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東都院物語  作者: 橘鉄真
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14/61

最寄り駅前の買い物

廊下へ出ると、図書館棟の静けさが背中側で薄くなった。

放課後の校舎には、まだ前日の名残がある。声量は変わらないのに、誰かの名前が出た時だけ、会話の端がわずかに沈む。いつも通りに笑っている生徒の間にも、どこか探るような間が残っていた。

暦の視界には入っていたが、これ以上見ておく必要はなかった。

湊は隣で鞄の肩紐を直している。弓道部の練習帰りや、授業後の廊下で見る、いつもの歩き方だった。

行き先は、もう決まっている。

東都院前ではなく、家の方の駅前にあるスーパー。家庭で菓子を作るための材料を買うには、その方が量と値段のバランスが良い。

明日は影山家で菓子を作る。

今年は、いつもより後になった。

その予定を、暦は鞄の重さと同じくらい自然に持っていた。重くはない。手放してもいない。


湊は昨日、九条院エリカから菓子を受け取った。

式典局の作業場所で配られた小さな菓子。扱いは丁寧だった。特別に浮かせるでも、ぞんざいに流すでもない。

暦はそれを覚えている。

昇降口を出ると、冬の終わりの風が制服の裾を揺らした。校舎の外は明るいが、日差しは弱い。春に近づいているのではなく、冬が少しずつ後ろへ下がっているような光だった。

学校から駅までの道は、いつも通りだった。

正門を出る。白藤坂通りへ下りる。東都院前駅へ向かう生徒の列に混ざる。何人かは迎えの車の方へ流れ、何人かは駅へ向かう。エリカの姿は、車寄せの方に一度だけ見えた。

淡い髪が、夕方の光の中で静かに目立っていた。

湊の視線が、そちらへ向いた。

長くはない。


会釈を交わす距離でもなく、声をかける距離でもない。見知った相手が視界に入った時の、自然な一瞬だった。

暦は、それも覚えた。

そして歩く速度を変えなかった。

電車の中では会話は多くならなかった。

湊は吊革を持ち、暦は扉に近い場所で鞄を前に抱えた。東都院の生徒が何人か同じ車両にいたが、駅を二つ過ぎる頃には数が減った。制服の密度が薄くなると、暦が確認するものも変わる。

同じ車両に残る東都院の生徒は減った。視線の向きも、制服の校章や鞄の持ち方を読むものから、単に乗客の一人を見るものへ変わっていく。

何も考えなくてよくなるわけでもない。ただ、周囲が読み取ろうとする情報の種類が減る。

家の最寄り駅で降りると、改札の向こうに見慣れた明るさがあった。


駅前のスーパーは東都院前の店ほど静かではない。

自動ドアの前には特売の札が出ていた。入口近くの野菜売り場からは、冷えた葉物の匂いがする。買い物かごが重なる音、レジの電子音、惣菜売り場の呼び込みが、それぞれ遠慮なく混ざっている。

暦はその雑多さが好きではない。

音の種類が多い。動く人の向きも一定ではない。値札、呼び込み、レジの列、買い物かごを取る手。見ておくものが増える。

東都院の音は、よく整えられている。その分、外れた音が目立つ。ここでは、初めからいろいろな音が重なり、どれを優先すればいいかを選ばなければならない。


「かごを持つよ」


湊が入口で言った。


「軽い」

「今はな」


そう言って、湊は買い物かごを一つ取った。

暦は反論しなかった。

湊が何かに気づいている時の言い方だった。かごを持つ。ただそれだけで、こちらの手を空ける。

そういう判断を、湊は時々する。

暦に対しては特に多い。


「明日はフィナンシェでいいんだよな」


湊がかごを持ったまま聞いた。


「そう」

「じゃあ、バターか」

「先に見る」


乳製品売り場へ向かう。湊は棚の前で足を止め、値札を見た。


「無塩、これでいい?」

「二つ」

「結構使うな」

「フィナンシェはバターが要る」

「分かってるけど、見ると多い」

「焦がすと減る」

「そこも含めて?」

「含める」


湊は値札を見比べてから、無塩バターを二つかごに入れた。冷えた箱が底に落ちる音がした。


「アーモンドプードルは?」

「半分はある。けど足りない」

「一袋?」

「一袋。試作を増やさなければ」

「増やす予定だったのか」

「湊がチョコを入れると言った」

「言ったけど」

「フルーツも試すと言った」

「それは暦も言った」

「それはそう」

「じゃあ二人分だな」

「うん」


乾物の棚へ移る。薄力粉、砂糖、アーモンドプードル、ベーキングパウダーが、家庭用の袋で並んでいた。棚の前には、買い物メモを見ながら迷っている女性が一人いる。暦は、その人の邪魔にならない位置で止まった。

湊が棚の上段からアーモンドプードルを取る。


「これ?」

「それ」

「こっちの大きい方じゃなくていい?」

「大きい方は余る」

「来月も作るだろ」

「来月はまた買う。今回上手くできたものを作る」

「それもそうか」


湊は小さい袋をかごに入れた。

来月。

三月には、また別に作る。

そこまでは、まだこの場で広げなくていい。

三月には三月の数と形がある。今日は、明日の家の分だけでいい。

暦はそう判断した。

卵と砂糖は、家にある分を確認して、足りないものだけを買い足すことにした。


「卵白だけ使う。黄身が残る」

「夕飯か何かで使ってもらおう」

「母に言う」


湊は卵のパックを手に取り、割れていないかを確認してからかごに入れた。自分では雑に見えることがあるが、物を扱う時は意外と確認を怠らない。

特に、暦の家へ持っていくものは。


「チョコは?」

「製菓用」

「普通の板チョコじゃだめ?」

「だめではない。溶け方が違う」

「出た」

「何が?」

「だめではない、から始まるやつ」


暦はチョコレートの棚を見た。甘さ、粒の大きさ、値段。全部を試す必要はない。


「これを少し」

「少しでいいのか」

「入れすぎると、全部チョコになる」

「それはそれでうまそうだけど」

「フィナンシェではなくなる」

「厳しい」


湊は笑いながら、小さめの製菓用チョコをかごへ入れた。

次に冷凍食品の棚へ向かった。

冷凍ベリーの袋は、鮮やかな写真で目立っていた。ブルーベリー、ラズベリー、ミックスベリー。どれもきれいだが、全部を試す必要はない。

暦は、袋の裏の表示を確認した。


「フルーツは少量」

「袋は一つ?」

「それでいい」

「ミックスベリー?」

「小さい袋なら」

「分かった」


湊は冷凍ベリーの一番小さい袋を取った。大きい袋には手を伸ばさなかった。

暦は、その選び方を見ていた。

疲れている時、暦は判断を余分に増やしたくない。大きい袋を買えば、使い切る方法を考える。余れば保存を考える。小さい袋なら、明日で済む。

湊は、そこまで言葉にしない。

言葉にしないまま、小さい方を選ぶ。


「オレンジピールは?」

「見る」

「見るだけ?」

「値段による」

「生活感がある」

「ここはスーパー」

「知ってる」


製菓材料の端に、小さな袋の砂糖漬けオレンジピールが置かれていた。量は少ない。値段は安くはない。だが、明日の試作に一種類だけ入れるなら足りる。

暦が袋を手に取ると、湊が横から覗き込んだ。


「入れるとどうなる?」

「香りが出る。日を置いた時の風味も見られる」

「明日食べるだけじゃないのか」

「家に分ける。全部をその場で食べるわけではない」

「ああ、うちにも持って帰るやつ」

「そう」


影山家と悠木家。

作る菓子は、今年も両方の家に分ける。子供の頃から続いている、季節の行事だった。

東都院の生徒が見れば、何か別の意味を読むかもしれない。

けれど、家の台所では違う。

卵を割る。バターを焦がす。型に生地を流す。焼けたものを冷ます。味を見て、形の良いものを分ける。親たちがそれを受け取り、感想を言う。

暦にとって、それは贈答というより家の中に残っている季節の形だった。


「東都院だと、どこまで普通か分かりにくいしな」


湊が言った。

暦は袋を棚に戻さず、手元で持ったまま目を上げた。


「普通に見える。でも、相手と場所次第」

「昨日の件?」

「昨日も」


湊は黙った。

レジの方から、袋が開かれる乾いた音が聞こえた。惣菜売り場では、閉店前でもないのに割引の札がいくつか出ている。東都院の校舎とは違う種類の時間が、ここでは動いていた。


「九条院さんのは、普通ではなかった?」


湊の声は、確認に近かった。

暦は、オレンジピールの袋を見た。


「式典局の中では普通。高すぎないし、安すぎない」

「そこまで気にするものなのかな」

「たぶん、合っていないと面倒になる」

「そっか」


湊は、困ったようには笑わなかった。

それが暦には楽だった。


「牧瀬さんのは?」

「図書委員とクラスメイトの範囲。穏やか」

「それなら気楽でいいな」

「うん」


暦は、オレンジピールの袋をかごに入れた。


「フィナンシェは、日を置いても味が落ちにくい」

「明日の分の話?」

「明日の分。試すにはちょうどいい」

「暦が選ぶと理由が多い」

「理由がないと選びにくい」


湊は、かごの中を見た。

バター。アーモンドプードル。卵。チョコ。冷凍ベリー。オレンジピール。


「今日はここまでにしよう」

「砂糖はある」

「ならいい。増やすと重い」

「持つのは湊」

「だから言ってる」


暦は湊へ目を向けた。

湊は真面目な顔をしている。冗談のようにも聞こえるが、半分以上は本気だった。


「疲れているように見える?」

「少し」

「どこが」

「棚を見る時間が長い」


暦は瞬きをした。

自分では、気づいていなかった。

棚を見る時間。商品の表示を読む時間。選ぶ前に、視線を置く時間。どれも自分の中では、確認の手順だった。疲れている時は、その手順が少し遅くなる。

湊は、それを疲労として読んだ。


「眠いだけかもしれない」

「それも疲れてるうちに入る」

「分け方が雑」

「今日は雑でいい」


湊はそう言って、レジの方へ向かった。

暦は、その背中についていった。

今日は雑でいい。

その言い方に、東都院のものとは違う乱暴さがあった。正確ではない。礼儀正しくもない。けれど、暦を困らせはしない。

レジでは、湊がかごを台に置いた。冷たいものはまとめ、軽い袋は潰れないように横へ避ける。店員の手元を見て、卵のパックだけは最後に袋へ入れてもらった。


「袋は二つ下さい」


湊が言う。


「一つで入る」

「分ける。俺が重い方」

「家まで近い」

「近いから、重い方を持つ」


理屈としてはつながっていない。

暦はそう思ったが、言わなかった。

会計を済ませると、湊はバターや卵の入った袋を持った。暦にはチョコとオレンジピール、軽い乾物の袋が渡される。


「冷凍ベリーは?」

「俺の方」

「溶ける」

「急いで帰る理由になる」

「走りはしない」

「走らず急げばいい」


自動ドアを出ると、駅前の空気は冷たかった。

学校を出た時より、空の色が沈んでいる。スーパーの明かりが背中に残り、道路の向こうでは自転車のライトが低く流れていた。

暦は、袋の持ち手を握り直した。

明日の朝、九時。

影山家の台所。焦がしバター。型。チョコ。ベリー。オレンジピール。焼き上がったものを湊が食べて、たぶん「味はいい」と言う。

暦は、その予測を特に疑わなかった。


「明日、朝飯は済ませてから行った方がいいよな?」


湊が聞いた。


「どちらでもいい」

「じゃあ、食べて行く」

「母はたぶん、湊の分も用意する」

「それはありそう」

「出かける前でも、用意する」

「だよな」


湊は袋を持ち替えた。


「じゃあ九時。遅れたら連絡する」

「遅れない」

「決めつけるなよ」

「湊は、うちに来る時はあまり遅れない」

「まあ、そうだけど」

「だから遅れない」

「決めつけが強くない?」

「事実」


湊はまた笑った。

その笑い方は、校内で九条院エリカに向けたものとは違う。牧瀬琴葉へ礼を言う時のものとも違う。

暦は、その笑い方に名前をつけなかった。

名前をつけなくても、分かるものだった。

駅前の通りを抜けると、住宅街へ入る。東都院の制服はまだ身についているのに、ここではただの帰り道に見えた。人がこちらを見るとしても、家格や席次を読む視線ではない。せいぜい、制服の学校名か、買い物袋の中身くらいだった。

湊が重い袋を持ち、暦が軽い袋を持つ。

明日の材料を分けて持つ。

それだけの帰り道だった。

暦にとって、それは特別な出来事ではない。

いつも通りに戻すための、必要な手順だった。

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