承認後のやりとり
エリカが資料を置くと、評議員の一人が承認印を確認した。
赤い印は、本紙の右上にきちんと収まっていた。
それだけで紙の扱いが変わるらしい。さっきまで確認を待っていた資料が、いまは次に回してよいものとして、机の上に置かれている。
湊には、紙そのものが重くなったように見えた。
その評議員は、黒髪を短く整えた男子生徒だった。制服にも乱れがない。目立とうとしているわけではない。資料へ目を落としている姿も、この部屋では当たり前の一部として受け止められていた。
高等部一年A組、榊原叡志。湊も名前だけなら聞いたことがあった。
一年生の評議員は多くない。直接話したことはないが、その名前が評議会の中で聞くものだということくらいは知っている。
「春季晩餐会の来賓対応に関する確認です」
エリカの声は、式典局の作業室で聞いた時より硬い。緊張しているというより、場所に合わせて言葉を変えている。
「西側控室前の案内表示と、来賓の方の一時待機位置について、掲示用と内部控えの分け方を確認します」
男子生徒は頷いた。
「来賓関係ですね。確認しましょう」
榊原は立ち上がり、席を移った。
大きく動いたわけではない。ただ、机の端に置かれた資料の前へ移っただけだった。それでも、そこが確認の場所になった。
湊は、資料束を抱えたまま一歩下がった。
エリカは本紙を榊原の前へ向ける。その動きに無駄はなかった。資料を見せる時、指先で押さえる位置も、相手が読みやすい角度も、最初から決まっているようだった。
「確認していただきたい点は二つです。こちらが西側控室前の案内表示、こちらが来賓の方の一時待機位置です」
「控室から講堂へ移る順番と、待機位置ですね」
「はい。部屋の割り当て自体は変えていません」
榊原は本紙を見たあと、説明用の別紙へ視線を移した。
「では、部屋割りはそのままで、掲示用の案内表記だけを変える形ですね。内部控えとは分けますか」
「そのつもりです。内部控えは現行の情報を残します。来賓の方に見える札だけ、表記を柔らかくしたいのですが」
「どのような表記を想定していますか」
エリカは案内表示の案を指で示した。
「西側控室前で二組の来賓の方が同時に出られる時間があります。講堂へ向かう方と、控室前で少しお待ちいただく方が分かるよう、表示を分けます」
「なるほど」
榊原はすぐに頷かなかった。
確認してから、一拍置いて返す。
「内部控えでは、控室と順番が分かるほうがいい。ですが、掲示は来賓の方が見るものです。掲示用では、講堂へ進む方と、一度お待ちいただく方が迷わない表記にしましょう」
「ありがとうございます」
「ただ、式典局内の控え資料には、控室番号と移動順が分かる形で残してください。来賓の方に見せる表記と、内部で確認する表記は、役割が違いますから」
「はい。内部資料には、その形で残します」
二人のやり取りは、速すぎなかった。
けれど、湊には入る隙がなかった。
言葉は難しくない。控室前の案内をどう分けるか。来賓の方にどこでお待ちいただくか。そういう話なら、意味だけは追える。
それでも、自分がそこへ口を出せるとは思えなかった。
榊原は、承認された範囲を確かめている。
エリカは、その範囲の中で、当日そこに来る人の受け取り方を考えている。
同じ紙を前にして、二人は別のことを確かめていた。
それでも、会話はずれない。
「一時待機位置は、こちらですね」
榊原が次の紙を引いた。
「はい。講堂前ではなく、講堂寄りの通路側へ寄せます」
「西側控室前に残る人数を減らすためですね」
「はい。控室前で流れが重ならないようにします。講堂入口の前に寄せすぎると、入場を急かしているように見えますので」
エリカはそこで、言葉を選んだ。
「ですから、講堂へ向かう途中で、少しだけお待ちいただける位置にします。案内表示も、そこで止まれることが分かるようにします」
「では、内部控えでは『講堂寄り一時待機位置』、掲示用ではもう少し柔らかくしたほうがいいですね」
榊原は鉛筆を取り、別紙の余白に短く書き込んだ。
「『講堂前ご案内位置』ではどうですか」
エリカは紙面を見て、表情を崩さずに頷いた。
「それなら、式典局側でも使えます」
周囲の評議員は、特に驚かなかった。
榊原が確認することも、エリカがそれに応じることも、そこで二人が並んで紙を見ることも、最初からそうなると分かっていたように受け止められている。
湊は、その反応の薄さのほうに目が止まった。
誰も、九条院エリカが評議員の榊原と並んで細部を話していることを不思議に思っていない。榊原が上から決め、エリカが従っているわけでもない。エリカが場を動かし、榊原が合わせているわけでもない。
二人が同じ机の前に並んでも、誰もそれを止めない。
それはたぶん、許可というより、最初から不自然ではない配置だった。
湊は抱えている資料の角を指で押さえ直した。
紙束に触れるだけでも、会話とは関係のない音が立ちそうだった。だから、余計な動きはしない。
暦は、湊の半歩後ろにいた。
その視線が、短く湊の手元へ落ちた。それから榊原とエリカへ戻る。
暦は何も言わない。言わないまま、いま湊がどこを見たのかを覚えているようだった。
「掲示は、控室前の案内と、講堂寄りの待機位置で分ける形ですね」
榊原が確認した。
「はい。控室前には講堂へ向かう表示を、講堂寄りにはお待ちいただく位置が分かる表示を置きます」
「では、内部控えにもその区別を残した方がよさそうです。控室前の案内と、待機位置の表示が混ざらないほうがいい」
「分かりました」
エリカは、すぐに控えの紙へ記した。
その横顔は、湊が廊下で初めて見た時より近かった。
淡い髪は丁寧に留められている。視線は紙面に落ちていて、口元は穏やかだった。きれいだと思う前に、きちんとしている、と思った。
姿勢、声、紙の出し方、相手の言葉を受ける間合い。その全部が、見られている。
エリカはそれを知っている。榊原も知っている。
湊は、知ったばかりだった。
「九条院さん」
榊原が、書き込みを終えた紙を戻した。
「この二点であれば、承認された内容には触れません。掲示用と内部控えを分ける扱いで進めてよいと思います」
「ありがとうございます。式典局へ戻り次第、修正版を作成します」
「確認用の写しを、こちらへ一部いただけますか」
「はい。夕方までにお届けします」
「急がせる形になりますね」
「当日近くに手を入れるより、そのほうが式典局でも動きやすいです」
エリカが柔らかく返すと、榊原はほんのわずかに笑った。
「では、お願いします」
それで話は終わった。
終わったことも、誰かが宣言するわけではなかった。榊原が資料を揃え、エリカが本紙を戻し、評議員の一人が別の束を机の端へ寄せる。その流れだけで、次に何をすればいいのかが決まっていく。
湊は、エリカの持ち上げた資料の量を見て、無言で手を出した。
エリカは一度だけ湊を見た。さっきより迷いは少なかった。
「こちらをお願いします」
「はい」
渡された資料は、思ったより重かった。
紙の重さだけではない。承認印の入った本紙、別に作る掲示用、夕方までに戻す確認用の写し。そういうものが、まとめて腕に乗った気がした。
「影山さん」
榊原が暦へ視線を向けた。
「図書館棟の資料は、確認後に評議会側で返却します。終わり次第、こちらから連絡を入れます」
暦は短く頷いた。
「分かりました」
榊原は丁寧だった。暦の短い返答にも、思うところはないようだった。湊は、そこにも引っかかった。
榊原は、誰に対しても乱れない。エリカに対しては並び、暦に対しては必要な確認をし、湊には判断を求めない。
それが冷たいわけではない。ただ、正確だった。
湊は、自分の立つ場所がはっきりした気がした。
資料を運び、会話を聞いている人。
それ以上ではない。
「悠木さん」
エリカに呼ばれて、湊は顔を上げた。
「式典局まで、もう少しお願いします」
「はい」
湊は資料を持ち直した。榊原はもう、別の資料へ目を戻していた。
会議室兼資料室を出る時、湊は一度だけ振り返った。榊原はすでに、別の評議員と次の確認に入っていた。机の上にはいくつもの紙があり、それぞれに置かれる場所がある。誰かが声を荒げることもなく、順番だけが静かに進んでいく。
エリカは廊下へ出ると、抱えた資料を胸の前で抱え直した。
「お待たせしました」
「大丈夫です」と湊は返した。
旧校舎の廊下は、午後の光が薄く入っていた。窓枠の影が床に落ち、磨かれた板の上で細く伸びている。
さっき通った時と同じ廊下なのに、帰りは違って見えた。
承認された紙を持っているからか。榊原とエリカが並んだ姿を見たからか。自分がその会話の外にいたことを、ようやく言葉にできそうになったからか。
湊には分からなかった。式典局へ戻るまでの距離が、来た時より長く感じられた。
暦は隣を歩きながら、何も言わなかった。
その沈黙が、いまはありがたかった。




