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東都院物語  作者: 橘鉄真
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13/61

図書室にて

東都院の図書室は、放課後になると声の輪郭が薄くなる。

廊下にいる生徒の話し声は、扉と壁を通るうちに意味をなくす。閲覧席では頁をめくる音が続き、書架の奥では誰かが本を引き抜くたび、紙と紙の擦れる音だけが短く残った。

影山暦は、貸出カウンターの内側で返却本を一冊ずつ確認していた。

学生証を読み取り、図書に付けられたRFタグを通す。返却処理を終えたら、予約の有無と本の状態を確認する。

確認すべき項目は多くない。順番も決まっている。決まっている作業は、暦にとって扱いやすかった。

返却済み図書の一時置き場から三冊目を取った時、ページの間から細いリボンが落ちた。

淡い桃色のリボンだった。しおりではない。少なくとも、図書室で貸し出しているものではなかった。


「すみません。それ、私のです」


カウンターの前にいた女子生徒が、小さく身を乗り出した。言葉は普段より早く、指先はリボンを拾う前に一度だけ止まった。

暦はリボンを渡した。


「本には挟まない方がいいです。跡が残ることがあります」

「はい。気をつけます」


女子生徒はそれ以上言わず、リボンを手帳の間へしまった。頬が赤い。室温によるものではない、と暦は判断した。

昨日から、似た反応が増えていた。

女子同士の会話は普段より短く、異性の名前が出ると声量が一段下がる。男子の何人かは、昼休み以降、鞄の中を確認する回数が増えていた。

東都院では、騒ぎすぎることは好まれない。

廊下を走る生徒はいない。教室で大声を上げる者も少ない。高価すぎる贈答は目立つし、目立てば誰かに読まれる。だから、季節の習慣は、当日を過ぎても言葉の選び方や視線の動きに薄く残る。

それでも、完全には消えない。

本の間に挟まったリボン。用件が終わってから続く短い会話。普段よりも、少しだけ遅い退室。

暦はそれを、順番に記録するように見ていた。


誰の名前で声が小さくなるか。誰が、鞄の中を確認する回数を増やしているか。どの会話が、いつもよりわずかに長いか。

特別な推理ではない。

そういう違いに気づかないと、会話の返答を間違えることがある。間違えれば、相手の表情が変わる。表情が変われば、次の言葉を選び直さなければならない。暦にとって、人との会話は、最初から自然に流れるものではなかった。


「影山さん」


呼ばれて、暦は顔を上げた。

牧瀬琴葉が、カウンターの端に予約本の確認票を置いた。制服の袖口まできちんとしている。声は穏やかで、距離の取り方も近すぎない。


「予約分、こちらに置いておきますね。二冊だけ、今日中に連絡が必要です」

「分かりました。確認します」

「お願いします」


牧瀬はそこで一度、カウンターの上に視線を落とした。さっきのリボンがあった場所ではない。暦の手元、返却処理の端末、予約連絡のメモの順に目が動いた。


「昨日は、落ち着かない日でしたね」


言い方は軽い。踏み込むための声ではなかった。

暦は、返答の候補を三つ用意した。

同意する。詳しく聞く。別の話題へ移す。

牧瀬は昨日、菓子を渡した側でもある。暦にも、湊にも渡した。図書委員とクラスメイトとしての季節の挨拶。そう分類して問題はない。


「そうですね。会話量が増えていました」


暦が答えると、牧瀬は小さく笑った。


「影山さんらしい見方ですね」

「そうですか」

「はい。私は、返却が遅れた人が多かったなと思っていました」

「それも増えていました」


暦は予約棚の方へ視線を移した。

昨日の放課後から今日にかけて、返却カウンターの前で会話が長くなることがあった。すぐに去らない理由があるのか、ただ言葉を選んでいるだけなのかは分からない。

暦は、どちらとも決めなかった。


「昨日のもの、苦手ではありませんでしたか」


牧瀬が言った。

暦は返答を選んだ。牧瀬の視線は穏やかで、急がせるものではない。ここで必要なのは、味の詳細な分析ではない。拒絶ではないことを返すこと。


「苦手ではありません。おいしかったです」

「よかったです」

「湊も食べていました」


口にしてから、暦はその情報が必要だったかを考えた。余計なことを言ったかもしれない。

牧瀬は表情を変えなかった。ただ、目元が柔らかくなった。


「悠木くんにも、そう言っていただけたなら安心しました」

「湊は甘すぎるものは多く食べません。でも、昨日のものは残していませんでした」

「それは、参考になります」


牧瀬は笑いすぎなかった。

相手が話した分だけ受け取り、必要以上に広げない。牧瀬琴葉の会話は、図書室の作業に少し似ている。

必要なものを出し、余計なものは置かない。

その距離は、不快ではなかった。

カウンターの前に、男子生徒が一人来た。手には薄い参考書が二冊ある。


「返却、お願いします」

「学生証をお願いします」

「はい」


暦は学生証を受け取り、返却手続きを進めた。

端末に返却情報が表示される。

園部遙介。中等部三年。図書委員。

名前は知っていた。図書委員の名簿で見たことがある。貸出冊数も、返却期限も、問題はない。

園部は、手元ではなく、カウンターの上に置かれた予約本の確認票を見ていた。確認の仕方が図書委員のそれに近い。


「返却済みです」

「ありがとうございます」


園部は丁寧に頭を下げた。顔を上げる時、暦の方を一度見た。長くはない。用件を済ませた生徒としては、わずかに余分な間だった。

確定しないものは、そのままにしておく。

園部が離れると、カウンター前の短い空白もすぐに埋まった。

返却本を置く生徒。予約の有無を尋ねる生徒。借りる本を決めかねて、視線だけを棚へ戻す生徒。

どれも、図書室では珍しくない。

前日の余韻が残っているせいか、普段なら流してしまう言葉の間が、今日は少しだけ目についた。


「影山さん」


牧瀬が、声を低くしないまま呼んだ。


「予約本の連絡、一件はこちらで入れておきます。影山さんは返却棚の方をお願いできますか」

「分かりました」


暦は返却本を抱えて、カウンターの内側から出た。

図書室の床には、落ち着いた色のタイルカーペットが敷かれている。革靴の音はそこで吸われ、書架の間では人の動きだけが静かに残る。廊下よりも、人の流れは読みやすい。止まる場所、振り返る場所、誰かを避ける時に半歩下がる場所。棚の角で会話が途切れる位置。

暦は本を戻しながら、それらを視界の端で拾っていった。

普段なら、そこまで気にしなくてもよい。

けれど前日の余韻があると、同じ動きにも意味がつきやすい。関係が表に出るわけではない。むしろ、表に出さないために、ほんの少しだけ動き方が変わる。

暦は最後の一冊を棚へ戻した。

その時、図書室の入口が開いた。

廊下の空気が、薄く入り込む。


暦は、音の大きさではなく、周囲の視線の動きでそれに気づいた。入口に近い生徒が顔を上げる。カウンターにいた牧瀬の目も、手元から扉へ移る。

湊が来た。

暦は、驚かなかった。

来る可能性はあった。

湊は、用事があれば図書館棟の近くを通る。用事がなくても、帰る前に暦の場所を確認することがある。

迎えに来た、というほど大げさではない。

ただ、来た。

それで十分だった。

湊は入口で一度足を止め、室内の邪魔にならないように脇へ寄った。黒髪は乱れていない。制服の襟も普段通りで、鞄の肩紐を片手で直している。

周囲の視線が、湊と暦の間に短く集まった。

それも、暦は知っている。

湊と並ぶことは、本人たちにとっては長く続いている生活の一部でしかない。


東都院では、それでも意味がつく。

湊は暦を見つけると、声を張らずに近づいてきた。


「まだかかる?」

「返却棚は終わった。予約連絡が一件」

「手伝えることある?」

「ない。湊は図書委員ではない」

「それはそう」


湊は小さく笑った。

その返答で、暦は言葉を選び直さずに済んだ。

湊に対しては、返答の候補を並べる必要があまりない。言葉を選びすぎなくても、湊は勝手に補正する。暦が短く答えても、不機嫌だとは判断しない。必要なことだけを言えば、必要な範囲で受け取る。

牧瀬がカウンターの内側から声をかけた。


「影山さん、残りの予約本の連絡はこちらで入れておきます。もう上がって大丈夫ですよ」

「よろしいんですか」

「はい。今日は利用者も落ち着いていますから」


牧瀬は湊にも軽く会釈した。


「悠木くん、お疲れさまです」

「牧瀬さんも。図書委員、忙しそうだね」

「今日は、落ち着いています」

「昨日は大変だった?」

「図書室まで、空気が違いました」


牧瀬の返しに、湊は苦笑した。

図書室まで空気が違った、という言い方には、昨日を知っている者同士の共有がある。湊はそれを理解している。理解した上で、深く踏み込まない。

湊はそういうところがある。

分からないことを、無理に聞かない。分かったことを、必要以上に言葉にしない。

暦はカウンターへ戻り、作業用の鉛筆を所定の位置に置いた。予約本の確認票を揃える。メモを確認する。椅子を戻す。

終わりの手順も決まっている。


「牧瀬さん」

「はい」

「昨日のもの、ありがとうございました」


牧瀬は一瞬だけ目を丸くした。すぐに、いつもの穏やかな表情へ戻る。


「こちらこそ、受け取ってくれてありがとうございます」

「湊も言っていました。おいしかったそうです」

「二回目ですね」

「必要なら、記録は重複してもいいと思います」


牧瀬は声を立てずに笑った。


「影山さんらしいです」


その言い方に、嫌な圧はなかった。

暦は頷き、鞄を取った。

図書室を出る時、近くの閲覧席から視線が一度だけ動いた。湊と暦が並ぶことを確認するような、短い視線だった。

暦はそれを見た。

見た上で、歩く速度を変えなかった。

隠す必要はない。説明する必要もない。湊と一緒に帰る日は、一緒に帰る。先に帰る日は、先に帰る。予定が違えば、短く伝える。

それだけのことだった。

廊下に出ると、図書室の静けさが背中側に閉じた。図書館棟の窓から見える空は、冬の終わりに近い色をしている。日が沈むにはまだ早いが、光はすでに薄かった。

湊が鞄を肩に掛け直しながら言った。


「駅前、寄っていい?」

「何を買う?」

「材料。明日のやつ」


暦は一度だけ瞬きをした。

明日。

影山家で作る菓子のことだ。

金曜の放課後に材料を見ておけば、明日の午前には作り始められる。

今年は、いつもより後になった。


「スーパー」

「うん。東都院前じゃなくて、家の方の」

「その方がいい。値段と量が普通」

「普通って大事だよな」

「大事」


湊は、そこで笑った。

暦は歩き出した。

廊下の向こうにも、いつもの放課後とは違う静けさが残っていた。

それは、まだ暦の視界に入っている。

けれど、今はそこまで追わなくてよかった。

湊が隣にいる。

それは暦にとって、特別な出来事ではない。

いつも通りを、いつも通りに戻すための条件だった。

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