委員会
放課後の図書館棟は、授業の終わった教室とは違う静けさを持っていた。
人がいないわけではない。閲覧席には自習を続ける生徒が残り、参考資料室の前では専門事務員が資料箱を台車に載せ替えている。図書委員のカウンターには、返却された本が数冊、背の高さを揃えて置かれていた。
暦は、そのうち二冊の背表紙を見て、予約棚へ移すものと一般図書区画へ戻すものを分けた。
貸出記録は、学生証と本のタグを通してすでに処理されている。暦が見るのは、記録と実際の本がずれていないかだけだった。
暦は、予約棚へ移す二冊を持って、カウンター横の棚へ向かった。
背表紙を外側へ揃えて置く。
最後の一冊を収めたところで、カウンターの奥から牧瀬琴葉が声をかけた。
「影山さん、返却分の確認はそこまでで大丈夫ですよ」
「分かりました」
「資料室の箱は、まだ事務員さんが見ています。式典局へ回す分が出たら、お願いします」
「はい」
琴葉は端末の画面を一度見てから、暦へ視線を戻した。
「そういえば、三月の当番表が掲示されたそうです。新年度分は、まだ仮ですけれど」
「見ておきます」
暦はそう答え、カウンターの横に置いていた鞄を手に取った。
貸出返却の確認は、いつもならそこで一区切りになる。資料室の箱が出るまでには、まだ少し時間があった。図書館棟を出て、新校舎へ戻るか、湊が部活を終える頃合いに合わせるかを決める。今日はその前に、見るものがあった。
新校舎一階の職員室寄りに、委員会掲示板がある。
そこは、普段なら当番表や注意事項が並ぶだけの場所だった。二月下旬になると、掲示板の前で足を緩める生徒が増える。
暦が着いた時には、すでに数人の生徒がいた。
一年生らしい女子が二人、保健委員会の欄を指で追っている。別の男子は、環境美化委員会の引き継ぎ予定を見て、隣の生徒と短く何かを確認していた。掲示板の右端には、生徒会からの連絡がまとめて貼られている。
暦は、左から順に読んだ。
図書委員会。保健委員会。環境美化委員会。体育委員会。風紀委員会。
委員会名の下には、三月中の確認日、引き継ぎ説明、仮当番表の配布予定が並んでいる。個人名はない。どの委員会も、決まった候補者を表に出す前の段階だった。
風紀委員会の欄にも、三月上旬の引き継ぎ説明、行事期間中の集合場所確認、巡回担当時間の仮割り振りが並んでいた。
新年度仮当番表は、該当者に別途連絡。
書かれているのは、業務そのものではない。引き継ぎの時期に必要な予定と、注意点だけだった。
右側の生徒会掲示は、一般委員会のものより紙も印刷も上質だった。
執行部、式典局、会計局、外務交流局、生徒相談局。
ただ並べたのではない順番で、部局名が置かれている。
式典局の欄には、春季晩餐会準備に関する短い連絡が添えられていた。
会場確認。控室表示。来賓対応補助。三月上旬、資料確認。
それだけで、近づいているものがあると分かる。
「生徒会?」
背後から聞き慣れた声がした。
暦は振り返らないまま答えた。
「掲示が増えている」
「うん。足を止める人も増えてるな」
湊は、暦の横に立った。肩が触れない距離で、同じ掲示板を見る。部活終わりのためか、前髪がわずかに乱れていた。
暦は生徒会の欄を指さした。
「部局が多い」
「東都院はそうみたいだな」
暦は、上から順に読み上げた。
「執行部、式典局、会計局、外務交流局、生徒相談局」
「名前だけなら聞いたことはある」
「役割は?」
「そこまで詳しくはないな」
暦は、それ以上は聞かなかった。
湊は苦笑しながら、式典局の小さな連絡欄を見た。春季晩餐会という文字は、前にも見ている。式典局の作業場所で菓子を受け取った日から、その言葉は湊の中で、ただの行事名ではなくなっていた。
まだ、自分が関わる行事ではない。
けれど、無関係と言い切れるほど遠くもない。
そんな距離にある名前だった。
「二月の終わりに、もう三月と新年度の話か」
湊が言うと、暦は掲示板の下段を指した。
「一月から三月は、引き継ぎ」
「書いてある?」
「ここ」
暦が示した先には、生徒会と各委員会の引き継ぎ予定が並んでいた。
正式な名前は、まだ出ていない。けれど、説明会の日付と仮当番表の配布予定だけは、先に決まっている。
表に出る前から、次の形は作られている。
湊は、そういうものなのだろうと思った。
「個人名は、まだない」
「候補は決まってないってことか?」
「決まっていない、とは限らない」
暦はそう言って、掲示をもう一度上から見直した。
湊が何か言う前に、職員室側から教師の声がした。
「影山さん」
暦は振り返った。
湊も一緒に視線を向ける。声をかけたのは、生徒指導担当の教師だった。教師は湊には軽く頷き、暦だけに目を戻した。
「少しいいですか。長くはかかりません」
「はい」
暦は、湊に鞄を預けなかった。持ったまま、職員室近くの壁際へ移動する。
廊下の声は途切れない。掲示板の前にいる生徒も、完全にはいなくならない。だから、教師に呼び止められたこと自体は目立たなかった。
ただ、湊には分かった。
暦の返事が、いつもよりわずかに遅い。
教師は、声を落として話した。
湊の位置からは、全部は聞こえない。聞こえたのは、図書委員、記録、正確、周囲の変化、といった語だけだった。
暦は、相槌を最小限にして聞いている。
表情は変わらない。けれど、視線の置き方が普段と違った。相手の目を見る時間と、壁の掲示へ戻る時間を、細かく分けている。
「二年生から、風紀委員会に推薦したいという話です」
その一文だけは、湊にも届いた。
廊下の音が、遠くなった気がした。
教師は続けた。
「もちろん、決定ではありません。事前の確認です。あなたは図書委員での作業が正確でしたし、記録の扱いも丁寧でした。周囲の変化に気づく点も、先生方の間で評価されています」
暦は、すぐには答えなかった。
困っているようには見えない。嬉しそうにも見えない。断る理由を探している顔でも、受けるための言葉を選んでいる顔でもない。
ただ、渡された情報の置き場所を探しているようだった。
「今、答える必要はありますか」
「いいえ。家で考えてもいいですし、誰かに相談しても構いません。ただ、まだ公には話さないでください」
「分かりました」
「無理にとは言いません。適性があると判断したから、声をかけています」
暦は、小さく頷いた。
「考えます」
答えは、それだけだった。
教師は安心したように頷き、職員室へ戻っていった。
暦は、その場に一拍だけ残った。それから掲示板の前へ戻る。湊は、何を聞いたかをすぐには尋ねなかった。
尋ねなくても、聞こえた。
聞こえたからといって、急がせていい話ではない。
「図書館棟に戻る」
暦が先に言った。
「まだ仕事があるのか?」
「資料室の箱が出る」
「どこへ持っていくんだ?」
「式典局へ回す分」
「分かった」
二人は掲示板の前を離れた。
新校舎から図書館棟へ向かう廊下は、放課後の生徒が多かった。生徒会室へ封筒を持っていく者。職員室前で教師を待つ者。掲示を見て、友人の名前を探そうとして、まだ個人名が出ていないことに気づく者。
暦は、その動きを一度ずつ見た。
湊は、暦が何かを数えているように見える時、邪魔をしないことにしている。
渡り廊下に出ると、人の声が少し遠くなった。窓の向こうには、二月の終わりの光を受けた中庭が見えていた。
「風紀委員、受けた場合に問題はある?」
暦が先に言った。
湊は、歩く速度を落とした。
「問題って?」
「受けるべきか、ではなく。受けた場合に、問題があるか」
「暦らしい聞き方だな」
「変?」
「変じゃない」
湊は、廊下の先を見た。図書館棟の入口には、今日の開館時間と資料整理のお知らせが貼られている。ここにも、掲示がある。東都院では、紙一枚でいろいろなものが変わる。
「向いているとは思う」
「理由は?」
「周りをよく見てる。記録も正確だし、規則を読むのも早い」
暦は頷いた。
「先生と同じ」
「同じことを言ってた?」
「似ている」
「なら、評価としては妥当なんだろうな」
湊はそこで言葉を切った。
暦がこちらを見る。
「でも、それだけで決めなくていい」
「なぜ?」
「風紀委員って、規則を読むだけじゃないだろ。人の違反とかトラブルとか、そういうものも見ることになる」
「今でも見てる」
「うん」
「言うかどうかで変わる?」
「そこは大きな違いになるんじゃないか」
暦は、考えた。
掲示で見た連絡事項は、暦の中ではまだ作業の形をしていた。引き継ぎ説明。集合場所。担当時間。どれも、確認して従えば済むものだった。
湊が気にしているのは、作業の形ではない。
その作業の先にいる人間のほうだった。
「湊は、反対ではない?」
「反対ではないな」
「心配してる?」
「してる」
暦は、そこで足を止めなかった。歩きながら、湊の答えを受け取る。
「私が疲れるから?」
「それもある」
「他は?」
「暦が、便利に使えるから選ばれているなら、嫌だな」
暦の視線が、湊へ向いた。
湊は、自分の言葉が強かったことに気づいた。
「悪い。先生がそういう意味で言ったとは思ってない。正当に評価されたんだと思う。そこは、俺も分かる」
「うん」
「でも、正確だから任せる、間違えないから任せる、気づくから任せるって、続くと疲れるだろ」
「疲れるかどうかは、やってみないと分からない」
「それはそうだけど」
「断る理由にはならない」
「ならないかもしれない」
湊は、図書館棟のガラス扉に映った自分たちを見た。
暦はいつも通りに見える。制服の襟も、鞄の持ち方も、歩く速さも乱れていない。
けれど、いつも通りに見えることは、いつも通りであることの証明にはならない。
「受けたいのか?」
湊が尋ねると、暦はすぐには答えなかった。
「まだ、分からない」
「うん」
「ただ、断る理由も、まだない」
「じゃあ、考えるでいいと思う」
「先生にも、そう言った」
「聞こえてた」
「聞いてた?」
「違う。聞こえた」
暦は、それを咎めなかった。
図書館棟の入口近くで、連絡係らしい生徒が封筒を抱えて急ぎ足に通り過ぎた。封筒の表には、評議会提出控え、と小さく印字されている。
その後ろから、別の生徒の声が聞こえた。
「式典局の承認回り、今日の分は旧校舎に持っていくって」
「先に確認がいるんだろ」
声はすぐに遠ざかった。
湊は、そちらを見た。
暦も見ていた。
掲示板ではただの組織名だったものが、廊下の声の中で、実際に運ばれる紙と結びつき始めている。
暦は、封筒を持った生徒の背中が角を曲がるまで見ていた。
「考える」
「風紀委員のこと?」
「うん」
「分かった」
湊は、それ以上は言わなかった。
受けるかどうかより、暦が判断する前に自分へ尋ねたことを、湊は意識していた。
暦は、湊が反対ではないことを受け取った。心配していることも、同じ場所に置いた。そのまま、まだ答えを出さないでいる。
それでいいのだと思った。
図書館棟の扉が開き、中から暖かい空気が流れてくる。
カウンターの奥では、事務員が資料箱の蓋を閉じていた。
二人は、同じ歩幅で中へ入った。




