返礼を考えるほどではなく
弓道場には、冬の夕方の匂いが残っていた。
中等部の活動はすでに終わり、高等部の部員だけが的前に立っている。矢の音は、校舎の廊下の声とは違って、短く乾いていた。
この日は、軽く射を確認する程度で終わる予定だった。
湊は道着に着替え、いつもの順番で弓を取った。礼をし、足を開き、息を整える。そこまで進めば、余計なことは一度、体の外へ置ける。
今日の射は、悪くはなかった。
ただ、矢を番える前の短い間に、鞄の中の包みのことが頭をよぎった。
牧瀬から受け取ったもの。
九条院エリカから受け取ったもの。
どちらも、深く考え込むものではない。
そう分かっていても、同じ日に受け取ったものとして、頭の片隅に並んで残っている。
練習が終わるころには、空はかなり暗くなっていた。
湊は制服に着替え直し、鞄を肩に掛ける前に中を確かめた。弁当箱の横に、朝からの包みが二つ残っている。
潰れてはいない。
それだけ確認して、鞄の口を閉じた。
スマートフォンを見るまでもなく、暦がすぐには帰っていないことは分かっていた。放課後は図書委員の確認がある、と暦は言っていた。
図書館棟へ向かう廊下は、新校舎よりも人が少ない。
放課後の賑わいは遠く、扉の向こうから低い声だけがかすかに聞こえてくる。
貸出カウンターの横に、暦はいた。
隣には牧瀬琴葉がいて、返却済みの本を配架前の台へ分けている。
牧瀬は湊に気づくと、穏やかに会釈した。
「悠木くん、部活は終わり?」
「さっき終わった。二人はまだ作業中?」
「もう終わるところ。今日の返却済みの本だけ、影山さんに確認してもらってたの」
暦は端末の画面を一度だけ見てから、返却済みの本を脇の台へ移した。
「こちらは終わりました」
「ありがとう。お疲れさま」
「いえ」
牧瀬の言い方には、用件を長引かせない配慮があった。
暦は牧瀬の横で、いつも通り静かに立っている。ただ、端末から本へ視線を移す動きがわずかに遅い。疲れているというほどではないが、目の動きだけがいつもよりゆっくりに見えた。
牧瀬は二人を見て、淡く笑った。
「じゃあ、私は先に戻るね。影山さん、今日はありがとう。また明日」
「はい。また明日」
暦の返事は短いが、失礼ではなかった。牧瀬もそれを不足とは取らないらしく、もう一度会釈して新校舎のほうへ戻っていった。
牧瀬の足音が廊下の向こうへ消えると、暦は湊を見た。
「帰れる?」
「ああ。暦は?」
「終わった」
湊と暦は、並んで図書館棟を出た。
図書館棟から新校舎側へ戻る渡り廊下は、放課後になると少し冷える。外に面した窓の下から、冬の空気が薄く染みてくる。遠くの校庭では、運動部の声がもう始まっていた。
暦はしばらく何も言わなかった。
湊も、すぐには話しかけなかった。
沈黙が気まずい相手ではない。何かを言わなくても、足音と歩幅だけで会話の代わりになることがある。
新校舎へ入る手前で、暦が言った。
「牧瀬さんには返す」
「そうだな」
「図書委員としてもらった分もある。だから、ただの季節の挨拶としては返さない」
「どういう意味?」
「牧瀬さんには、ちゃんと返す。まとめてでいいけど、どちらも軽く扱わない」
暦らしい整理だった。
湊は考えた。
「じゃあ、ホワイトデーの時に一緒でいい?」
「いいと思う。でも、その前に一度作る」
「作る?」
「今年はまだ作ってない」
言われて、湊は一拍遅れて思い出した。
例年なら、二月には影山家で、三月には悠木家で菓子を作っている。
暦が学園で配るかどうかとは別に、子供のころから続いている季節の区切りだった。
今年は、それをしていない。
暦は、今年は東都院では様子を見ると言っていた。
だから、何を作るかも先に決めなかった。今日の校舎の空気を見てから考える、と言っていた気がする。
「今度の休み?」
「うん。うちで」
「それは、返礼用?」
「違う。決めるため」
暦は短く言った。
「三月は悠木家。返すものは、その時に作る」
「牧瀬さんの分も?」
「うん。数を増やす」
「数」
「今年は、いつもと同じにはならない」
湊は頷いた。
毎年のことではある。けれど今年は、いつもより考えることが増えている。
牧瀬から受け取ったもの。
式典局で受け取ったもの。
それをどう返すかにも、東都院では意味がつく。
暦が早めに数を数え始めるのは、彼女らしいことだった。
「九条院さんのは?」
湊がそう言うと、暦の足が一拍だけ遅れた。
止まったわけではない。歩幅がわずかにずれただけだった。
「それは、牧瀬さんとは違う」
「違う?」
「返すなら、周りがどう受け取るかを見てから」
「そうか」
「だから、覚えておく」
暦は真顔でそう言った。
湊は小さく笑った。
笑ってから、自分が自然に「九条院さん」と口にしていたことに気づいた。特別に意識したわけではない。今日一日の中で何度か聞き、何度か思い出した名前が、会話の中に出てきただけだった。
九条院エリカ。
廊下で会釈を交わした令嬢。
式典局の作業場で、場を乱さず菓子を渡していた少女。
春の会場で、入るべきではない場所に入りかけた湊に、角が立たない言葉で道を示した相手。
それらが、ひとつの名前に重なっている。
湊にとっては、まだそれだけだった。
誰かに説明するほどのことではない。返礼を考え込むほどでもない。
ただ、名前を聞けば、思い出す場面がいくつかある。
それだけの相手には、もうなっていた。
暦は隣を歩きながら、湊を見ていなかった。
けれど、聞き流してはいない。
湊がその名前を口にした時の声の調子だけを拾って、何も言わずに歩き続けた。
「暦?」
「何」
「疲れてる?」
暦はすぐには答えなかった。
渡り廊下の先で、運動部の生徒が数人、紙袋を抱えたまま走らない程度の速さで通り過ぎた。別の女子が、その後ろ姿を見て友人に何かを囁く。声は小さかったが、視線の動きだけは分かる。
暦の目が、一度だけその手元へ動いた。
「少し」
「珍しい」
「今日は、人が多かった」
それ以上は言わなかった。
湊も聞き返さなかった。
人が多かった、というのは単に人数の話ではないのだろう。
いつもと同じ廊下に、いつもと違う立ち止まり方が増える。手元を見る視線が増える。
暦は、そういう小さな違いを見ないで通り過ぎることがあまりない。
昇降口に着くころには、外の空気はさらに冷えていた。
二人は靴を履き替え、正門へ向かった。車寄せのほうには迎えの車が何台か並んでいる。生徒たちは、歩く者と待つ者に分かれ、それぞれの帰り道へ散っていく。
車寄せには、見知った顔もいくつかあった。
九条院エリカの姿は、もうない。
湊はそれ以上目を留めず、暦と並んで白藤坂を下り始めた。
東都院前駅へ向かう道では、放課後の生徒たちの声が少しだけ緩んでいた。校門を出ても、完全に自由になるわけではない。それでも、坂を下りるにつれて、制服の後ろ姿はほんのわずかに日常へ戻っていく。
暦はいつもより口数が少なかった。
駅の改札を通り、電車に乗る。夕方の車内は混みすぎてはいなかったが、座席は半分以上埋まっていた。二人は並んで座れる端の席を見つけ、鞄を膝に置いた。
電車が動き出す。
窓の外で、東都院前駅の灯りが後ろへ流れていった。
「今日は疲れた」
暦が言った。
声は小さい。けれど、湊に聞こえるだけの音量はあった。
「寝る?」
「寝ない」
「じゃあ、少し寄る?」
暦は答えなかった。
代わりに、額を湊の肩へ預けた。
湊は驚かなかった。少しだけ体勢を変え、鞄を膝の上で抱え直す。暦が寄りかかりやすいように、肩の角度をほんの少し下げた。
こういう時、暦は重くない。
何かを求めて大きく寄りかかるのではなく、そこにあるものを一時的に使うように、静かに額を置く。
湊も、それを特別なこととして扱わない。
「降りる前に起こす」
「寝ない」
「分かった」
「少しだけ」
その少しが、次の駅を一つ越えても終わらないことを、湊は知っていた。
車内の吊革が小さく揺れる。向かいの席の乗客が、二人を一度だけ見たような気がした。すぐに視線は外れた。
湊は窓の外を見た。
今日のことは、大きな出来事ではない。
返礼を考えるほどではなく、忘れるほどでもない。
その程度の、季節の挨拶だったはずだ。
それでも、九条院エリカという名前は、今日のどこかに残っている。
暦は湊の肩に額を預けたまま、目を閉じていた。
眠ってはいないのだろう。けれど、話すつもりもなさそうだった。
湊は、それでいいと思った。
電車は冬の夕方の街を抜けていく。
東都院の整った空気も、弓道場に残る冬の匂いも、式典局の作業場で交わした短いやり取りも、少しずつ遠ざかっていく。
肩にある重みだけが、いつもの帰り道として残っていた。




