今年は後になった
土曜日の朝は、学校のある日よりも音が少ない。
影山家の台所では、冷蔵庫の低い音と、シンクに水が落ちる音だけが先に動いていた。窓の外は明るいが、二月の光はまだ薄い。暖房の入った室内と、廊下から流れてくる冷気の境目が、床の上に静かに残っている。
暦は、台所の端に置いたメモを見た。
薄力粉。アーモンドプードル。砂糖。卵白。無塩バター。チョコ。ベリー。オレンジピール。
昨日、湊と買ったものは、すでに種類ごとに分けてある。冷蔵庫へ入れるものは冷蔵庫に、常温でいいものは台所の作業台の隅に寄せた。型は母が朝のうちに出していた。計量器とボウルも、いつもの棚ではなく、使いやすい位置に並んでいる。
暦が頼んだわけではない。
理沙は、そういう準備をしてから仕事へ行くことがある。手順を奪うのではなく、始める前に探す手間だけを減らす。その程度の関わり方を、母はよく選ぶ。
リビングのほうで、扉の開く音がした。
「暦、いる?」
父の声だった。
「いるよ」
「湊くんがそろそろ来る時間だろ。スリッパは出てるか」
「出してある」
「そうか」
直紀は廊下から顔を出した。休日用の服ではなく、上着を腕に掛け、鞄を持っている。平日よりは少しだけ緩い格好だが、仕事へ出る人の服だった。
「お父さんはそろそろ出るの?」
「昼前に一件だけ。夕方には戻る。たぶん」
「たぶんなの?」
「帰る意思はある」
暦はうなずいた。
帰る意思があっても、仕事が長引くことはある。
影山家では、それは珍しいことではなかった。戻る予定と、戻れない可能性と、連絡することだけが、短く共有される。
階段の上から、理沙の声が降りてきた。
「暦、焦がしバターを作るなら換気扇を先につけて。湊くんが来たら、手を洗ってから台所ね」
「分かった」
「あと、戸締まり。私たちが出たあと、玄関だけ確認して」
「うん。見ておく」
理沙は髪を留めながら降りてきた。肩に鞄を掛け、片手に薄い書類封筒を持っている。仕事へ向かう日の、きちんとした服だった。
「お母さんも、今日は仕事?」
「午前中だけね。午後は研究室に寄るかもしれないけど、夕食までには戻るつもり」
「戻れなかったら、連絡して」
「もちろん」
理沙はそう言って、台所の作業台を見た。
「卵はまだ出さないで。使う少し前でいい。ベリーは水気をちゃんと切って」
「分かってる。先に出さない」
「分かっているなら大丈夫」
言い方は軽い。けれど、必要な確認だけは残していく。
チャイムが鳴った。
暦は時計を見た。九時より、少し前だった。
「湊」
暦は玄関へ向かった。急いだわけでも、待ち構えていたわけでもないが、扉は自分で開けた。
玄関の向こうに、湊が立っていた。
私服の上にコートを羽織り、片手に昨日とは別の袋を持っている。学校の制服ではないのに、湊の立ち方はあまり変わらない。周囲を軽く見て、こちらへ視線を戻す。
「早い」
「遅れないって言われたから」
「遅れないと思った」
「そこは当たったな」
湊は小さく笑い、靴を脱いだ。いつもの場所にあるスリッパを、迷わず履く。新しく出されたものではない。湊用と決まっているわけでもないが、何度も来ているうちに、自然と彼が使う位置が決まっていた。
廊下の奥から、直紀が声をかけた。
「湊くん、おはよう。悪いね、今日は二人とも出る」
「おはようございます。聞いてます。お邪魔します」
「邪魔ではないよ。台所はそのまま使って。包丁だけ気をつけて」
「はい」
理沙も玄関の手前まで来た。
「湊くん、手を洗ってからね。コップはいつもの棚。飲み物は冷蔵庫に入っているから、好きにして」
「ありがとうございます」
「あと、火を使う時は換気扇。暦は忘れないけど、二人で話していると後回しになることがあるから」
湊は暦を見た。
「後回しにしたことある?」
「一回」
「覚えてるのか」
「煙が出た」
「それは覚えるな」
理沙が少し笑った。茶化す笑いではない。昔から知っている子どもたちが、また同じようなことをしているのを見た時の、短い笑みだった。
「じゃあ、お願いね。何かあったら連絡して。昼は、冷蔵庫にサンドイッチを入れてあるから」
「湊の分もあるの?」
暦が聞くと、理沙は当然のようにうなずいた。
「もちろん」
「ありがとうございます」
「悠木さんたちには今日来ることを聞いているから。帰りが遅くなるなら、そっちにも連絡するのよ」
「はい」
湊の返事は自然だった。
悠木家と影山家の間では、その程度の連絡は珍しくなかった。
授業参観や体育祭で顔を合わせるうちに、子どもだけで行き来する日の扱いも、いつの間にか決まっていた。
だから、湊が影山家へ来ることは、特別な訪問ではなかった。
少なくとも、今日ここにいる四人の中では、そう扱われていない。
直紀と理沙は、最後に玄関の荷物を確認し、ほとんど同じ時間に家を出た。扉が閉まる直前、直紀が振り返る。
「戸締まりだけ頼む」
「大丈夫。ちゃんと鍵をかけるから」
「火には気をつけるように」
「うん」
「湊くんも、気をつけてね」
「分かりました」
暦は父を見た。
直紀は軽く手を上げ、理沙と一緒に出ていった。
玄関に、外の冷たい空気が残った。暦は鍵をかけ、チェーンはかけずに戻した。昼間で、二人とも家にいる。そこまで閉じる必要はない。
湊は廊下でコートを脱いでいた。
「相変わらず二人とも忙しそうだな」
「今日は短い方」
「土曜なのに?」
「土曜だから、平日にできない用事が入る」
「なるほど」
湊は納得したように言った。かわいそうだとも、寂しくないのかとも言わない。その言い方は、暦には楽だった。
両親は忙しい。休日にも家を空ける。
それでも、朝食は用意され、連絡は来る。必要なものは揃えられている。湊の分の昼食まで増えている。
放っておかれている、と暦が考えたことはなかった。
「手、洗う」
暦が言うと、湊はうなずいた。
「はいはい」
「はいは一回」
「はーい」
湊は洗面所の位置を聞かなかった。台所へ入る前に洗面所へ寄り、タオルの場所も迷わない。暦はその間に、作業台の上をもう一度確認した。
型。ボウル。泡立て器。ゴムベラ。小鍋。計量器。
湊が戻ってきて、作業台を見た。
「本格的だな」
「いつも通り」
「いや、種類が多い」
「今年は試す」
「スタンダードと、チョコと、ベリーと、オレンジピール?」
「たぶん」
「たぶんって」
「途中で変えるかもしれない」
湊は袋を作業台の端に置いた。
「そういえば、今年は後になったな」
暦は、計量器の表示をゼロに戻した。
「うん」
「例年だと、バレンタイン前に作ってた」
「今年は配らないと決めてた」
「東都院で?」
「うん」
暦は薄力粉の袋を開けた。粉の匂いはほとんどない。けれど、袋の口を開いた時だけ、乾いた気配が少し立つ。
「先に作ると、配る前提になる」
「まあ、そうなるか」
東都院では、ただ持っているだけの包みにも意味がつく。
誰に渡すか。誰には渡さないか。受け取ったあと、どう返すか。
暦は、そこを確かめずに動きたくなかった。
「どのくらいが普通なのか、見てからにしたかった」
湊は、すぐには返事をしなかった。
暦が粉を計量する音だけが、小さく台所に落ちる。
「見て、どうだった?」
「いろいろ」
「答えになってない気がする」
「普通が一つじゃなかった」
「それは、まあ、そうだな」
湊は苦笑した。
暦は、砂糖を量りながら続けた。
「今年は配らない。もらった分は、来月返す」
「牧瀬さんの分?」
「牧瀬さんの分。あと、湊は九条院さん」
湊の手が、ボウルの縁で止まった。
「……やっぱり、お返しがいるかな?」
「受け取った」
「まあ、受け取ったけど」
「式典局の挨拶でも、返す方が角が立たない」
「そっか」
暦は卵白の数を確認した。
「だから、今年は先に東都院を見てからにした」
湊は、今度は笑わなかった。
「慎重だな」
「そうした方がいいと思った」
「うん」
湊の返事は、短かった。けれど、流している声ではなかった。
暦は砂糖の袋を閉じ、作業台の端に置いた。
話は、そこでいったん切れた。
「今日の分は返礼用じゃない」
「分かってる」
湊はそう言ってから、作業台に並んだ型を見た。
「うちと、暦のところの分だよな」
「うん。毎年の分」
暦はその返事を、作業の邪魔にならない場所へ置いた。
説明しすぎる必要はない。湊には、だいたい伝わる。そういう相手は、多くない。
暦はボウルを一つ、湊の前に置いた。
「フィナンシェ作り、始める」
「了解。俺は何をすればいい?」
「バター」
「焦がすやつ?」
「焦がしすぎないやつ」
「責任が重いな」
「失敗しても、湊が食べる」
「俺だけ?」
「味が悪くなければ、父と母と、悠木のおじさんたちにも渡す」
「悪かったら?」
「湊が食べる」
「俺の扱い、試食係を超えてない?」
「信頼」
「信頼なら仕方ないな」
湊はそう言いながら、小鍋を手に取った。棚の場所を確認せず、コンロの前に立つ。暦は換気扇のスイッチを入れた。
低い音が台所に広がる。
外では、父と母がそれぞれの仕事へ向かっている。宗一郎と椿子も、湊がここにいることを知っている。
大人たちの予定の隙間に、毎年の菓子作りが置かれている。
今年は、後になった。それだけの違いだった。けれど、その違いを確かめてから始めることが、暦には必要だった。
湊がバターを鍋に入れる。白く固まった角が、ゆっくりと溶けていく。
暦は計量済みの粉を見て、次の手順を頭の中で並べた。
「焦がしすぎないで」
「二回目だぞ」
「重要」
「分かってる」
湊の声に、笑いが混じった。
暦はそれを聞きながら、卵白の入ったボウルを手元へ引き寄せた。
台所の作業が始まった。




