図書室にて
東都院の図書室は、放課後になると声の輪郭が薄くなる。
廊下にいる生徒の話し声は、扉と壁を通るうちに意味をなくす。閲覧席では頁をめくる音が続き、書架の奥では誰かが本を引き抜くたび、紙と紙の擦れる音だけが短く残った。
影山暦は、貸出カウンターの内側で返却本を一冊ずつ確認していた。
学生証を読み取り、図書に付けられたRFタグを通す。返却処理を終えたら、予約の有無と本の状態を確認する。
確認すべき項目は多くない。順番も決まっている。決まっている作業は、暦にとって扱いやすかった。
返却済み図書の一時置き場から三冊目を取った時、ページの間から細いリボンが落ちた。
淡い桃色のリボンだった。しおりではない。少なくとも、図書室で貸し出しているものではなかった。
「すみません。それ、私のです」
カウンターの前にいた女子生徒が、小さく身を乗り出した。言葉は普段より早く、指先はリボンを拾う前に一度だけ止まった。
暦はリボンを渡した。
「本には挟まない方がいいです。跡が残ることがあります」
「はい。気をつけます」
女子生徒はそれ以上言わず、リボンを手帳の間へしまった。頬が赤い。室温によるものではない、と暦は判断した。
昨日から、似た反応が増えていた。
女子同士の会話は普段より短く、異性の名前が出ると声量が一段下がる。男子の何人かは、昼休み以降、鞄の中を確認する回数が増えていた。
東都院では、騒ぎすぎることは好まれない。
廊下を走る生徒はいない。教室で大声を上げる者も少ない。高価すぎる贈答は目立つし、目立てば誰かに読まれる。だから、季節の習慣は、当日を過ぎても言葉の選び方や視線の動きに薄く残る。
それでも、完全には消えない。
本の間に挟まったリボン。用件が終わってから続く短い会話。普段よりも、少しだけ遅い退室。
暦はそれを、順番に記録するように見ていた。
誰の名前で声が小さくなるか。誰が、鞄の中を確認する回数を増やしているか。どの会話が、いつもよりわずかに長いか。
特別な推理ではない。
そういう違いに気づかないと、会話の返答を間違えることがある。間違えれば、相手の表情が変わる。表情が変われば、次の言葉を選び直さなければならない。暦にとって、人との会話は、最初から自然に流れるものではなかった。
「影山さん」
呼ばれて、暦は顔を上げた。
牧瀬琴葉が、カウンターの端に予約本の確認票を置いた。制服の袖口まできちんとしている。声は穏やかで、距離の取り方も近すぎない。
「予約分、こちらに置いておきますね。二冊だけ、今日中に連絡が必要です」
「分かりました。確認します」
「お願いします」
牧瀬はそこで一度、カウンターの上に視線を落とした。さっきのリボンがあった場所ではない。暦の手元、返却処理の端末、予約連絡のメモの順に目が動いた。
「昨日は、落ち着かない日でしたね」
言い方は軽い。踏み込むための声ではなかった。
暦は、返答の候補を三つ用意した。
同意する。詳しく聞く。別の話題へ移す。
牧瀬は昨日、菓子を渡した側でもある。暦にも、湊にも渡した。図書委員とクラスメイトとしての季節の挨拶。そう分類して問題はない。
「そうですね。会話量が増えていました」
暦が答えると、牧瀬は小さく笑った。
「影山さんらしい見方ですね」
「そうですか」
「はい。私は、返却が遅れた人が多かったなと思っていました」
「それも増えていました」
暦は予約棚の方へ視線を移した。
昨日の放課後から今日にかけて、返却カウンターの前で会話が長くなることがあった。すぐに去らない理由があるのか、ただ言葉を選んでいるだけなのかは分からない。
暦は、どちらとも決めなかった。
「昨日のもの、苦手ではありませんでしたか」
牧瀬が言った。
暦は返答を選んだ。牧瀬の視線は穏やかで、急がせるものではない。ここで必要なのは、味の詳細な分析ではない。拒絶ではないことを返すこと。
「苦手ではありません。おいしかったです」
「よかったです」
「湊も食べていました」
口にしてから、暦はその情報が必要だったかを考えた。余計なことを言ったかもしれない。
牧瀬は表情を変えなかった。ただ、目元が柔らかくなった。
「悠木くんにも、そう言っていただけたなら安心しました」
「湊は甘すぎるものは多く食べません。でも、昨日のものは残していませんでした」
「それは、参考になります」
牧瀬は笑いすぎなかった。
相手が話した分だけ受け取り、必要以上に広げない。牧瀬琴葉の会話は、図書室の作業に少し似ている。
必要なものを出し、余計なものは置かない。
その距離は、不快ではなかった。
カウンターの前に、男子生徒が一人来た。手には薄い参考書が二冊ある。
「返却、お願いします」
「学生証をお願いします」
「はい」
暦は学生証を受け取り、返却手続きを進めた。
端末に返却情報が表示される。
園部遙介。中等部三年。図書委員。
名前は知っていた。図書委員の名簿で見たことがある。貸出冊数も、返却期限も、問題はない。
園部は、手元ではなく、カウンターの上に置かれた予約本の確認票を見ていた。確認の仕方が図書委員のそれに近い。
「返却済みです」
「ありがとうございます」
園部は丁寧に頭を下げた。顔を上げる時、暦の方を一度見た。長くはない。用件を済ませた生徒としては、わずかに余分な間だった。
確定しないものは、そのままにしておく。
園部が離れると、カウンター前の短い空白もすぐに埋まった。
返却本を置く生徒。予約の有無を尋ねる生徒。借りる本を決めかねて、視線だけを棚へ戻す生徒。
どれも、図書室では珍しくない。
前日の余韻が残っているせいか、普段なら流してしまう言葉の間が、今日は少しだけ目についた。
「影山さん」
牧瀬が、声を低くしないまま呼んだ。
「予約本の連絡、一件はこちらで入れておきます。影山さんは返却棚の方をお願いできますか」
「分かりました」
暦は返却本を抱えて、カウンターの内側から出た。
図書室の床には、落ち着いた色のタイルカーペットが敷かれている。革靴の音はそこで吸われ、書架の間では人の動きだけが静かに残る。廊下よりも、人の流れは読みやすい。止まる場所、振り返る場所、誰かを避ける時に半歩下がる場所。棚の角で会話が途切れる位置。
暦は本を戻しながら、それらを視界の端で拾っていった。
普段なら、そこまで気にしなくてもよい。
けれど前日の余韻があると、同じ動きにも意味がつきやすい。関係が表に出るわけではない。むしろ、表に出さないために、ほんの少しだけ動き方が変わる。
暦は最後の一冊を棚へ戻した。
その時、図書室の入口が開いた。
廊下の空気が、薄く入り込む。
暦は、音の大きさではなく、周囲の視線の動きでそれに気づいた。入口に近い生徒が顔を上げる。カウンターにいた牧瀬の目も、手元から扉へ移る。
湊が来た。
暦は、驚かなかった。
来る可能性はあった。
湊は、用事があれば図書館棟の近くを通る。用事がなくても、帰る前に暦の場所を確認することがある。
迎えに来た、というほど大げさではない。
ただ、来た。
それで十分だった。
湊は入口で一度足を止め、室内の邪魔にならないように脇へ寄った。黒髪は乱れていない。制服の襟も普段通りで、鞄の肩紐を片手で直している。
周囲の視線が、湊と暦の間に短く集まった。
それも、暦は知っている。
湊と並ぶことは、本人たちにとっては長く続いている生活の一部でしかない。
東都院では、それでも意味がつく。
湊は暦を見つけると、声を張らずに近づいてきた。
「まだかかる?」
「返却棚は終わった。予約連絡が一件」
「手伝えることある?」
「ない。湊は図書委員ではない」
「それはそう」
湊は小さく笑った。
その返答で、暦は言葉を選び直さずに済んだ。
湊に対しては、返答の候補を並べる必要があまりない。言葉を選びすぎなくても、湊は勝手に補正する。暦が短く答えても、不機嫌だとは判断しない。必要なことだけを言えば、必要な範囲で受け取る。
牧瀬がカウンターの内側から声をかけた。
「影山さん、残りの予約本の連絡はこちらで入れておきます。もう上がって大丈夫ですよ」
「よろしいんですか」
「はい。今日は利用者も落ち着いていますから」
牧瀬は湊にも軽く会釈した。
「悠木くん、お疲れさまです」
「牧瀬さんも。図書委員、忙しそうだね」
「今日は、落ち着いています」
「昨日は大変だった?」
「図書室まで、空気が違いました」
牧瀬の返しに、湊は苦笑した。
図書室まで空気が違った、という言い方には、昨日を知っている者同士の共有がある。湊はそれを理解している。理解した上で、深く踏み込まない。
湊はそういうところがある。
分からないことを、無理に聞かない。分かったことを、必要以上に言葉にしない。
暦はカウンターへ戻り、作業用の鉛筆を所定の位置に置いた。予約本の確認票を揃える。メモを確認する。椅子を戻す。
終わりの手順も決まっている。
「牧瀬さん」
「はい」
「昨日のもの、ありがとうございました」
牧瀬は一瞬だけ目を丸くした。すぐに、いつもの穏やかな表情へ戻る。
「こちらこそ、受け取ってくれてありがとうございます」
「湊も言っていました。おいしかったそうです」
「二回目ですね」
「必要なら、記録は重複してもいいと思います」
牧瀬は声を立てずに笑った。
「影山さんらしいです」
その言い方に、嫌な圧はなかった。
暦は頷き、鞄を取った。
図書室を出る時、近くの閲覧席から視線が一度だけ動いた。湊と暦が並ぶことを確認するような、短い視線だった。
暦はそれを見た。
見た上で、歩く速度を変えなかった。
隠す必要はない。説明する必要もない。湊と一緒に帰る日は、一緒に帰る。先に帰る日は、先に帰る。予定が違えば、短く伝える。
それだけのことだった。
廊下に出ると、図書室の静けさが背中側に閉じた。図書館棟の窓から見える空は、冬の終わりに近い色をしている。日が沈むにはまだ早いが、光はすでに薄かった。
湊が鞄を肩に掛け直しながら言った。
「駅前、寄っていい?」
「何を買う?」
「材料。明日のやつ」
暦は一度だけ瞬きをした。
明日。
影山家で作る菓子のことだ。
金曜の放課後に材料を見ておけば、明日の午前には作り始められる。
今年は、いつもより後になった。
「スーパー」
「うん。東都院前じゃなくて、家の方の」
「その方がいい。値段と量が普通」
「普通って大事だよな」
「大事」
湊は、そこで笑った。
暦は歩き出した。
廊下の向こうにも、いつもの放課後とは違う静けさが残っていた。
それは、まだ暦の視界に入っている。
けれど、今はそこまで追わなくてよかった。
湊が隣にいる。
それは暦にとって、特別な出来事ではない。
いつも通りを、いつも通りに戻すための条件だった。




