
「悠木、少しいいか」
声をかけてきたのは、廊下の端で資料を抱えていた教師だった。名前はまだ覚えきれていない。高等部に入って間もないころの湊にとって、東都院の教師は皆、どこか落ち着いて見えた。
「はい」
「これを講堂控室まで届けてくれるか。今、手が空いている者が少なくてな」
教師は、薄い紙束を湊へ差し出した。式次第の確認用らしく、上の紙には春季晩餐会の文字が見えた。
「分かりました」
湊が受け取ると、暦が隣で足を止めた。
「私は図書室」
「先に行ってていい」
「用はすぐ終わる」
暦は薄い冊子を片手に持ち直し、新校舎側の廊下の壁際を軽く示した。
「終わったら、ここ」
「戻ってくるのか」
「図書室の用を済ませてから」
「分かった」
それだけで話は済んだ。
湊は資料の束を抱え直し、講堂控室へ向かった。新校舎から講堂へ渡る途中にも案内表示はあったが、春季晩餐会用の札が重なっていて、どちらを指しているのか分かりにくい。講堂前まで素直に回ると遠回りになるように見えたため、湊は旧校舎寄りの細い廊下へ足を向けた。
一歩入ったところで、音が変わった。
床は同じように磨かれている。壁も窓も、特別なものではない。なのに、そこだけ廊下の温度が違う気がした。
湊が足を止めるより先に、右手から声がかかった。
「ごめんなさい」
責める声ではなかった。
湊は振り向いた。
そこにいたのは、同じ制服を着た女子生徒だった。
上級生かと思った。けれど、袖の印は湊と同じだった。
淡い灰を含んだ金色の髪が、控えめに後ろで留められている。東都院で目立つのは、髪色だけではない。それでも、その髪は派手というより、よく手入れされたものとして目に残った。
湊を見た瞳は、青に少し灰を混ぜたような色をしていた。
その色より先に印象に残ったのは、姿勢だった。声をかける前から、そこに立つ理由を持っているように見えた。
彼女は湊の抱えた資料を一度見て、それから廊下の奥へ視線を移した。
「こちらは、来賓の方が通られる場所になっていて。生徒は、正面の案内に沿って回ることになっています」
言い方は柔らかい。
ただ、柔らかいだけではなかった。相手に恥をかかせないように先に謝り、理由を短く告げ、行くべき方向を示す。注意された側がどう下がればいいかまで、すでに用意されている。
湊は、抱えていた資料を持ち直した。
「すみません。こっちを通れば早いのかと思って」
「札が重なっていますから、迷いますよね」
彼女はそこで、表情をわずかに緩めた。
「講堂控室でしたら、一度戻って、講堂の右側を回ってください。あちらに白い札が立っています」
「ありがとうございます」
湊は素直に頭を下げた。
必要以上に恐縮するほどのことではない。けれど、自分が入るべきではない場所に入ったのは確かだった。そう判断して、湊は足を引いた。
彼女は、ほんの一拍だけ黙った。
その沈黙が、湊には意外だった。
注意されたからといって、誰もが反発するわけではない。
それでも、彼女の視線には、何かを測り直すような間があった。
「お気をつけて」
すぐに、声は元に戻った。
「はい」
湊は短く返し、来た道を引き返した。
数歩進んでから、振り返るつもりはなかったのに、足が止まった。
彼女はもう湊を見ていなかった。廊下の奥、来賓用の通り道に置かれた札と、その先の扉のあたりを見ている。表情は変わらない。姿勢も崩れていない。けれど、言葉を言い終えた後の視線だけが、一瞬、別の場所へ逃げたように見えた。
何も間違えていない。
そう思った。
同時に、間違えないために、どこかで息を詰めているようにも見えた。
湊には、それが何なのか分からなかった。家のことか、式典のことか、単に準備が大変なのか。分からない以上、勝手に意味をつけるべきではない。
ただ、その廊下には、気になるものが残っていた。
正面の案内に沿って歩くと、来賓控室と書かれた札のあたりで人が一度止まる。
札は立っているのに、近くに人が立つと見えなくなる。
来賓用だと教えられた廊下にも、札や控え机が出ていて、そこだけ通り道が細く見えた。
その奥の扉だけは、誰が使うのか分からないまま、人の流れの外側に残っていた。
湊はそこまで見て、口を閉じた。
入学して間もない一年生が、春季晩餐会の準備について何かを言えるわけではない。言う必要もなかった。その日は、何かが起きたわけでもない。ただ、入るべきではない場所に入りかけ、同じ学年の女子生徒に丁寧に止められただけである。
講堂の右側を回ると、白い札はすぐに見つかった。
彼女の言ったとおりだった。
講堂控室の前で資料を渡し終えると、戻り道で暦が新校舎側の先ほどの壁際に立っていた。図書室の用は終わったらしく、薄い冊子を片手に、先ほど示した場所で待っている。湊に気づくと、顔を上げた。
「時間かかった」
「道を間違えた」
「東都院で?」
「東都院で」
暦は冊子を持ち直した。
普段の校舎なら、少し回れば済む。けれど、春季晩餐会の準備中は、通ってよい場所と控える場所が分かれている。
暦は、湊が戻ってきた廊下のほうへ一度目を向けた。
「注意された?」
「された。丁寧に」
「誰に」
湊は考えた。
名前は知らなかった。教室も違う。けれど、あの立ち方と声は、しばらく残りそうだった。
「同じ一年の女子。式典の手伝いをしてたと思う」
「特徴は」
聞き方に、特別な抑揚はなかった。
湊は考えた。
相手の見た目を感想として言うのは、迷う。けれど、暦が聞いているのは感想ではなく、誰かを識別するための情報だった。
「淡い金色の髪。青っぽい目。あと、背筋がすごくまっすぐだった」
「きれいな人?」
「きれい、というか。きちんとしてた」
「そう」
暦は、それ以上聞かなかった。
代わりに、湊の手元を見てから、廊下の先へ視線を戻した。
「今の場所、分かりにくい」
「分かる?」
「人が止まる。札も見えない」
暦は短く言った。
湊は小さく笑った。
「同じこと思った」
「その人に言った?」
「言ってない。入った側が言うことじゃないだろ」
「それはそう」
暦は素直に肯定した。
それで、その話は終わった。
当時の湊にとって、それは一日の中の小さな出来事にすぎなかった。講堂の前の椅子。白い札。人の流れ。来賓用の通り道。丁寧に注意してくれた同じ学年の女子。
記憶の中に残ったのは、名前ではなかった。
責めない声。
下がるための道を残す言い方。
そして、間違えずに立っていたのに、言い終えた後だけ、視線がほんの少し揺れたこと。
「悠木」
兵頭の声で、湊は現在へ戻った。
旧校舎寄りの廊下は、二月の冷たさを保っている。手元には資料の束ではなく、先ほど受け取った小さな包みがある。
「何?」
「歩くのが遅い」
「ああ。悪い」
兵頭は振り返らずに言った。
「昼、食うんだろ」
「食べる」
「なら急げ」
それだけ言って、兵頭はまた前を向いた。
湊も足を速める。
廊下で会釈を交わした令嬢。
作業室で、小さな菓子を渡してくれた少女。
去年の春、講堂の前で、責めない声で注意してくれた相手。
九条院エリカ。
名前が、いくつかの場面と重なった。
新校舎へ戻る廊下の先から、教室の声が聞こえてくる。公式ではない日の、静かなざわめきだった。
湊はポケットの包みを潰さないように気をつけながら、兵頭の後を追った。




