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東都院物語  作者: 橘鉄真
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19/61

評議会

図書館棟に入ると、廊下で聞こえていた足音は一段遠くなった。

暖房の効いた空気に紙と古い革の匂いが混じっている。閲覧席にはまだ生徒が残っていたが、放課後の図書館は授業中よりも静かだった。頁をめくる音、貸出端末の小さな確認音、奥の資料室で箱を動かす音が広い天井の下で薄く重なっている。

暦はカウンター脇で立ち止まり事務員へ短く頭を下げた。


「影山さん、式典局から依頼のあった資料ですが、奥にまとめてあります」

「春季晩餐会の分ですね」

「ええ。前年の控室配置表と来賓対応記録です。確認を済ませて、今日のうちに貸し出します」

「はい」


暦は返事をしてカウンターの内側へ回った。

図書委員の仕事は本の貸出と返却だけではない。少なくとも東都院ではそうだった。書架の奥には一般の生徒が入らない資料室があり、学園史や過去行事の記録、来賓名簿の控え、古い式次第の写しなどが箱単位で管理されている。

式典局や生徒会が過去の行事記録を使う時は、図書館棟で該当資料を確認して必要な分だけ貸し出す。今日の作業もその一つだった。

湊はそのすべてを詳しく知っているわけではない。

ただ、暦が慣れた手つきで箱の番号を見て、事務員と同じ速度で話を進めているのを見ていると、ここが単なる読書の場所ではないことは分かった。

湊はカウンターの外で待った。

暦の邪魔にならない場所に立っていると返却本の入った小さな台車が目に入った。棚番号の札が何枚か貼られている。


「何か、手伝えることありますか」


湊が尋ねると事務員は一度だけ暦の方を見た。

暦は資料室の入口でこちらを見ずに言った。


「一般図書なので手伝わせても大丈夫です」

「では、お願いします」


事務員が台車を示した。


「一般図書区画の返却分です。棚番号は貼ってありますから、急がなくて構いません」

「分かりました」


湊は台車を受け取った。

図書委員ではない湊が手伝えることは限られている。端末を触る作業や資料室の鍵が必要な作業には入れない。だから、できるのは返却本を棚の近くまで運ぶことと、暦が選んだ保管資料の箱をカウンター脇へ移すことくらいだった。

暦は迷わなかった。

ラベルを読み、リストと照らし合わせて必要なものだけを抜き出す。速いというより止まらない。ひとつの動作が終わる前に次に見る場所が決まっている。


「その束、左」

「これ?」

「違う。式次第。薄い方」


湊が手を伸ばす前に暦の指先が小さく動いた。

湊は薄い綴じ資料を取り直した。表紙には、前年の春季晩餐会記録と細い字で印字されている。


「これでいい?」

「うん。前年の控室配置の確認用」

「表示?」

「来賓控室。番号と部屋名。去年のものと今年の案を合わせる」


暦はそこまで言って別の紙へ視線を落とした。

説明は短い。湊が分からない部分だけ埋めてすぐ手元へ戻る。暦にとっては作業の全体像より、いま必要な紙がどれかの方が重要らしい。

湊は綴じ資料をカウンター脇へ運んだ。

暦が選んだ資料はそこで一冊のパイプファイルにまとめられていった。

事務員が確認票に印をつける。


「影山さん、式典局から依頼のあった資料はこれで揃いました」


暦は頷いた。


「持っていきます」

「お願いします。式典局の方でも今年の控室案と照らし合わせたいそうですから」


湊は封筒と資料を見た。

それほど重いわけではない。けれど量はある。紙の資料はまとめても、見た目より扱いにくい。


「持つよ」


暦が湊を見た。


「湊は図書委員じゃない」

「でも、今は手伝ってる」

「それはそう」


暦は資料の表紙を閉じた。


「一緒に行く」

「分かった」


事務員が二人のやり取りを聞いて小さく笑った。


「式典局の作業場所は新校舎側の会議室です。届け先だけ間違えないようにしてください」

「はい」


暦が封筒を持つ。湊は資料を抱えた。

図書館棟を出ると廊下の空気は冷えていた。寒いというほどではない。渡り廊下に外の風は入ってこない。窓の向こうでは冬の光が校舎の白い壁に薄く残っている。

湊と暦は新校舎側へ歩いた。

放課後の廊下には普段の帰宅の流れとは違う動きがあった。教室へ戻る生徒、講堂方面へ向かう生徒、封筒を持って旧校舎側へ曲がる生徒。声は抑えられているが、誰も完全には止まっていない。

行事前の東都院は静かなまま動く。

湊はその感覚に慣れてきていた。


「式典局って、いつもここで作業してるのか?」

「時期による」


暦は前を見たまま答えた。


「今は春季晩餐会があるから、講堂と旧校舎に近い部屋を使うことが多い」

「詳しいな」

「貸し出し先だから」

「なるほど」


暦はそれ以上は言わなかった。

新校舎側の会議室は扉が開け放たれていた。

中には長机がいくつも並べられている。机の上には控室表示の案、席次の下書き、来賓対応の確認表が重ねて置かれていた。壁際には折り畳み式の案内板が立てかけられ、隅の箱には差し替え用の表示板がまとめられている。

作業場所に残っている生徒は二人だけだった。

ひとりは九条院エリカだった。

淡い金色の髪は控えめに後ろで留められている。制服の着方に乱れはなく、長机の前に立つ姿勢だけでこの場所に馴染んで見えた。

もうひとりは御厨紗良だった。紗良はエリカの隣で紙面を見ている。

紗良は湊と暦に気づくと手元の紙を置いた。


「図書館棟からですね。こちらへお願いします」


言い方は柔らかいが、受け取る場所は迷っていない。紗良は空いた机を一つ示し、そこに置く順番まで目で見ていた。

暦が封筒を差し出す。


「式典局から依頼のあった資料です。過去行事記録、前年の控室配置表、来賓対応記録になります」

「ありがとうございます。確認しますね」


紗良が封筒の行き先を読み中の束を軽く見た。


「式典局依頼分、受け取りました。エリカ、前年の控室配置表はこちらよ」


エリカが振り返った。


「ありがとうございます。図書館棟からですと距離がありますのに」


その言葉は、丁寧すぎなかった。湊は前に講堂近くで会った時のエリカを思い出した。入るべきではない場所に入りかけた湊へ彼女は角が立たないように声をかけた。

今日も彼女は変わらなかった。


「俺は手伝っただけですから」


湊が言うとエリカは小さく首を振った。


「それでも、こういう時に手を貸していただけると、こちらだけでは揃えにくい記録まで確認できます」

「前年の控室配置表を、今年の案と見比べるわ」


紗良が綴じ資料を開いた。


「控室名は去年のまま使えるわね。だけど、今年は控室から講堂へ移る順番が変わるから」


紗良は前年の配置表と、今年の案を見比べた。


「西側控室前で二組の来賓が重なる時間があるから、講堂へ向かう案内表示は分けた方がいいと思う。評議会へ出す資料はこの三点ね」


エリカは頷き別の綴りを手元へ寄せた。


「西側控室前の案内表示と、講堂前で来賓の方にお待ちいただく位置。変更点は二か所ですね」

「そうね。承認用の本紙はこちらに。説明に使う記録も一緒にしておきましょう」


紗良の指先が用紙の下部で止まった。

湊からもそこだけは見えた。

式典局、接遇礼法班、担当教員。それぞれの確認欄が並び、その下に評議会承認欄がある。

空白だった。


「今日中に出します」


エリカは必要な分だけを抜き出した。


「エリカが行くの?」


紗良が尋ねる。


「ええ。変更理由を聞かれた時に、私から説明した方が早いと思います」


紗良は手元の本紙と机の上の資料を見比べた。

反対しているわけではない。必要なものを見直しているだけだった。


「なら、承認用の本紙はこの三枚ね。説明用に、去年の記録と控室別の来賓対応表を持っていって」


紗良は机の端に置かれた、説明用の資料を二冊寄せた。厚手のパイプファイルに綴じられている。


「これは説明用ね。聞かれた時に開けられるようにしておいた方がいいと思う。説明が終わったら持ち帰って」

「ええ、分かりました」


エリカは本紙を薄いクリアファイルに入れ説明用の資料を重ねて抱えた。

承認をもらう紙そのものは数枚だった。けれど説明のための記録まで加わると、片手で扱うには少し多い。

その量を見て、湊は思わず声をかけた。


「運ぶなら、手伝います」


暦が湊を見た。

エリカも意外そうに湊を見た。


「いえ、そこまでしていただくのは」

「旧校舎ですよね。途中まで行くので」


正確には用事があるわけではない。

けれどこの部屋に残っているのはエリカと紗良だけだった。承認を受ける本紙は数枚でも説明用の資料が複数あれば手はふさがる。紗良がここを空けるわけにもいかない。

紗良が資料を見てからエリカへ視線を戻した。


「エリカ、お願いした方がいいんじゃないかしら。説明前にファイルを落とす方が困るでしょう」

「……そうですね」


エリカは表情を緩めた。


「では、悠木さん。お願いします」

「はい」


湊は説明用の資料を二冊受け取った。エリカは承認用の本紙を入れた薄いファイルと説明用の控えを持つ。

暦は空いた手で図書館棟の貸出控えを見ていた。


「暦はどうする?」


湊が聞くと、暦は顔を上げた。


「同行する」

「図書委員の仕事は?」

「図書館棟の資料も、評議会室で使う。そこまで確認する」


暦の答えは、事務的だった。

ただその視線は一度湊の手元に移った。湊がエリカの資料を持っていることを確認し、次にエリカを見て、それから何も言わずに歩き出す。湊は暦が言わなかったことを意識した。

旧校舎へ向かう廊下は新校舎側より人が少なかった。

壁の色も床の光り方も違う。新校舎の明るさに比べて旧校舎は沈んだ艶がある。古い木製の扉には部屋札があり、来賓室、応接室といった文字が教室名より重く見えた。

エリカは歩く速度を落とさなかった。

資料を抱えていても姿勢が崩れない。無理をしているのではなく崩さないことに慣れている。湊は自分の持っている分を持ち直した。


「評議会室って、旧校舎にあるんですね」


湊が言うとエリカはこちらを見た。


「はい。旧校舎にあります。正式な会議でない時も、承認が必要なものはこちらへ回ります」

「式典局で決めるわけじゃないんですか」

「式典局で案を作ります。実際に動くのも、こちらです」


エリカは手元の薄いファイルを持ち直した。


「ただ、来賓の方の移動や待機位置に関わる変更は、評議会の確認が必要になります」

「評議会」


湊は口の中で繰り返した。

横で暦が黙っている。

湊は掲示板の前で見た組織図を思い出した。生徒会。式典局。評議会。風紀委員会。名前だけなら、どれも学校の組織だった。

紙が動くと、違って見える。

案を作る場所と、承認する場所が分かれている。

実際に動く人と、最後に印を入れる人が違う。

旧校舎の廊下を曲がると評議会室の扉が見えた。

扉の前では上級生らしい生徒が一人、手元の紙を見ながら中から出てきたところだった。エリカに気づいて足を止める。

エリカが会釈をした。


「式典局の承認資料です。御堂先輩に確認をお願いします」

「分かりました。少しお待ちください」


上級生は扉を開け、中へ軽く声をかけた。

評議会室に入ると、まず会議室を兼ねた資料室があった。

大きな机の周りに評議員らしい生徒が数人いる。机上に出ているのはいま使っている分だけだった。壁面の書庫には部活動予算、行事記録、委員会報告の背表紙がきちんと並んでいる。資料は必要な時にだけ出され、終われば元の場所へ戻されるのだろうと分かった。

その中に一年生らしい評議員の姿もあった。

彼は机上の資料から顔を上げ、エリカと湊たちを見た。何かを言う前に、上級生が奥の扉へ向かった。

会議室の奥に、もう一つ扉がある。

上級生は奥の扉を軽く叩き、内側へ声をかけた。


「御堂先輩、式典局の承認資料です」


短い返事があり扉が開いた。

奥の部屋は前の会議室よりさらに静かだった。

御堂有紀也は、机の向こう側に立っていた。

湊も、その名前は知っていた。

評議会の上級生。教師からも生徒からも信頼の篤い人物。

実際に見ると、想像より柔らかい印象だった。

机の向こうにいても距離を作りすぎる立ち方ではなかった。声をかける前から相手を待たせないよう先に目線を上げている。


「九条院さん」


御堂は穏やかに言った。


「説明をお願いします」

「はい」


エリカは湊から資料を受け取り机の上に順番に置いた。承認用の本紙だけをいちばん上に重ねる。


「春季晩餐会の来賓対応に関する変更です。西側控室前の案内表示と、来賓の方の一時待機位置について、変更点が二か所あります」


御堂は紙面へ視線を落とした。


「春季晩餐会の来賓対応ですね。変更点は、西側控室前の案内表示と、講堂前で来賓の方にお待ちいただく位置」

「はい。昨年の控室配置を確認したところ、今年は控室から講堂へ移る順番が変わるため西側控室前に二組が同時に出る時間があります。講堂へ向かう案内表示を分け、来賓の方にお待ちいただく位置を講堂寄りへ寄せるよう変更します」


エリカの説明は、長くなかった。

相手を説得するというより必要な場所だけを正確に示している。御堂は途中で遮らず紙面を追った。


「去年の記録はありますか」

「はい。控室別の来賓対応表も持っています」

「風紀委員会への連絡分は」


エリカは別の紙を差し出した。


「講堂前の来賓待機位置だけ、抜き出しています」


御堂はそれを受け取った。

湊は二人のやり取りを黙って見ていた。

御堂は現場を動かす側にはいなかった。

けれどエリカが持ってきた書類は、御堂の確認を受けて次へ進む。


「確認しました」


御堂は承認欄へ視線を移した。


「この内容で問題ありません。西側控室前の案内表示と来賓待機位置の変更は、接遇補助と風紀委員会へまとめて回してください」

「承知しました」


エリカが頭を下げる。御堂は承認印を押し、本紙を返した。


「九条院さんの説明で確認できました。このまま次の確認へ進めてください」

「ありがとうございます」

「それから」


御堂の視線が、湊と暦へ移った。強く見られたわけではない。ただ誰がここにいるのかをひとつずつ確かめられた気がした。


「図書館棟からの資料でしたね。手伝い、ご苦労さまです」


暦が先に頭を下げた。


「影山暦です。図書館棟の資料が評議会室で使われることを確認しました」

「影山さん」


御堂は名前を繰り返した。


「正確に管理されていると、こちらでも扱いやすいです。図書館棟の記録は、行事前になると動きが増えますから」

「はい」


暦の返事は短かった。

湊も頭を下げる。


「悠木湊です。運んだだけです」

「それも必要なことです」


御堂は淡く笑った。


「必要なものが必要な順で届くというのは大事なことです。それだけで差し戻しは減ります」


その言い方は、優しかった。けれど湊は引っかかった。

褒められたのは、自分たちというより、紙が正しく届いたことのように聞こえた。

もちろん御堂がそういう意味で言ったのではないことは分かる。行事の準備では紙が遅れれば人が困る。順番が崩れれば作業が止まる。

それでも湊の中に残ったのは別の感覚だった。

ここでは、人も紙も置かれる場所が決まっている。御堂は、それが乱れないように見ているように思えた。


「では、このまま細部の確認へ回ります」


エリカが本紙と説明用の資料を抱え直した。湊はまた手伝おうと手を伸ばした。エリカは一瞬だけ迷いそれから資料を湊へ分けた。


「ありがとうございます。もう少しだけお願いします」

「はい」


暦は二人を見ていた。何かを言うわけでもなく、湊とエリカのやり取りを覚えている。

奥の部屋を出ると、前の会議室兼資料室に戻った。大きな机の周りにはさっきと同じように数人の評議員がいた。

先ほどの一年生の評議員が承認印の入った本紙に視線を落とす。

エリカは、その生徒の前に資料を置いた。

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