九条院エリカという名前
新校舎へ戻る廊下は、式典局の作業場所よりも明るかった。
窓の外には、冬の薄い日差しが残っている。中庭の植え込みはまだ色が少なく、舗装された道の端に、昼休みに出た生徒たちの影が流れていた。
湊は、制服のポケットへ手を入れかけて、途中でやめた。
包みを潰しそうになったからだった。
「持って帰るまで、そのままにしとけ」
前を歩いていた兵頭が、振り返らずに言った。
「見えてた?」
「ポケットを気にしていると動きが堅くなる」
「そこまでか」
「菓子の扱いに慣れてない奴の動きだ」
兵頭の言い方は、からかうというほど軽くない。かといって、叱っているわけでもなかった。物資を運ぶ時に箱を傾けるな、と言うのと同じ調子だった。
湊は小さく息を吐いて、ポケットの外側を押さえないようにした。
「式典局って、菓子を配ることもあるんだな」
「局は関係ないだろうな」
「じゃあ、九条院さんだから?」
「季節の挨拶だ。あの場にいた奴へ、角が立たないように配ってる」
兵頭はそこで一度だけ足を緩めた。廊下の先で、数人の生徒が教材を抱えて曲がってくる。兵頭は迷わず壁側へ寄り、湊もそれに合わせた。
兵頭は、東都院の中心に立つタイプではない。
それでも、一年B組では行事の前後になると兵頭に頼る生徒がいる。誰かが短く頼みごとをし、兵頭はなんでもない顔で答える。
そう扱われることがあるのだと、湊は最近になって分かってきた。
「九条院さんは式典局の人なの?」
湊が尋ねると、兵頭はすぐには答えなかった。
廊下の角を曲がり、新校舎へ続く渡り廊下に入る。旧校舎寄りの冷たさが背中から離れ、代わりに人の声が近くなった。
「正式な局員ではない。少なくとも今は」
「今は?」
「扱いとしては、式典補佐だったか。接遇の補助、儀礼関係の手伝い。弦楽部もある。行事で表に出せるし、裏方の仕事もできる」
兵頭は淡々と言った。
「九条院家は侯爵家の華族財閥。分家筋らしいが、それでも雑に扱える名札じゃない」
言葉だけを見れば、かなり重い説明だった。
けれど兵頭の声には、感心も畏れも混じっていなかった。名家だからすごい、という話ではない。来賓名簿の読み、席次、控室表示、挨拶の順番。そうしたものを間違えた時に、どこまで波及するかを知っている者の言い方だった。
湊は、すぐに返事をしなかった。
九条院。
たしかに、名前には重さがある。教室や廊下でその名が出る時、声の大きさが変わる。教師が呼ぶ時も、同級生が呼ぶ時も、単なる名字だけでは終わらない響きがある。
湊はそれを知識としては聞いていた。
けれど、その名前をつい先ほど菓子を渡してくれた相手の笑い方に重ねると、その重さがよく分からなくなった。
「分家でも、そんなに気を遣うものなのか」
「家を継ぐかどうかとは別だ」
兵頭は言った。
「九条院姓が前に出る場なら、周りが勝手に重く扱う。本人がどう思ってるかとは関係ない」
その言い方で、湊は講堂前の白い札を思い出した。
あの時も、彼女は必要なことを告げただけだった。
来賓が通る場所だから、そこは空けてほしい。内容はその程度だったはずだ。声は柔らかく、言い方は丁寧で、湊が下がるための道筋まで用意していた。
それでも、あの場所に立っていた彼女は、普通の同級生とは違って見えた。
場を壊さず、人を下がらせることができる。自分が前に出すぎないまま、周囲を変えられる。
今になって思えば、それも役割の一部だったのかもしれない。
「詳しいな」
「覚えておいたほうがいい」
兵頭は短く返した。
「名札一つで、面倒事になることもある」
「兵頭らしい」
「褒めてないだろ」
「いや、褒めてる」
兵頭は返事をしなかった。
その沈黙が、会話の終わりだった。
教室へ戻ると、昼休みの空気がまだ漂っていた。
机の上には弁当箱が出ていて、窓際では数人が紙袋の中身を見せ合っている。大きな声はない。教師に見つかって慌てるような騒ぎでもない。ただ、机と机の間が普段より近く、視線も普段より動きやすい。
湊が席へ戻ると、暦はすでに弁当を開いていた。
「遅い」
「そこまで遅かったか」
「昼休みは減った」
暦は事実だけを言うように箸を取った。
湊も弁当を出し、椅子に座る前に、ポケットの包みを鞄の内側へ移した。兵頭は自分の席へ戻りながら、途中で誰かに呼び止められていた。返答は短いが、相手はそれで納得している。
暦の視線が、湊の鞄の方で止まった。
「お菓子?」
「見えた?」
「しまい方が慎重」
「潰してない」
「ならいい」
暦はそれ以上、すぐには聞かなかった。
湊が箸を持つまで待ってから、静かに言った。
「作業は式典局?」
「うん」
「そこで受け取った」
「そう」
暦は短く答えた。
「九条院さんがいた?」
「いた。兵頭も受け取ってる」
「なら、季節の挨拶でいい」
「分類が早いな」
「必要」
暦は短く言った。
「兵頭くんも同じなら、そう扱うのが自然」
湊は小さく笑った。
「そこまで決めるものなのか」
「決めないと、周りが勝手に決める」
暦の声は淡々としていた。
嫉妬ではない。
少なくとも、湊にはそう聞こえた。暦は、机の上に置かれたものを種類ごとに分けるように、今日の出来事を扱っていた。
その目だけは、いつもより細かく動いていた。
教室の中。紙袋を隠す女子。受け取った包みを何度か見てから鞄へしまう男子。黒板脇で、誰かが別のクラスの話をしている。牧瀬琴葉の話が出て、すぐに九条院エリカへ移った。
湊は箸を止めかけたが、何も言わなかった。
「九条院さんって、御厨さんとはよく一緒にいるよね」
「内部生同士でしょ。牧瀬さんも知ってるんじゃない?」
「牧瀬さんは図書委員のほうでも見るけど」
「藤代さんはC組でしょ。九条院さんと話してるのは見たことある」
「藤代さんって、特待の?」
「うん。九条院さんの方は、普通に話すらしいよ」
噂というには、悪意がなかった。
交友関係やクラスの違い、どの名前を並べるとそれらしく聞こえるのか。そんな情報が、昼休みの机の間を軽く渡っていく。
暦は、その声の方を見なかった。
「九条院さんは、よく話題になる」
「それは分かる」
「影響は大きい」
湊は、今度こそ箸を止めた。
言われてみれば、そうだった。
九条院エリカ本人がいない場所でも、彼女は会話の中に出る。御厨紗良と並べられる時は、内部生同士の華やかなつながりとして。牧瀬琴葉の話に添えられる時は、穏やかな女子同士の関係として。藤代文香と一緒に語られる時は、意外な親しさとして。
そのどれも、湊が直接見たわけではない。
「榊原くんの名前も、一緒に出やすい」
暦が言った。
湊は視線を上げた。
「榊原?」
「並べたがる人がいる」
「そう見るものなのか」
「そう見る人がいる」
暦は、そこで弁当へ視線を戻した。
恋愛の噂、というわけではないのだろう。
少なくとも暦は、そういうものとして処理している。好意の向きではなく、並びの釣り合い。
東都院では、そんな見方が時々、普通の雑談の中に紛れ込む。
湊は、すぐに返事をしなかった。
廊下で会釈を交わした令嬢。式典局の作業場所で、場の空気を乱さず菓子を配っていた少女。去年の春、柔らかい声で湊を制止した相手。
湊が見た九条院エリカは、そのどれでもあった。
けれど、教室に流れている彼女は、もう少し別のものを背負っていた。
「湊」
暦が言った。
「何?」
「難しい顔」
「してた?」
「してた」
「考えてただけ」
「九条院さんのこと?」
湊は一拍遅れて、頷いた。
「いろんな場所で話題になるんだなと思って」
「なる」
暦は短く答えた。
「そういう名前」
「本人がいなくても?」
「いなくても」
「だから、さっき分類した?」
「そう。式典局の挨拶。そこを間違えない方がいい」
「分かった」
「分かったならいい」
暦はそれで話を終えた。
その終わらせ方が、いつもの暦らしかった。
必要な情報だけを置き、過不足がないと判断すれば、それ以上は追わない。
けれど、湊の中では消えなかった。
九条院エリカという名前は、湊の知らない場所でも使われている。
交友関係。並べられる相手。関わる行事。菓子を渡した相手。
本人がいない場所で、その名だけが先に扱われる。
昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。
教室の空気が、ゆっくりと授業前のものに戻っていく。紙袋は鞄へしまわれ、弁当箱の蓋が閉じられる。さっきまで近かった机の間隔も、誰かが椅子を引くたびに元へ戻っていった。
湊は、鞄の中の包みが弁当箱に押されていないことだけを確かめ、鞄を机の脇へ戻してから立ち上がった。
鞄は教室に置いていく。包みも、その中にある。
それだけ確認してから、暦と並んで廊下へ出た。
午後の移動教室は、特別教室棟だった。
廊下には生徒の流れができている。教材を抱えた生徒が新校舎の階段へ向かい、別の教室へ移る女子が反対方向へ歩いていく。
階段を避けて渡り廊下へ回ると、音楽室の前を通った。扉は閉まっていて、中から音はしない。廊下の掲示板に、放課後の弦楽部使用予定だけがきちんと留められていた。
湊は、その掲示へ目を向けかけて、すぐに前へ戻した。
九条院さんも、弦楽部だったな。
その程度の思いつきだった。
大きな意味があるわけではない。誰かに言うほどのことでもない。
それでも、その名前は思考の片隅に引っかかっていた。
九条院エリカ。
周囲が勝手に重く扱う名を持ちながら、相手が下がるための道を残す人。
湊は特別教室の扉の前で足を止めた。
それから、暦と並んで中へ入った。




