公爵令嬢が去ったあとで
旧校舎を出るころには、午後の光が少し傾き始めていた。
行きに通った廊下なのに、戻る時には足音の聞こえ方が違っていた。
エリカは承認済みの書類を抱え、歩調を崩さずに進んでいた。資料の角はきちんと揃っている。抱え方にも無理がなく、急いでいるのに急いで見えない。
湊は、その後ろを歩いた。
手元の資料は、来た時と同じ枚数のままだったが、湊は持ち方を改めていた。
暦は隣にいる。何かを言うでもなく、湊の歩幅に合わせてついてきていた。
廊下の曲がり角を抜けると、新校舎側へ続く渡り廊下が見えた。旧校舎の静けさから離れるにつれて、遠くに生徒の声が混じる。誰かが扉を閉める音。上履きが床を擦る音。午後の校内が、少しずつ普段の東都院へ戻っていく。
「重くありませんか」
前を歩くエリカが、振り返りすぎない角度で尋ねた。
「大丈夫です」
湊が答えると、エリカは小さくうなずいた。
「ありがとうございます。式典局まで戻せば、あとは紗良さんが進めてくださいます」
「御厨さんが」
湊は、思わず名前を返した。
エリカの横顔が、ほんのわずかに和らいだ。
「はい。紗良さんは、こういう時に一番頼りになりますから」
その言い方には、友人を褒める親しさと、実務を任せる確かさが混ざっていた。
湊は、それ以上は聞かなかった。
御厨紗良という名前は、もう何度か聞いている。式典局で、エリカの近くに自然にいた少女。人の間に立っても、場を重くしない人。
榊原とは違う。
そう思ってから、湊は自分の考えを改めた。
違うのは能力ではない。人を見る時に、何を先に置くかだった。
生徒会室のある一角へ近づくと、廊下の空気が変わった。
教室棟のざわめきから少し離れ、掲示板には会議予定と行事連絡が並んでいる。紙の端は揃えられ、古い掲示の上に新しい紙が重ならないよう貼られていた。
式典局の作業場所の扉は、半分だけ開いていた。
中から、紙をめくる音と、低い声が聞こえる。慌ただしいというほどではない。だが、人が動いている気配はある。
エリカが扉の前で足を止めた。
「失礼します」
その声で、中の会話が自然に区切れた。
湊は、抱えていた資料を持ち直しながら室内へ入った。
先に目に入ったのは、鷹司澄礼だった。
澄礼は窓に近い席に座っていた。
艶のある長い黒髪は、肩の後ろへ自然に流されている。切れ長の目元は静かで、装いに目立つものはない。制服の線はきれいに収まり、椅子に座っているだけで、そこだけ空気が引き締まって見えた。
机の上には式典局の資料が置かれているが、彼女の手元にはない。膝の上で両手を揃え、作業に加わるでもなく、作業から離れすぎるでもない位置にいる。
湊も、その名前は知っていた。
鷹司澄礼。高等部一年の公爵家令嬢。東都院の中でも、名前を聞けばたいていの生徒が言葉を選ぶ相手だった。
澄礼は、評議会や式典局の実務に携わる人ではない。けれど、公式行事の場に彼女がいるだけで、その重さが変わる。
室内には、一条寺継人もいた。
彼は澄礼の少し離れた位置に立ち、手元の資料を閉じている。制服に目立つ乱れはない。ただ、机に広げられた資料へすぐ手を伸ばすというより、澄礼との確認が終わるのを待っているように見えた。
御厨紗良は、机の上に広げた一覧表へ片手を置いていた。筆記具は持っているが、今は書き込んでいない。
「お帰りなさい、エリカ。影山さんと悠木さんも」
紗良が、エリカへ軽く目を向ける。
「承認の報告は、後で聞くね。今は鷹司さんの確認が先だから」
「はい」
エリカは短く答え、湊へ視線だけで机の端を示した。
湊は資料をそこへ下ろした。
紙が机に乗る音が、思ったよりはっきり響いた。
紗良が、一覧表へ視線を戻した。
「鷹司さんには、当日はご挨拶の前後だけ控室前を通っていただく形で考えています。お待ちいただく場所は、講堂寄りに寄せます」
澄礼は静かに聞いていた。
机の上に置かれた資料へ手を伸ばすことはない。けれど、紗良の説明が終わるまで、視線を外すこともなかった。
「それで、よろしいかと」
澄礼の声は大きくない。
けれど、その一言で、室内の確認は十分だった。誰かがさらに説明を重ねる必要はない。紗良は一覧表の一箇所へ印をつけ、エリカは黙ってそのやり取りを見ている。
「では、こちらで進めます」
「お願いします」
澄礼はそれだけ言うと、席を立った。
立ち上がる動作にも音が少ない。椅子を引く時も、制服の裾を直す時も、急ぎはない。けれど、用の済んだ場所に居座る様子もなかった。
一条寺が一歩下がる。紗良も筆記具を置き、軽く会釈した。エリカもそれに倣う。
湊は一拍遅れて、頭を下げた。
澄礼は廊下へ出る前に、一度だけ室内へ視線を戻した。
「控室が落ち着いている方が、来賓は安心なさいます」
その言葉は、誰かへの指示ではなかった。
それでも、部屋に残る人たちが次に扱うべきものを、静かに決めていった。
澄礼が退出すると、扉の向こうの足音はすぐに遠ざかった。
室内の空気が動く。
緊張が解けたというより、止まっていた作業がもう一度流れ始めたようだった。
紗良は一覧表を手元へ戻し、エリカへ向き直った。
「それじゃ、承認の報告を聞かせて。通った?」
「はい。評議会側との確認も済んでいます。表記だけ、一部直します」
エリカは承認済みの資料を机の中央へ寄せた。紗良は承認欄を確認し、すぐに別の一覧へ視線を移す。
「西側控室前の案内表示と、来賓の方の待機位置ね」
「はい。講堂へ向かう流れを二つに分けます。こちらが修正後の案です」
エリカが指先で紙の位置を示す。紗良は一度だけうなずき、赤い付箋を貼った。
「これなら印刷前に差し替えられる。番号札は現行のままで大丈夫?」
「番号札はそのままです。控室の名称は変えません」
「分かった。それなら、案内表示だけ更新するね」
二人の会話は短かった。
短いのに、足りないものがない。紗良の声はエリカに向ける時だけ少し砕ける。それでも、受け渡される情報は正確だった。
湊は、手を離した資料の上に視線を落とした。
同じ資料なのに、評議会の部屋にあった時とは別のものに見える。承認される場所と、動かす場所。その違いが、机の高さや人の立ち位置で分かれていた。
「九条院さん」
一条寺が、控えめに声を挟んだ。
紗良とエリカの確認が途切れるのを待っていたのだと、湊にも分かった。
「接遇の方は、僕が出ても構いません」
一条寺の声は丁寧だった。
不満を言っているわけではない。ただ、自分の位置を確認するための言葉だった。
紗良は筆記具を置かずに、顔だけを上げた。
「一条寺さんには、当日も控室側をお願いしたいです」
「控室側、ですか」
「はい。来賓の方が講堂へ移られる前に、控室前で来賓の方の流れが重なります。そこを受け持っていただけると助かります」
一条寺は、すぐには返事をしなかった。
怒っているようには見えない。失礼な態度でもない。ただ、言われた役割が、自分の想定していたものと違ったのだと分かる間があった。
「表の対応ではなく、控室側ですね」
その言い方に、わずかな硬さが混じった。
エリカは紙から目を上げた。
「控室側の動きが滞ると、表の接遇にも響きます」
一条寺はエリカを見た。
エリカは続けた。
「来賓の方にとっては、講堂でお迎えする時だけが接遇ではありません。控室でお待ちいただく間も、会場へ移られる時も、同じ行事の中です」
言葉は穏やかだった。
一条寺を軽く扱っているわけでもなく、表へ出るなと言っているわけでもない。しかし、明確な言葉だった。
紗良が、その位置を補った。
「今回、接遇礼法班は人数が足りています。むしろ控室側を見られる人が少ないんです。一条寺さんなら、控室の位置や来賓札の扱いも分かっていますから」
「……なるほど」
一条寺の視線が、机の上の資料へ落ちた。
湊は、そこで初めて気づいた。
紗良は、理由を実務の形にしている。エリカは、役割の意味を傷つかない形で渡している。二人は近い距離で話していた時とは違う声で、同じ結論へ向かっていた。
一条寺は、わずかに顎を引いた。
「分かりました。控室側を受けます」
「では、お願いします」
紗良は声の調子を変えず、一覧表の一行に印をつけた。
「一条寺さんには、当日も西側控室前をお願いします。見ていただきたいのは、案内表示の位置、控室前でお待ちいただく場所、講堂へ移る時の順番です」
一条寺は資料を受け取った。
その所作に乱れはない。資料を雑に扱うこともなく、エリカや紗良へ不満をぶつけることもなかった。受け取り方にも、礼を失うところはなかった。
それでも、湊には分かってしまった。
一条寺は、表へ出たいのだ。
来賓に挨拶し、式典局の顔として立ち、誰かに見られる位置にいたい。そう思うこと自体は、不自然ではない。東都院では、表に立つことにも意味がある。
ただ、その場所に立つには、別のものが要る。それが家柄や礼法だけではないということは、湊にも分かった。
榊原は、さっきの部屋で資料を確認していた。誰かに表へ出たいと言う必要もなく、評議会の机の前で自然に確認を受け、確認を返していた。
一条寺も、言葉や所作が乱れるわけではない。
それでも、榊原と同じようには見えなかった。
「悠木さん」
エリカに呼ばれて、湊は顔を上げた。
「手伝っていただいた資料は、こちらで大丈夫です。ありがとうございました」
「あ、はい」
湊は一歩下がった。
紗良が湊の方を見る。
「助かりました。旧校舎からここまで、量がありましたよね」
「いえ。運んだだけなので」
そう言ってから、湊は言葉を選び直した。
「承認された後の方が、大変そうですね」
紗良は目元だけで笑った。
「そうですね。承認されたものは、今度は動かさないといけませんから」
その言葉は軽い。
けれど、湊には妙に残った。
紙が通る。人が動く。場所が決まる。
東都院では、その順番が、誰にも止められないまま進んでいく。
暦は、湊の隣で室内を見ていた。
紗良は一覧表へ印を加え、エリカは修正紙を重ね直す。
誰も声を荒げない。
誰も、その場で顔を曇らせない。
それでも、一条寺が望んだ位置に立っていないことだけは分かった。
湊は、もう一度だけ机の上を見た。
「では、失礼します」
湊が言うと、暦も隣で小さく頭を下げた。
「失礼します」
「はい。ありがとうございました」
エリカが応じ、紗良も軽く会釈した。
「また何かあれば、お願いします」
「はい」
湊は短く答え、暦と並んで作業場所を出た。
廊下には、さっきよりも薄い光が落ちていた。
式典局の中では、もう次の確認が始まっている。
湊は、空になった手を一度だけ見た。
資料を運んだ重さは、もう手には残っていない。
それでも、誰をどう見て、どこへ回すのかを見た感覚だけは残っていた。




