生焼けのフィナンシェ
換気扇の音が、台所の上に低く広がっていた。
湊は小鍋を傾け、溶けかけたバターの色を見ている。白かった塊はすでに形を失い、鍋底で泡を立て始めていた。暦は卵白の入ったボウルを手元へ引き寄せ、計量しておいた砂糖と粉の位置を確認する。
台所は、二人で作業しても窮屈ではない。湊がどこに立てば邪魔にならないかを考える必要もなかった。小鍋を使う時はコンロ側。型を並べる時は作業台の端。洗い物が出たら流しの左側。
湊は影山家の台所を知っている。
「色、これくらい?」
湊が鍋を傾けた。暦は横から覗く。
「まだ。泡が細かくなってから」
「初挑戦なのに厳しいな」
「初挑戦だから、基準を作る」
「責任が重い」
「湊が火を見る」
湊は軽く息を吐いた。笑ったようにも、納得したようにも聞こえる音だった。
「基準から細かいな」
暦は卵白をほぐす。泡立てない。混ぜすぎない。力を入れれば早く進むが、早く進めることが正しい手順ではない。
湊の手元で鍋の中の泡が細かくなり、バターの香りが変わった。
湊が火を弱める。
「そろそろかな?」
「もう少し。止めるのは私」
「じゃあ俺の責任じゃないな」
「焦がしたら湊」
「結局戻ってくる」
暦は返事をしなかった。鍋底の色が淡い琥珀に近づく。焦げではなく、香ばしさになる手前の色。湊が鍋をコンロから外し、暦は用意していた布巾を広げる。
湊はそこへ鍋を置く。
言わなくても、置く場所はずれなかった。
「合格?」
「生地に入れてから判断する」
「厳しいな」
湊が言いながら、棚から小さな濾し器を取った。暦はそれを受け取る。手渡しの角度も、位置も、ほとんどずれない。
こういう時、暦の中で余計な確認は増えない。
誰かと並んで作業する時は、相手の動き、手の位置、使う言葉を測る必要がある。善意でも、意図が読めなければ手順は乱れる。
湊の動作は、いつも正確というわけではない。細部の判断が甘い時もある。けれど、どこで止めればいいかを暦は知っている。
だから、湊と並んでいる時は疲れにくい。
「次は粉?」
「砂糖から」
「はい」
湊は砂糖の器を寄せた。暦が卵白に砂糖を加えると、白い粒が表面に広がり、すぐに沈んでいく。泡立て器を動かす音が、換気扇の低い音に重なった。
「混ぜる?」
「途中から。湊は力が強い」
「そこまでじゃない」
「強い」
湊は反論をやめ、型を並べ始めた。スタンダード用、チョコ入り用、フルーツ入り用。金属の型が作業台に一列ずつ置かれていく。
暦は粉を加えながら、その並びを見た。
「チョコは小さい型。フルーツは別」
「理由は?」
「水分が違う。確認する」
「焼き上がりを見るため?」
「うん」
フィナンシェは、難しい菓子ではない。手順を守れば、家庭でも作れる。けれど、簡単だということと、手順を省いて同じ結果になることは違う。バターの色、粉の混ぜ方、型に入れる量、焼き時間。ひとつずつの差が、風味として表れる。
今日作る分は、影山家と悠木家で食べる。出来がよければ両家に分ける。悪ければ、湊が食べる。
それでも、暦は学園の様子を見た後で作りたかった。
東都院では、菓子を渡すだけでも意味がついてくる。誰に渡したか。誰の前だったか。受け取った側がどう扱ったか。
見ていない顔をしながら、周囲は覚えている。
暦は、バターを濾しながら言った。
「女子同士は、比較的自然だった」
湊が顔を上げる。
「学校の話?」
「バレンタイン」
「ああ」
湊はすぐに続きを急かさなかった。チョコを細かくするための包丁を取り、まな板の上に置く。
「女子同士は、友達同士、委員会、部活。理由を作りやすい」
「男子が絡むと?」
「視線が増えた」
「まあ、そうだろうな」
「受け取るだけでも、注目される」
「俺も?」
暦は粉の残りを落とし、間を置いた。
「見られていた」
「そっか」
「牧瀬さんが参考になった」
湊の包丁が止まった。
「牧瀬さんが?」
「図書委員。クラスメイト。明確な理由に、渡し方も普通」
「普通って、どういう意味で?」
「相手を特別に見せない」
「なるほど」
湊はまたチョコを刻み始めた。音は小さく、包丁の扱いは危なげない。弓道部で道具を扱うせいか、湊は手元を乱暴にしない。ただ、菓子作りの細部では詰めが甘くなる。
「牧瀬さんは丁寧。いろいろと」
湊は小さく笑った。
「暦の感想っぽい」
暦は否定しなかった。牧瀬琴葉の菓子は、派手さではなく、相手が受け取りやすいように作られていた。包みも、量も、言葉も、ちょうどよい場所に置かれている。そういう整え方を、暦は覚えている。
湊が刻んだチョコを小皿に移した。
「九条院さんのは?」
暦は泡立て器を止めた。
長い停止ではない。生地の状態を見るには自然な間だった。
「式典局で配ったものなら、季節の挨拶で通る」
「……通る、か」
「手伝った人へのお礼」
「兵頭ももらってたしな」
「うん」
湊の声は、普段とほとんど変わらなかった。けれど、名前を出す前と後では、意識の向きがわずかに違った。
暦はそれを問い詰めない。
問い詰める理由がない。九条院エリカは、式典局の場で季節の菓子を配った。湊はそれを受け取った。それだけなら、何もおかしくない。東都院ではむしろ、きれいに扱える出来事だった。
おかしいのは、菓子ではない。
湊が、九条院エリカという相手を、一人の人物として記憶し始めていることだった。
暦はその観察結果を、まだ言葉にしない。
「バター、入れる」
「了解」
湊は鍋を持ち、濾した焦がしバターを生地へ細く加えた。暦が混ぜる。生地に油分が入るたび、表面の艶が変わっていく。湊は鍋の傾きを調整しながら、暦の手元を見ていた。
「混ぜる回数、少なくないか」
「多いと重くなる。今回は確認」
「俺なら混ぜすぎるな」
「湊は力が強い」
「さっきも言われた」
「重要」
湊は真面目な顔で頷いた後、型の内側をもう一度確認した。バターを塗った型、紙を敷いた型、何もしない型。試す条件を分けている。暦が言わなくても、湊は同じ種類を混ぜなかった。
スタンダードの生地を型へ流す。
八分目までは入れない。焼くと膨らむ。暦が一つ目を入れると、湊が二つ目を続けた。量は多い。
「多い」
「このくらいじゃないか?」
暦は返事をせず、スプーンを指した。
湊はスプーンで戻した。
暦はチョコ入りの生地を分ける。刻んだチョコを混ぜると、色が落ち着いた。香りが変わる。湊は、冷凍ベリーとオレンジピールを別の皿に出した。
「ベリーの解凍、そろそろいいんじゃないか?」
「水分を取る」
湊は迷わず右の引き出しを開け、キッチンペーパーを折って皿の縁に置いた。
暦は、その動きを見なかった。
会話はそこで途切れた。
沈黙ではなく、作業の時間だった。
オーブンが予熱を終え、短い音を鳴らす。湊が天板を用意し、暦が型を乗せる。スタンダード、チョコ、ベリー、オレンジピール。条件ごとに並びを分ける。
「焼き時間はどうする?」
「最初は同じ。比較する」
「種類が違っても?」
「結果を見る」
湊はオーブンの扉を開けた。熱が顔に当たる。暦が天板を入れる。扉が閉まると、台所の中に一度だけ熱の匂いが広がった。
焼き上がりを待つ間、洗い物を片付ける。
湊は小鍋を流しへ運び、暦は使い終えた器を重ねた。どちらが何を洗うかは決めていない。決めていないのに、手順はだいたい決まっている。
湊が鍋を洗う。暦が軽いものを拭く。型に残った生地を集める。余ったチョコを袋へ戻す。冷凍ベリーの残りは密閉容器へ入れる。
湊は水を止め、鍋を伏せた。暦も、表情を大きく変えないまま、拭き終えた小皿を棚へ戻した。
オーブンの中で、生地が膨らみ始めている。
端はすでに色づき、中央はまだ柔らかい。スタンダードとチョコ入りは、予定に近い。フルーツを混ぜたものは、表面の色づきが少し遅かった。
暦はタイマーを見た。
「予定時間で出す」
「フルーツも?」
「同じ条件で見る」
湊はオーブンの窓を覗いた。
「これはこれで、うまそうだけど」
「まだ食べない」
「まだ何も言ってない」
「焼けたか確認してから」
タイマーが鳴った。
湊がミトンを取る。暦が天板を受ける場所を空ける。オーブンの扉を開けると、バターと焼けた粉の匂いが台所に広がった。
天板の上で、フィナンシェは小さく膨らんでいた。スタンダードは端がきれいに色づき、チョコ入りは濃い。ベリーを入れたものは表面に赤い跡がにじみ、オレンジピールのものは中心が沈み気味だった。
暦は竹串を刺した。
スタンダードは、問題ない。チョコ入りも柔らかいが許容範囲。ベリーは、竹串の先に湿った生地がついた。
湊が覗き込む。
「失敗した?」
「中心が生焼け。焼けているのは端だけ」
「失敗作か。じゃあ、これは俺の担当か」
「中心はだめ」
暦は焼けている端を小さく割り、湊の前に置いた。湊はそれを食べ、間を置いた。
「味は悪くない」
「水分が残った。量、型、焼き時間を変える」
「全部か」
「全部」
暦はスタンダードの一つを網の上へ移した。チョコ入りも隣へ並べる。フルーツ入りだけは別の皿へ置いた。焼けている端を確認する分と、中心まで火が入らなかった分を分けておく。成功したものと同じ皿には置かない。
材料は、まだ残っている。
型も生地も、二回目を試せるだけ残してあった。
「もう一回?」
湊が、フルーツの皿を見て言った。
「うん」
暦はメモを開き、短く書き込んだ。ベリーは水分を取る。量を減らす。型は小さい方へ寄せる。焼き時間は少し延ばす。オレンジピールは刻みを小さくする。
「かなり変えるな」
「中心が残ったから」
「次は俺、何をすればいい?」
「ベリーの水分を取る。さっきは残りすぎた」
「わかった。さっきより念入りにしよう」
湊はキッチンペーパーを新しく取った。先ほどより丁寧に、ベリーを一粒ずつ広げる。暦は残した生地を分け、オレンジピールをさらに細かく刻んだ。
二回目の作業は、一回目より静かだった。
分からなかったものが、少し分かった。失敗したものを前に置くと、次に変える場所は見えやすい。湊も、今度は型へ入れる量を自分で控えた。暦が注意する前に、スプーンで縁をならす。
「これくらい?」
「うん」
「今度は合格?」
「焼いてから」
「手厳しい」
暦は答えず、二回目の天板をオーブンへ入れた。
待つ間、湊は一回目のスタンダードを一つ割った。湯気はもう薄い。端の焼き色は安定していて、焦がしバターの香りも残っている。
「これは成功でいいんじゃないか」
「成功」
「珍しく即答」
「基準にする」
湊は納得したように頷き、残りを網の上へ戻した。
二回目のタイマーが鳴る頃には、台所の匂いが変わっていた。バターの香りの中に、ベリーの酸味とオレンジの甘い香りが混じる。
暦は天板を受け、型の表面を見た。
一回目より、沈みが浅い。ベリーの赤い跡は残っているが、中心は大きく崩れていない。オレンジピールの方も、中央が沈まずに色づいていた。
竹串を刺す。
今度は、湿った生地がついてこなかった。
暦は串の先を見てから、湊の方へ向けた。
「焼けた」
「成功?」
「成功」
声はいつもと同じ低さだった。けれど、串を見せる角度が少しだけ高い。湊には、それが暦なりの自慢に見えた。
湊は、分かりやすく息を吐いた。
「よかった。失敗作全部が俺の担当になるところだった」
「一回目の端は湊」
「そこは残るのか」
「役割」
暦は二回目のフルーツ入りを網へ移した。スタンダード、チョコ、フルーツ。成功したものが並ぶと、台所の上に小さな焼き色の差ができた。
一回目の失敗は、別の皿に残っている。
それも、無駄ではない。どの型がよかったか。どの材料が扱いにくかったか。どのくらい水分を取れば中心まで焼けるか。今日見たことは、次の作業に活かせる。
湊は、焼けたフルーツ入りの一つを見て言った。
「じゃあ、これは記録用だな」
その返事は、当然の作業を確認する時のものだった。
暦は一回目の皿と二回目の網を分けて置いた。状態を見るものと、成功したものと、湊が端だけ食べてもいいもの。
台所には、焦がしバターの匂いがまだ残っていた。




