最寄り駅前の買い物
廊下へ出ると、図書館棟の静けさが背中側で薄くなった。
放課後の校舎には、まだ前日の名残がある。声量は変わらないのに、誰かの名前が出た時だけ、会話の端がわずかに沈む。いつも通りに笑っている生徒の間にも、どこか探るような間が残っていた。
暦の視界には入っていたが、これ以上見ておく必要はなかった。
湊は隣で鞄の肩紐を直している。弓道部の練習帰りや、授業後の廊下で見る、いつもの歩き方だった。
行き先は、もう決まっている。
東都院前ではなく、家の方の駅前にあるスーパー。家庭で菓子を作るための材料を買うには、その方が量と値段のバランスが良い。
明日は影山家で菓子を作る。
今年は、いつもより後になった。
その予定を、暦は鞄の重さと同じくらい自然に持っていた。重くはない。手放してもいない。
湊は昨日、九条院エリカから菓子を受け取った。
式典局の作業場所で配られた小さな菓子。扱いは丁寧だった。特別に浮かせるでも、ぞんざいに流すでもない。
暦はそれを覚えている。
昇降口を出ると、冬の終わりの風が制服の裾を揺らした。校舎の外は明るいが、日差しは弱い。春に近づいているのではなく、冬が少しずつ後ろへ下がっているような光だった。
学校から駅までの道は、いつも通りだった。
正門を出る。白藤坂通りへ下りる。東都院前駅へ向かう生徒の列に混ざる。何人かは迎えの車の方へ流れ、何人かは駅へ向かう。エリカの姿は、車寄せの方に一度だけ見えた。
淡い髪が、夕方の光の中で静かに目立っていた。
湊の視線が、そちらへ向いた。
長くはない。
会釈を交わす距離でもなく、声をかける距離でもない。見知った相手が視界に入った時の、自然な一瞬だった。
暦は、それも覚えた。
そして歩く速度を変えなかった。
電車の中では会話は多くならなかった。
湊は吊革を持ち、暦は扉に近い場所で鞄を前に抱えた。東都院の生徒が何人か同じ車両にいたが、駅を二つ過ぎる頃には数が減った。制服の密度が薄くなると、暦が確認するものも変わる。
同じ車両に残る東都院の生徒は減った。視線の向きも、制服の校章や鞄の持ち方を読むものから、単に乗客の一人を見るものへ変わっていく。
何も考えなくてよくなるわけでもない。ただ、周囲が読み取ろうとする情報の種類が減る。
家の最寄り駅で降りると、改札の向こうに見慣れた明るさがあった。
駅前のスーパーは東都院前の店ほど静かではない。
自動ドアの前には特売の札が出ていた。入口近くの野菜売り場からは、冷えた葉物の匂いがする。買い物かごが重なる音、レジの電子音、惣菜売り場の呼び込みが、それぞれ遠慮なく混ざっている。
暦はその雑多さが好きではない。
音の種類が多い。動く人の向きも一定ではない。値札、呼び込み、レジの列、買い物かごを取る手。見ておくものが増える。
東都院の音は、よく整えられている。その分、外れた音が目立つ。ここでは、初めからいろいろな音が重なり、どれを優先すればいいかを選ばなければならない。
「かごを持つよ」
湊が入口で言った。
「軽い」
「今はな」
そう言って、湊は買い物かごを一つ取った。
暦は反論しなかった。
湊が何かに気づいている時の言い方だった。かごを持つ。ただそれだけで、こちらの手を空ける。
そういう判断を、湊は時々する。
暦に対しては特に多い。
「明日はフィナンシェでいいんだよな」
湊がかごを持ったまま聞いた。
「そう」
「じゃあ、バターか」
「先に見る」
乳製品売り場へ向かう。湊は棚の前で足を止め、値札を見た。
「無塩、これでいい?」
「二つ」
「結構使うな」
「フィナンシェはバターが要る」
「分かってるけど、見ると多い」
「焦がすと減る」
「そこも含めて?」
「含める」
湊は値札を見比べてから、無塩バターを二つかごに入れた。冷えた箱が底に落ちる音がした。
「アーモンドプードルは?」
「半分はある。けど足りない」
「一袋?」
「一袋。試作を増やさなければ」
「増やす予定だったのか」
「湊がチョコを入れると言った」
「言ったけど」
「フルーツも試すと言った」
「それは暦も言った」
「それはそう」
「じゃあ二人分だな」
「うん」
乾物の棚へ移る。薄力粉、砂糖、アーモンドプードル、ベーキングパウダーが、家庭用の袋で並んでいた。棚の前には、買い物メモを見ながら迷っている女性が一人いる。暦は、その人の邪魔にならない位置で止まった。
湊が棚の上段からアーモンドプードルを取る。
「これ?」
「それ」
「こっちの大きい方じゃなくていい?」
「大きい方は余る」
「来月も作るだろ」
「来月はまた買う。今回上手くできたものを作る」
「それもそうか」
湊は小さい袋をかごに入れた。
来月。
三月には、また別に作る。
そこまでは、まだこの場で広げなくていい。
三月には三月の数と形がある。今日は、明日の家の分だけでいい。
暦はそう判断した。
卵と砂糖は、家にある分を確認して、足りないものだけを買い足すことにした。
「卵白だけ使う。黄身が残る」
「夕飯か何かで使ってもらおう」
「母に言う」
湊は卵のパックを手に取り、割れていないかを確認してからかごに入れた。自分では雑に見えることがあるが、物を扱う時は意外と確認を怠らない。
特に、暦の家へ持っていくものは。
「チョコは?」
「製菓用」
「普通の板チョコじゃだめ?」
「だめではない。溶け方が違う」
「出た」
「何が?」
「だめではない、から始まるやつ」
暦はチョコレートの棚を見た。甘さ、粒の大きさ、値段。全部を試す必要はない。
「これを少し」
「少しでいいのか」
「入れすぎると、全部チョコになる」
「それはそれでうまそうだけど」
「フィナンシェではなくなる」
「厳しい」
湊は笑いながら、小さめの製菓用チョコをかごへ入れた。
次に冷凍食品の棚へ向かった。
冷凍ベリーの袋は、鮮やかな写真で目立っていた。ブルーベリー、ラズベリー、ミックスベリー。どれもきれいだが、全部を試す必要はない。
暦は、袋の裏の表示を確認した。
「フルーツは少量」
「袋は一つ?」
「それでいい」
「ミックスベリー?」
「小さい袋なら」
「分かった」
湊は冷凍ベリーの一番小さい袋を取った。大きい袋には手を伸ばさなかった。
暦は、その選び方を見ていた。
疲れている時、暦は判断を余分に増やしたくない。大きい袋を買えば、使い切る方法を考える。余れば保存を考える。小さい袋なら、明日で済む。
湊は、そこまで言葉にしない。
言葉にしないまま、小さい方を選ぶ。
「オレンジピールは?」
「見る」
「見るだけ?」
「値段による」
「生活感がある」
「ここはスーパー」
「知ってる」
製菓材料の端に、小さな袋の砂糖漬けオレンジピールが置かれていた。量は少ない。値段は安くはない。だが、明日の試作に一種類だけ入れるなら足りる。
暦が袋を手に取ると、湊が横から覗き込んだ。
「入れるとどうなる?」
「香りが出る。日を置いた時の風味も見られる」
「明日食べるだけじゃないのか」
「家に分ける。全部をその場で食べるわけではない」
「ああ、うちにも持って帰るやつ」
「そう」
影山家と悠木家。
作る菓子は、今年も両方の家に分ける。子供の頃から続いている、季節の行事だった。
東都院の生徒が見れば、何か別の意味を読むかもしれない。
けれど、家の台所では違う。
卵を割る。バターを焦がす。型に生地を流す。焼けたものを冷ます。味を見て、形の良いものを分ける。親たちがそれを受け取り、感想を言う。
暦にとって、それは贈答というより家の中に残っている季節の形だった。
「東都院だと、どこまで普通か分かりにくいしな」
湊が言った。
暦は袋を棚に戻さず、手元で持ったまま目を上げた。
「普通に見える。でも、相手と場所次第」
「昨日の件?」
「昨日も」
湊は黙った。
レジの方から、袋が開かれる乾いた音が聞こえた。惣菜売り場では、閉店前でもないのに割引の札がいくつか出ている。東都院の校舎とは違う種類の時間が、ここでは動いていた。
「九条院さんのは、普通ではなかった?」
湊の声は、確認に近かった。
暦は、オレンジピールの袋を見た。
「式典局の中では普通。高すぎないし、安すぎない」
「そこまで気にするものなのかな」
「たぶん、合っていないと面倒になる」
「そっか」
湊は、困ったようには笑わなかった。
それが暦には楽だった。
「牧瀬さんのは?」
「図書委員とクラスメイトの範囲。穏やか」
「それなら気楽でいいな」
「うん」
暦は、オレンジピールの袋をかごに入れた。
「フィナンシェは、日を置いても味が落ちにくい」
「明日の分の話?」
「明日の分。試すにはちょうどいい」
「暦が選ぶと理由が多い」
「理由がないと選びにくい」
湊は、かごの中を見た。
バター。アーモンドプードル。卵。チョコ。冷凍ベリー。オレンジピール。
「今日はここまでにしよう」
「砂糖はある」
「ならいい。増やすと重い」
「持つのは湊」
「だから言ってる」
暦は湊へ目を向けた。
湊は真面目な顔をしている。冗談のようにも聞こえるが、半分以上は本気だった。
「疲れているように見える?」
「少し」
「どこが」
「棚を見る時間が長い」
暦は瞬きをした。
自分では、気づいていなかった。
棚を見る時間。商品の表示を読む時間。選ぶ前に、視線を置く時間。どれも自分の中では、確認の手順だった。疲れている時は、その手順が少し遅くなる。
湊は、それを疲労として読んだ。
「眠いだけかもしれない」
「それも疲れてるうちに入る」
「分け方が雑」
「今日は雑でいい」
湊はそう言って、レジの方へ向かった。
暦は、その背中についていった。
今日は雑でいい。
その言い方に、東都院のものとは違う乱暴さがあった。正確ではない。礼儀正しくもない。けれど、暦を困らせはしない。
レジでは、湊がかごを台に置いた。冷たいものはまとめ、軽い袋は潰れないように横へ避ける。店員の手元を見て、卵のパックだけは最後に袋へ入れてもらった。
「袋は二つ下さい」
湊が言う。
「一つで入る」
「分ける。俺が重い方」
「家まで近い」
「近いから、重い方を持つ」
理屈としてはつながっていない。
暦はそう思ったが、言わなかった。
会計を済ませると、湊はバターや卵の入った袋を持った。暦にはチョコとオレンジピール、軽い乾物の袋が渡される。
「冷凍ベリーは?」
「俺の方」
「溶ける」
「急いで帰る理由になる」
「走りはしない」
「走らず急げばいい」
自動ドアを出ると、駅前の空気は冷たかった。
学校を出た時より、空の色が沈んでいる。スーパーの明かりが背中に残り、道路の向こうでは自転車のライトが低く流れていた。
暦は、袋の持ち手を握り直した。
明日の朝、九時。
影山家の台所。焦がしバター。型。チョコ。ベリー。オレンジピール。焼き上がったものを湊が食べて、たぶん「味はいい」と言う。
暦は、その予測を特に疑わなかった。
「明日、朝飯は済ませてから行った方がいいよな?」
湊が聞いた。
「どちらでもいい」
「じゃあ、食べて行く」
「母はたぶん、湊の分も用意する」
「それはありそう」
「出かける前でも、用意する」
「だよな」
湊は袋を持ち替えた。
「じゃあ九時。遅れたら連絡する」
「遅れない」
「決めつけるなよ」
「湊は、うちに来る時はあまり遅れない」
「まあ、そうだけど」
「だから遅れない」
「決めつけが強くない?」
「事実」
湊はまた笑った。
その笑い方は、校内で九条院エリカに向けたものとは違う。牧瀬琴葉へ礼を言う時のものとも違う。
暦は、その笑い方に名前をつけなかった。
名前をつけなくても、分かるものだった。
駅前の通りを抜けると、住宅街へ入る。東都院の制服はまだ身についているのに、ここではただの帰り道に見えた。人がこちらを見るとしても、家格や席次を読む視線ではない。せいぜい、制服の学校名か、買い物袋の中身くらいだった。
湊が重い袋を持ち、暦が軽い袋を持つ。
明日の材料を分けて持つ。
それだけの帰り道だった。
暦にとって、それは特別な出来事ではない。
いつも通りに戻すための、必要な手順だった。




