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東都院物語  作者: 橘鉄真
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九条院家へ

九条院家東京邸の夜は静かだった。

玄関ホールの灯りは落とされていない。春季晩餐会の夜は、帰邸の時刻も来客の有無も読み切れない。家令は控えの間に人を置き、侍女長は二階の支度を解かずに待たせていた。

その静けさの中で、電話の音だけが硬く響いた。

最初に受けたのは、家令の高遠清嗣だった。短く名乗り、相手の所属を確かめる。その顔から余分な表情が消えた時、控えの間にいた者たちは声を落とした。

九条院隆雅は書斎にいた。

机上には九条院家が出している文化財団関係の資料が並んでいる。今夜のうちに目を通す必要があった。

高遠が扉の前で足を止める。


「旦那様。東都院学園事務局長より、至急の連絡でございます」


隆雅は万年筆を置いた。


「入りなさい」


高遠は静かに入室した。

手には、電話口で控えた短いメモと、薄い紙片が一枚ある。紙片には、エリカの学年と周辺生徒について、屋敷に置かれている控えと照合した名が書かれていた。


「先に結論を」


隆雅が言った。

高遠はわずかに頭を下げた。


「エリカ様に春季晩餐会の会場外で、不審な接触がございました。エリカ様にお怪我は確認されておりません」


隆雅は目を閉じなかった。息も吐かなかった。


「続けなさい」

「東都院学園春季晩餐会において、外部関係者を装う人物がエリカ様へ接触。会場外へ誘導を試みたとのことです。二年A組の悠木湊という生徒が追い、エリカ様は講堂内の控室まで戻られたとのことです。兵頭匡平という生徒が現場に残り、不審人物と対峙。影山暦という生徒が、最初に異変に気づいたと報告されています」


隆雅の指が、机の縁に触れた。

叩いたわけではない。

それでも乾いた音がした。


「外部関係者を装う、とは何だ」

「現時点では不明です。正式な登録者との照合中とのことです」

「東都院は、装えば入れる場所になったのか」


高遠は答えなかった。

答えられる立場ではない。

隆雅は椅子から立った。


「九条院の娘が、東都院の中で、来賓と保護者を集めた夜に連れ出されかけた。学校はそれを、会場外周での接触事案と呼んでいるのか」

「第一報の文面では、そのように」

「文面を選んでいる場合か」


声は荒くなかった。

荒くない分だけ、怒りの向きがはっきりしていた。

エリカへではない。

隆雅の怒りは、学園へ向いていた。警備へ向いていた。事務局へ向いていた。行事の名で人を入れ、後援会の名で出入りを増やし、その確認を当然のように東都院の格式の中へ溶かした者たちへ向いていた。

怒りに任せて席を立ったのではない。何を誰に問うべきか、すでに頭の中で分け始めていた。それでも、言葉が強くなることだけは抑えきれなかった。


「春季晩餐会は継続中か」

「継続中です。会場運営は生徒会と式典局が維持。学校側、警備側、事務局で照合を始めているとのことです」

「東都院らしい言い方だな」


その時、扉の外から侍女長の声がした。


「隆成様がお見えでございます」


隆雅が短く許すと、九条院隆成が入ってきた。侍女長はその後ろに控えている。

すでに家督を退いた老人である。けれど、九条院家の中で、その言葉を軽く見る者はいない。

隆成は杖の頭に指を重ねたまま、静かに口を開いた。


「話はすでに聞いた」


隆雅は振り向いた。


「父上」

「怒るなとは言わん」


隆成の声は低かった。


「怒るのは当然だ。だが順番を間違えるな」


隆雅は言葉を飲んだ。

隆成は高遠へ目を向ける。


「エリカに怪我はない。それは確かだな」

「はい。負傷は確認されていません。現在は控室で教師が付き添っているとのことです」

「会場へ戻ったのか」

「戻ってはおりません。復帰については九条院家への連絡を含めて判断すると」


隆成は小さく頷いた。


「エリカに怪我はない。会場へは戻していない。それ以外は仮だ」


隆雅の眉が動いた。


「仮で済む話ではありません」

「済まん。だから仮のまま怒鳴ってはならん」


隆成は杖を床へ置いた。

音は軽い。

けれど書斎の中では、その音が指示の始まりになった。


「入構名簿を押さえろ。誰が、どの名目で入ったのか。エリカへ声をかけた理由もだ。業者経路か、後援会筋か、事務局の漏れか、警備の穴か。記録を見れば、まずそこまでは分かる」


高遠がすぐに頷いた。


「学校側へ正式な説明を求めます」

「説明だけでは足りん。守衛所、搬入口、臨時入構者名簿、警備会社の配置表を出させろ。会場内と控室周辺の人員配置も要る」

「承知いたしました」


隆雅はまだ立ったままだった。


「後援会の名簿も洗うべきです」

「洗え」


隆成は即答した。


「ただし、先に家名で疑いを作るな。記録から追え。家名で順番を変えるな。鷹司、榊原、一条寺。九条院に近い者も含めて、記録に名が出るなら同じ扱いにしろ」


その言い方に、隆雅の怒りがほんの少し形を変えた。

父は、疑う相手を選ばなかった。

九条院に近い者も、外さない。

その順番だけで、隆雅には十分だった。


「学校側への要求は、事務局長宛てだけでよろしいですか」


高遠が尋ねた。

隆成は首を横へ振った。


「理事会へ上げる学校側の説明、事務局長の経緯書、警備責任者の記録。三つを別に出させろ。同じ説明になるならよい。違えば、そこに穴がある」

「後援会へは」

「直接は早い。まず学校側からどこへ連絡を入れたかを確かめる。後援会筋が先に動いた形跡があれば、別に取る」


隆雅が低く言った。


「本家へは」


書斎がまた静まった。

九条院本家。

その名を出せば、分家内の案件では済まなくなる。

隆成はすぐには答えなかった。机上へ目を落とし、そこから隆雅へ視線を戻す。


「内々に報告を入れる。判断を仰ぐ形にはするな。分家として初動を取る。そのうえで、九条院姓に関わる事案として報告する」

「本家に先に知られるよりは」

「こちらから出す方がよい」


隆成の言葉は短かった。

それで決まった。

高遠が控えの者へ目を向ける。廊下で待っていた秘書役が静かに入ってきた。走らない。紙の擦れる音だけが増える。

隆雅は高遠が差し出した紙を受け取った。

そこには、三人の生徒名が書かれていた。

悠木湊。

影山暦。

兵頭匡平。

隆雅の視線が、その順に止まる。


「この三名については」

「礼を用意しろ」


隆成が言った。

隆雅は顔を上げた。


「当然です」

「当然では足りん」


隆成の声が、少しだけ厳しくなった。


「これは菓子や花で済ませる礼ではない。九条院家が、恩を受けたと認めるための形だ。エリカを助けた者への礼であり、三人をこちらの認識の内側へ入れる行為でもある」


隆雅は何か言いかけて、やめた。

隆成の言葉は、感謝だけを意味していない。

九条院家が名を覚える。

礼状一つで、相手の立場は変わる。守るつもりの手が、周囲には囲い込みに見えることもある。


「ただし、名を広げるな」


隆成は続けた。


「この三人の名前を、晩餐会の噂の中に出させるな。感謝より先に、好奇の種になる」

「エリカについても同じです」


隆雅の声は、ようやく少し落ちた。


「エリカが不用意に動いた形にされては困る」

「困るのではない。許さんのだ」


隆成は静かに言った。


「狙われた娘の名は、被害であっても傷にされる。東都院はそれを知っているはずだ。知らぬなら、今夜知ってもらう」


高遠が書きつける。


「会場内の説明は、体調確認の範囲で統一。詳細は学校側判断後。九条院家としては、エリカ様の名誉と安全を最優先。三名の生徒名は不用意に出さない。学園側へは正式説明を求める。警備、事務局、後援会筋の確認」

「それに、謝礼の準備を加えろ」


隆成が言った。


「本人へだけでは片手落ちだ。家庭と所属への扱いも考えろ。三人の所属は把握しておるか?」

「兵頭匡平は式典局員です。影山暦は風紀委員と天文部です。悠木湊は弓道部所属。委員会の記載はございません」


高遠は控えの紙片に一度だけ目を落として答えた。淀みはなかった。


「入学経路と家庭関係は確認しろ。ただし粗くはやるな。助けられた相手を調べる手つきが、礼を失してはならん」

「承知いたしました」


高遠が深く頭を下げる。

隆雅は紙を机に置いた。

置き方は静かだった。

けれど指先はまだ硬い。


「父上。私は、東都院を信頼してエリカを通わせています」

「知っている」

「その東都院の中で、こんなことが起きた」

「だからこそ、今夜は感情だけで終わらせるな」


隆成は立ち上がった。

侍女長がすぐに動こうとしたが、隆成は片手で制した。足取りは遅い。それでも声は揺れなかった。


「九条院の怒りは、声の大きさで示すものではない。記録を出させる。説明を分けさせる。噂を押さえる。礼を尽くす」


隆雅は黙って聞いていた。


「怒りは残せ」


隆成は言った。


「事を起こすときに、手を鈍らせぬために」


書斎の外で、人の気配が動き始めた。

電話をかける者。

名簿を取り寄せる者。

本家への報告を準備する者。

侍女長は、エリカが帰邸した時に通す部屋と人の数を減らすよう、侍女へ低い声で告げていた。出迎えは必要だ。けれど、大勢で迎えれば、それだけで本人に事の大きさを突きつける。


エリカ付きの侍女である、白石透子は二階へ向かった。

エリカの部屋の灯りを整え、湯と着替えを用意するためだった。

九条院家は騒がない。

廊下を走る者もいない。

声を張る者もいない。


それでも、夜の屋敷の中で、紙と電話と人の向きだけが次々に変わっていった。

隆雅は書斎の窓へ視線を向けた。

東都院の方角は、ここから見えない。

だが、そこではまだ春季晩餐会が続いている。拍手があり、挨拶があり、銀器の音がある。エリカは控室にいて、きっと背筋を伸ばしている。

その姿が目に浮かぶほど、隆雅の怒りは消えなかった。


「高遠」


隆雅が家令の名を呼んだ。


「はい」

「東都院へ返答を入れなさい。第一報は受け取った。エリカの安全確認を最優先。そのうえで、記録と正式説明を求める。後援会筋の確認も外さない」

「かしこまりました」

「それから」


隆雅は机上の紙をもう一度見た。

三つの名前が並んでいる。


「悠木湊、影山暦、兵頭匡平。この三名への礼は、明朝を待たずに準備に入る。形は父上と相談する」

「承知いたしました」


高遠が下がる。

扉が閉じた後、書斎には隆雅と隆成だけが残った。


「父上」

「何だ」

「エリカは、戻ろうとするでしょうか」


隆成は、すぐには答えなかった。


「あの子は、戻ろうとするだろう」


隆雅の口元が硬くなる。


「やはり」

「それが九条院の娘として教えられたことだからだ。お前も、私も、そう教えた」


隆雅は反論しなかった。

できなかった。

隆成は窓の外を見た。


「だから、今夜は家が止める。エリカ本人に、すべてを背負わせるな」


隆雅は深く息を吸った。

怒りはまだ、胸の奥で熱を持っていた。

それでも、次にすべきことは見えていた。

九条院家は、感情を捨てたのではない。

怒りを抱えたまま、順番を選んだ。

東京邸の夜は静かなままだった。

その静けさのまま、九条院家の処理は始まっていた。

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