サンドイッチと昔話
焼き上がったものを種類ごとに分けると、台所の作業台はようやく片づける方向へ向かった。
スタンダードは、焼き色がいちばん揃っている。チョコ入りは端の色がやや濃い。フルーツ入りは、二回目に焼いた分だけを成功した皿へ移した。
一回目のフルーツ入りは、別の皿に残した。中心の沈んだものを昼食に混ぜる必要はない。端の焼け方を確認したあとは、試作の失敗として扱えばいい。
暦は、皿の位置を決めてから手を洗った。
湊も隣で手を洗い、濡れた指をタオルで拭いた。
「昼食にしよう。サンドイッチを出すか」
「うん」
暦は冷蔵庫を開けた。母が言っていた通り、ラップをかけた平皿が二つ入っていた。卵とハム、きゅうりの入ったもの。もう一つは、チキンとレタスを挟んだもの。皿の横には、小さな付箋が貼ってある。
昼食。二人で食べるなら足りる。失敗作は無理に食べないこと。
母の字だった。
暦は付箋を見て、皿を取り出した。
「読まれてる」
湊が横から覗き込んだ。
「おばさん、分かってるな」
「……」
暦は付箋を見たまま、少しだけ眉を寄せた。
「端のほうは食べるから」
「ならいい」
湊は皿を受け取り、リビングへ運んだ。暦はグラスを二つ出し、麦茶を注ぐ。作業台に残ったフィナンシェのうち、成功したものからスタンダードを一つ、チョコ入りを一つ、フルーツ入りを一つだけ選んだ。
昼食にするには多くない。試食として置くには、ちょうどいい数だった。
リビングまで来ると、台所の熱と匂いは少し遠くなった。ローテーブルに皿を並べると、焼き菓子の香りに、サンドイッチの卵ときゅうりの匂いが混じった。
湊はソファの端に座って、手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
暦も隣に座った。間には、グラス一つぶんの空きがある。
湊は卵のサンドイッチを一つ取った。暦はチキンの方を選ぶ。母が作ったものは、切り口がきれいだった。具は多すぎず、パンも湿っていない。
朝、母は出勤前にこれを作ったのだろう。
台所に立つ時間は長くなかったはずだ。仕事の鞄を置き、時計を見ながら、必要な分だけを整えて出ていった。その手順は、暦にもだいたい想像できる。
出勤前の短い時間で、母は必要なものだけを残していった。
それは影山家では珍しいことではなかった。
暦はチキンのサンドイッチを一口食べた。
「うまい」
湊が言った。
「母に伝える」
「それは助かる」
湊は二つ目に手を伸ばした。
暦も麦茶を飲み、皿の上のフィナンシェを見た。
食事の途中で、湊はフィナンシェの皿へ視線を向けた。
「どれからいく?」
「スタンダード」
湊は笑い、スタンダードを半分に割った。冷めてきた生地は、外側が軽く、内側はしっとりしている。割った断面に、焦がしバターの香りが戻った。
暦は半分を受け取った。
口に入れると、焼き立ての勢いは薄れ、バターの香りとアーモンドの甘さが落ち着いて広がった。
「成功」
「味でも確認したな」
チョコ入りは、湊が先に食べた。端の色は濃いが、苦いほどではない。
「これは椿子さんが好きそう」
「たしかに、母さんの好みだな」
暦はフルーツ入りを見た。二回目のものは形が保たれている。赤い跡は残っているが、中心は沈みすぎていない。
湊がそれを割る。
「これは、二回目だけだな」
「一回目は対象外」
フルーツ入りは、ベリーの酸味が少し残り、オレンジの方は甘さの後に皮の香りが来る。成功と呼んでいい。けれど、扱いは難しい。
「次は、量を減らす」
「ベリー?」
「両方。水分が増えるものは、入れすぎない」
湊は、少し考えてから言った。
「昔、砂場で似たことがあったな」
暦は視線だけを上げた。
「城?」
「そう。砂の城」
言われて、暦は記憶を探した。
近所の公園。低いフェンス。砂場の端に置かれた赤いスコップ。冬ではなかった。日差しが強く、砂の表面が乾いていた。
暦より少し年上の子が、砂で城を作っていた。
壁の片側が傾いていた。支えになる砂の量が足りず、上に乗せた湿った塊の重さで、少しずつ内側へ沈んでいた。
そのままなら崩れる。
暦はそう判断した。
「直そうとした」
「それで黙って触ってさ」
「崩れた」
「根本からな」
湊は、責めるでもなく頷いた。
暦は、当時の手の感触を思い出した。砂は思ったより柔らかかった。支えを足すつもりで触れた場所が、先に崩れた。壁が落ち、上の塔も続けて倒れた。
作っていた子は泣いた。
暦は、その時すぐに謝らなかった。
「このままでも崩れた」
「言ったな」
「事実だった」
「たぶん、そうだったろうな」
湊は否定しなかった。
砂の城が崩れそうだったという観察は、間違っていなかった。壁の角度も、砂の乾き方も、暦は覚えている。あのままなら、どこかで崩れた可能性は高い。
けれど、相手にとっては違った。
自分で作った城を、勝手に触られた。しかも、壊された。
暦が先に説明したのは、そこではなかった。
「湊は、怒らなかった」
「怒るほどのこととは、俺も思ってなかったんだろう」
「でも、肯定もしなかった」
「そこは覚えてるのか」
「覚えている」
湊は、フィナンシェの皿から小さな欠けを取った。割った時に出た端だった。
「直す前に聞いた方がいい、って言った気がするな」
「うん」
「自分で作ったものだから、って」
「そう」
暦は麦茶のグラスに指を添えた。
その言葉は、責める声ではなかった。
湊は、暦の見方をおかしいとは言わなかった。崩れそうだったことも、直そうとしたことも、まとめて否定しなかった。
ただ、順番が違うと言った。
直す前に聞く。
相手が自分で作ったものなら、先に聞く。
暦にとって、それは分かりやすい手順だった。
「それから、人のものを触る前に確認するようにした」
「全部?」
「全部ではない。でも、他人の領域に入る時は、先に聞く」
「砂場の城が基準になってるのか」
「なっている」
湊は困ったように笑った。
「それ、俺が言ったことまで手順に入ってるんだな」
「入っている」
暦は、フルーツ入りの断面を見た。沈みかけた中心。水分の多い材料。
これは、自分たちで作ったものだ。
だから、次は量を減らすと決めていい。
砂の城は、そうではなかった。
「今日の失敗は、確認してから直せる」
「自分たちのだからな」
「そう」
湊は、小さな欠けを口に入れた。
「昔の俺はいいこと言ってる」
「今も、たまに言う」
「たまになのか」
「たまに」
湊が笑った。暦も、口元だけを少し動かした。
昼食の皿は空になっていた。試食用のフィナンシェも半分ずつ減っている。残りは、両家に分ける分だ。
暦は食器を重ね、台所へ運んだ。湊も立ち上がって、グラスを持ってくる。洗うのは暦で、拭くのは湊。いつ決まったのか分からない分担だった。
「これなら、三月もフィナンシェでいいな」
湊が布巾を持ちながら言った。
「今日の結果なら、いい」
暦は、皿を洗いながら答えた。
「種類は、今日と同じ?」
「スタンダードとチョコ。フルーツは、量を調整してから」
「牧瀬さんと、九条院さんの分もか」
水の音が一度、会話を切った。
九条院エリカ。
昼食の間、名前は出なかった。出す必要もなかった。けれど、三月に作るものが決まれば、その名前は自然に入ってくる。
「そう」
暦は短く答えた。
湊は布巾を動かす手を止めなかった。
「分かった」
それだけで、話は終わった。
洗い物を終えると、二人は作業台へ戻った。
暦は保存用の容器を出し、成功したものを影山家用と悠木家用に分けた。スタンダードとチョコ入りを偏らないように入れ、数の少ないフルーツ入りは一つずつにする。
一回目の失敗分は、別の容器に避けた。中心の怪しいものを、無理に渡す必要はない。
「俺の担当は?」
湊が失敗分の容器を見た。
「処分する」
「役割が」
「お腹壊したい?」
「わかった。やめとく」
湊はそれだけで納得し、悠木家用の包みを受け取った。袋は派手ではない。家庭内で渡すものなので、形が整っていれば十分だった。
「母さん、喜ぶと思う」
「チョコ入りがある」
湊は笑い、袋を鞄に入れた。潰れない位置を探して、空いている側へ寄せる。その手つきは慎重だった。
時計を見ると、昼を過ぎていた。
長くいたわけではない。朝から準備し、焼き、昼を食べ、片づけただけだ。けれど、台所にはまだ焦がしバターの匂いが残り、リビングのローテーブルには麦茶の跡が薄く残っている。
休日の午後としては、十分だった。
湊はコートを手に取った。
「そろそろ帰る」
「送る」
「玄関まででいい」
「家の前まで」
「近いけど」
「家の前まで」
「はい」
湊は反論しなかった。
暦も上着を羽織り、玄関へ向かった。靴を履く湊の横で、暦は鍵の位置を確認する。家の中には、焼き菓子の匂いが残っている。両親が帰宅すれば、すぐ分かるだろう。
玄関の外へ出ると、冬の空気が頬に触れた。
日差しはあるが、風は冷たい。朝よりは柔らかい。住宅街の道は静かで、遠くで車の音がした。
湊は鞄の紐を肩にかけ直した。
「おばさんに、ごちそうさまでしたって伝えて」
「伝える」
「おじさんにも」
「父は、帰ってから食べる」
「感想、聞いといて」
「聞いておく」
湊は笑って、門の外へ出た。
暦は、家の前で見送った。
湊の家までは遠くない。角を曲がるまでの歩数も、だいたい分かる。途中で振り返る日と、振り返らない日がある。今日は振り返らない方だろうと、暦は思った。
湊は、予想どおり振り返らなかった。
それを寂しいとは思わない。
振り返らなくても、帰る場所を間違えるわけではない。鞄の中には、悠木家用のフィナンシェが入っている。宗一郎と椿子がそれを食べ、影山家では直紀と理沙が帰宅後に食べる。
今年も、その流れは続いている。
暦は、湊の背中が角を曲がるまで見ていた。
湊が見えなくなっても、すぐには中へ戻らなかった。
角を曲がるまでの歩数は、だいたい知っている。振り返らない日があることも、知っている。
だから、今日はそれでよかった。
ただ、昼食の途中で出なかった名前が、洗い物の水音の中で一度だけ混じった。
九条院エリカ。
暦はその名前を、今日の焼き加減や、サンドイッチの具や、昔の砂場の記憶の近くに置いた。
まだ、分類はしない。
玄関の扉を閉める前に、暦はもう一度だけ角の方を見た。
湊の姿は、もう見えなかった。




