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東都院物語  作者: 橘鉄真
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表は続き、裏は動く

主会場から拍手の音が届いていた。

壁を一枚隔てただけで、音はずいぶん違って聞こえる。来賓の挨拶に添えられる拍手。椅子が小さく引かれる音。皿と銀器が触れる硬い響き。春季晩餐会はまだ上品な夜の形を崩していなかった。

御厨紗良は控室前の廊下で一度だけ短く息を吐いた。

会場は止めない。

その方針は決まっている。そして止めないためにはそれなりの努力が必要だった。


「進行班には、予定どおり次の挨拶まで進めるよう伝えてください。間を空ける必要はありません」


紗良が言うと、執行部員が頷いた。


「九条院さんのことは」

「体調確認です。弦楽部側には、復帰時刻は未定。接遇班には控室周辺へ人を寄せないように。来賓へ尋ねられた場合も、学校側で確認しています、とだけ」

「分かりました」


執行部員は走らなかった。

歩幅だけを少し広げて、主会場側へ戻っていく。

その背中を見ながら、紗良は自分の伝え方を頭の中でなぞった。体調確認。学校側の確認。控室周辺への接近制限。どれも嘘ではない。だがそれは事実を隠すためのものだった。

九条院エリカが会場外で外部の男女に連れ出されかけた。

その言い方をした瞬間、この廊下では声の大きさも立つ位置も変わる。

春季晩餐会は、来賓と保護者がいる格式のある行事だった。生徒の不安だけで済む話ではない。警備、事務局、教職員、評議会、後援会、九条院家。触れた相手ごとに、意味が変わる。

榊原叡志は教師と警備責任者の前で手短に状況をまとめていた。


「生徒側に広げる範囲は限定します。式典局と生徒会には、会場運営上の支障を防ぐための連絡。評議会には、行事中の重大案件として概要を上げます。詳細は学校側と警備側の判断後でよろしいでしょうか」


教師はすぐには答えなかった。

警備責任者が先に口を開く。


「こちらでは、屋外の点検を始めています。外部スタッフの登録照合も行います。生徒側から追加で情報があれば、警備に直接渡してください」


榊原は頷いた。


「分かりました。ですが、生徒間で独自に探ることは避けます」

「それでお願いします」


教師がようやく答えた。

その声には、教師として生徒を守る硬さと、東都院の行事を崩せない重さが混ざっていた。

紗良はその声を聞きながら、控室の扉へ視線を向けた。

扉は閉じられている。中には九条院エリカがいる。教師が付き、必要な聞き取りをしている。悠木湊と影山暦は控室前に残されている。兵頭匡平は壁際に立ったまま、警備責任者の質問へ余分なことを足さずに答えていた。

兵頭はこの場の取りまとめから一歩引いている。


濃紺のスーツの男。スタッフのような服装の女。講堂裏。外周側。裏門へ続く道。外部スタッフ登録との照合。

必要な事実だけを渡して、そこから先は榊原と先生に任せている。

その切り分けは正しい。

紗良はそう思った。

兵頭は現場で見たものをそのまま伝えようとする。

自分なら事実をそのまま主会場には戻さない。榊原も同じ判断をしている。

その役割分担が今この廊下を支えていた。


「御厨さん」


榊原が振り向いた。


「会場側は」

「進行は保っています。進行班に間を空けないよう伝えました」

「弦楽部は」

「九条院さんの代替は、部のほうで対応してもらいます。演奏まで時間がありますから、今は騒がせない方がいいと思います」

「分かりました」


榊原は短く息を吐いた。

疲れているのではない。遅れを取り戻そうとしている顔だった。

先ほどまで、榊原は東都院の表に立つ生徒として、会場の秩序を見ていた。今はその秩序の裏に穴が空いたことを受け入れ、正式な手順で補おうとしている。


「評議会への報告は、僕が出します」

「今ですか」

「後では遅い。行事中の重大案件です。御堂先輩にはまず概要だけを上げます」


御堂先輩。

その名前が出た瞬間、廊下の温度が少し下がったように紗良には感じられた。

評議会の名前はそれだけ重い。後の責任処理や家同士の駆け引きに触れる前に、まず第一報を入れる必要がある。

榊原らしい判断だった。


「文章はどうしますか」


紗良が尋ねると、榊原はすぐ答えた。


「九条院さんの名は出します。ただし状況の詳細は入れません。外部関係者との接触事案。警備強化。九条院家への連絡は学校側判断、とします」

「誘導や連れ出し、という言い方は」

「まだ使いません」


即答だった。

紗良は頷いた。


「では、生徒会側は会場運営上の連絡に留めます。式典局には、控室前の出入りと外周側の立ち入りを一時的に絞るように。理由は学校側の点検で統一します」

「お願いします」


榊原はそう言って、事務局関係者の方へ向かった。

事務局関係者は手帳ではなく薄い書類挟みを持っていた。警備責任者とは違う顔をしている。確かめる対象が、人ではなく記録なのだ。


「外部業者の入構記録、来賓随伴者、後援会経由の臨時入構者を照合します」


事務局関係者が言った。


「後援会経由もですか」


紗良は自分の声がわずかに遅れたことに気づいた。

事務局関係者は表情を変えない。


「後援会関係者の随伴や紹介業者がおりますので。警備側の登録と、事務局の名簿がずれていないか見直します」

「そうですね。お願いします」


紗良は自然に返した。

声は崩れていない。

けれど胸の奥で何かが小さく引っかかった。

後援会経由。

その言葉は今日初めて聞いたものではなかった。春季晩餐会の準備中、旧校舎の応接室前で聞いた大人の声。御厨家の名前を、当然のように混ぜた挨拶。


どれも、その場では小さな違和感でしかなかった。

今ここで口に出すには、あまりにも根拠が薄い。

紗良は唇を閉じた。

確証のない話は、口にすべきではない。疑いだけを広げる。

そう思う自分がいた。

そしてそう思うことに慣れている自分もいた。


「御厨さん」


風紀委員の一人が廊下の端から近づいてきた。影山暦も一緒にいる。

暦はいつもより少しだけ顔が白く見えた。けれど声は平常に近い。


「風紀委員側の見回り範囲について、確認に来ました」


紗良は声の調子を改めた。


「外周側と講堂裏に学校側の点検が入ります。風紀委員は見回りを増やして、生徒を会場側へ戻してください。詳しい内容は全員には広げません」


風紀委員が頷く。


「理由は、学校側の安全点検でよろしいですか」

「はい。会場点検と安全点検です」


暦はその説明を黙って聞いていた。

紗良は暦の目を見た。暦は言葉の表面ではなく、その裏で抜かれた部分を見ているようだった。感情的に責める目ではない。何が伏せられているかを、ただ測っている目だった。


「影山さん」


榊原が声をかけた。


「先ほどの報告は助かりました。ここからは風紀委員側の持ち場へ戻ってください。悠木くんは、先生方の判断が出るまで控室で待機になります」


暦の視線が、控室前に立つ悠木へ向いた。

一瞬だけだった。

けれどその一瞬は短すぎるほど短く、だからこそ紗良の目に残った。

悠木は扉の近くに立っている。中にいる九条院を気にしている。兵頭と話す時とは違う緊張が、肩に残っている。

暦はそれを見た。

見て、すぐに榊原へ向き直った。


「分かりました。見回りに戻ります」

「お願いします」


暦は風紀委員と並んで歩き出した。

すれ違う時、悠木の方を見なかった。見ないようにしたのか、見る必要がないと判断したのか、紗良には分からなかった。

ただ暦の横顔には、普段の静けさと少し違う硬さがあった。

控室の扉が開いた。

教師が顔を出す。


「御厨さん、榊原さん。九条院さんが短く話したいそうです」


紗良は榊原と視線を合わせた。

中へ入ると、エリカは椅子に腰を下ろしていた。背筋は伸びている。膝の上で重ねた手も乱れていない。顔色はまだ完全ではないが、九条院エリカとして人前に出られる形を、もう取り戻し始めていた。

そのことに紗良は胸を締めつけられた。

戻ろうとしている。

怖かったはずなのに、エリカはすでに表へ戻る準備をしている。


「紗良さん」


エリカが先に口を開いた。


「会場は」

「挨拶も進行も、大きな乱れはありません」

「弦楽部は」

「復帰時刻は未定と伝えています。部長側で代替を見ています。今は焦らなくて大丈夫です」


エリカは小さく頷いた。


「ありがとうございます」


その声は穏やかだった。

穏やかであることを、選んでいた。

榊原が一歩前に出る。


「九条院さん。学校側と警備側で照合が始まっています。今は、会場へ戻るかどうかを急ぐ段階ではありません」

「分かっています」


エリカはそう言った。

分かっている。

その一言には、従順さだけではないものがあった。


「でも、春季晩餐会は進んでいます。私が戻らないことで、別の説明が必要になるなら、その前にできることを聞いておきたいのです」


紗良は言葉を失いかけた。

エリカらしい。

けれど今その言葉を聞きたくなかった。


「九条院さん」


教師が静かに言った。


「復帰については、九条院家への連絡を含めて判断します。あなたが役目を果たそうとしていることは分かります。ただ今夜は通常の体調不良ではありません」


エリカの手が、膝の上でわずかに動いた。

ほんのわずかだった。


「九条院家へは、もう」

「連絡は避けられません」


教師の声は柔らかかったが、判断は変わらなかった。


「学校としても、九条院家へ正式に説明する必要があります。警備と事務局の照合を待ちますが、準備は始めます」


エリカは目を伏せた。

その顔には、恐怖より先に、別の重さが落ちたように見えた。

九条院家へ伝わる。

それは家に心配されるというだけの話ではなかった。東都院の行事中に、九条院家の娘が狙われた。

事実は、並べ方ひとつで意味を変える。


「悠木さんには」


エリカが小さく言った。


「後で、きちんとお礼を言います。影山さんにも、兵頭さんにも」

「今は、無理をしないでください」


紗良の声は、自分でも驚くほど優しかった。

エリカは顔を上げた。


「ええ。無理はしません」


そう答えたエリカは、膝の上で手を重ね直した。声も礼の角度も、人前に戻る時のものになっていた。

紗良はそのことがなぜか怖かった。

控室を出ると、廊下の空気はさらに動いていた。

警備責任者が戻り、別の警備スタッフへ低い声で指示している。

事務局関係者は教師へ返答していた。


「入構記録と後援会関係者の名簿を照合します。学校側の報告文面はこちらでまとめます」

「お願いします」


教師が答える。

榊原はそのやり取りを聞きながら、手元の紙に短い文面を書いていた。

評議会へ上げるための第一報だろう。

紗良は横から目を落とした。

春季晩餐会中、会場外周において外部関係者との接触事案が発生。警備、事務局、教職員にて照合中。生徒会、式典局は会場運営維持を優先。詳細は学校側判断後。

抑えた文面だった。

抑えすぎているようにも見える。


「榊原さん」

「何ですか」

「九条院家への連絡が入るなら、評議会にも相応の連絡を出す必要があります」

「分かっています」


榊原は筆を止めずに答えた。


「御堂先輩には、先に第一報を入れます。九条院家へ正式連絡が入った時点で、重大案件として扱うことになる」

「後援会は」


その言葉を口にした瞬間、紗良は自分の声が硬くなったことを感じた。

榊原が顔を上げる。


「後援会?」

「事務局が名簿を照合するなら、どこかで反応が出ます。言い方を揃えておいた方がいいと思います」


榊原は紗良を見た。

その目に問いがあった。

何か知っているのか。

そう聞かれた気がした。

紗良は答えられなかった。

知っているわけではない。

ただ見ていた。

挨拶の中にあった、ほんの少し早い反応。御厨家の名前が出た時の、大人の笑い方。後援会関係者が、学校側より先に会場の裏事情を知っているように見えた瞬間。

それらは今、根拠として出すには弱い。


「いえ」


紗良は微笑んだ。

いつものように。


「情報が増えた時、説明がぶれないようにしておきたいだけです」


榊原はほんの少しだけ間を空けた。


「そうですね。後援会へは学校側から。生徒側からは触れない。その方針で進めます」

「はい」


会話は終わった。

終わらせたのは、自分だった。

主会場からひときわ大きな拍手が届いた。

誰かの挨拶が終わったのだろう。表では人が立ち、礼をして席へ戻る。笑顔が浮かび、グラスが傾けられる。東都院の春の夜は、美しいまま保たれている。

その裏で外周へ警備が回り、風紀委員の見回りが増え、式典局が生徒を控室前から遠ざけ、事務局が入構記録を照合し、評議会へ第一報が上がる。


大声は上がらない。

足音も乱れない。

混乱していないように見える。

その静けさの中で、誰に何を伝えるかだけが、正確に切り分けられていく。

教師が控室前に戻ってきた。


「九条院家へ連絡します。事務局長経由で正式に。生徒側は、引き続き会場を維持してください」


その一言で方針が決まった。

警備は強化される。

風紀委員は見回りへ戻る。

式典局と生徒会は来賓の前で晩餐会の流れを崩さない。

評議会は重大案件として受け取る。


九条院家には、正式に伝わる。

紗良は主会場へ続く扉の方を見た。

その向こうでは、まだ明るい声が続いている。

表は続いている。

裏はもう動き始めていた。

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