兵頭の報告
裏口から主会場裏へ戻る廊下は、行きよりも静かだった。
兵頭匡平は角を曲がる手前で一度だけ足を止めた。緊張をほぐし、呼吸を整える。先ほどまで対峙していた男の張り詰めた気配を、春季晩餐会の場へ持ち込むのは良くないと思った。
ネクタイはわずかに緩み、袖口も会場にいた時より崩れている。
それでも、直す時間は取らなかった。
今、整えるべきなのは服装ではない。
兵頭は廊下の先へ視線を置いた。
主会場側の音は続いている。拍手、控えめな笑い声、皿の触れる音。春季晩餐会は止まっていない。止めていないのだと分かった。
それはよかった。
止めずに済んでいるなら、混乱はまだ広がっていない。
控室前には警備スタッフがいた。廊下側に残った教師もいる。榊原叡志と御厨紗良も控えていた。
紗良は少し離れたところで、執行部員に何かを伝えていた。声は聞こえない。だが、相手の頷き方で、会場側へ伝える言葉を選んでいるのだと分かった。
兵頭は近づいた。
榊原が先に気づく。
「兵頭くん」
その呼び方は落ち着いていた。だが、目だけは兵頭のネクタイと袖口を見ている。
兵頭は余計な前置きを置かなかった。
「悠木と九条院さんは」
榊原の視線が、控室の扉へ向いた。
「戻っています。九条院さんは中で先生が様子を見ています。悠木さんと影山さんは控室前で待機しています」
兵頭はそこで初めて息を一つ吐いた。
大きくはない。胸の中に残っていたものを、外へ逃がすだけの息だった。
扉は少し開いていた。奥には、椅子へ腰を下ろした九条院エリカが見える。背筋は伸びていた。顔色までは分からないが、少なくとも自分の足で戻り、今も姿勢を保っている。
教師がついているなら、今はそれでいい。
兵頭は視線を廊下側へ戻した。
悠木湊は控室前の壁際に立っていた。
影山暦が、その横にいる。
湊は兵頭を見た。
目が合う。
湊の顔に、安堵が出た。次に、わずかな後ろめたさが混ざった。
「報告します」
兵頭は教師へ向き直った。
教師の表情が変わる。生徒を見る顔から、情報を受ける顔になった。
警備スタッフも近づいてきた。
兵頭は廊下の壁に背を向け、手短に言った。
「男は濃紺のスーツ。三十前後。女はスタッフのような服装です」
警備スタッフがすぐに手帳を開いた。
榊原の目が細くなる。
「所属と名前を尋ねたら、二人とも確認違いだと言って下がりました。講堂から離れる側へ歩き、外周側の暗がりへ消えています。その先は裏門へ続く道です」
警備スタッフが顔を上げた。
「裏門から出たところは」
「見ていません」
兵頭は即答した。
見ていないことは、見ていないと言う。
そこを曖昧にすれば、後の確認がずれる。
「調べるなら、講堂裏の屋外通路、外周側、裏門側です。外部スタッフの登録も照らした方がいいです」
「分かりました」
警備スタッフは教師へ視線を送った。
教師が頷く。
「裏門側と外周側へ人を回します。外部スタッフの登録も照合を」
「はい」
警備スタッフは廊下の奥へ向かった。
兵頭はその背中を目で追った。
歩き方が速い。だが走ってはいない。廊下で走れば、近くにいる生徒や来賓が見る。警備スタッフはそれを分かっている。
それでいい。
事実は渡した。
ここから先は、自分が勝手に広げる範囲ではない。
榊原が教師へ向き直った。
「先生。生徒側で必要なのは、控室周辺への接近制限と会場側の進行維持です。外部スタッフの件は学校側と警備で扱っていただく形でよろしいでしょうか」
「そうします」
教師が答えた。
榊原は続けた。
「式典局には控室周辺の出入りを減らすよう伝えます。理由は九条院さんの体調確認と、学校側の会場点検に留めます」
兵頭はその言い方を黙って聞いていた。
そう切るのか、と兵頭は思った。
自分なら、男と女が裏門側へ消えた、外周を見ろ、外部スタッフの登録を調べろ、と言う。必要なことではある。だが、それをそのまま会場側へ流せば動かなくていい人間まで動くかもしれない。
榊原の言葉は、事実を薄めているのではない。
伝える相手と範囲を分けていた。
紗良が静かに加わった。
「主会場側は、進行班にだけ伝えます。弦楽部には、九条院さんの復帰時刻はまだ出せないと伝えます。接遇班には控室前に生徒を寄せないようにします。来賓への説明は、体調確認で統一します」
教師が頷いた。
「お願いします。御厨さん、言葉はそれで揃えてください。榊原さんは式典局側を」
「はい」
二人の返事は、ほとんど同時だった。
兵頭は自分の役目が一段落したことを理解した。
ここから先は、榊原と紗良と教師と警備が、それぞれの場所で処理する。
扉の内側から、学年側の教師が顔を出した。エリカを見ていた教師だった。
「兵頭さんも戻りましたか」
「はい」
「あなたからも後ほど詳しく聞きます。今は、このまま控室前にいてください」
「分かりました」
兵頭は答えた。
控室前の壁際で、湊がわずかに姿勢を変えた。
兵頭を見る。近づきすぎはしない。言われた場所を守っている。
兵頭は湊の顔を見た。
「悠木」
「うん」
湊の返事は短かった。
兵頭は言葉を選ばなかった。選ぶほどの余裕を、今ここで湊に与える必要もない。
「後で話す」
湊は一瞬だけ目を伏せた。
「分かった」
その返事には、逃げる気配がなかった。
兵頭はそれ以上言わなかった。
ここで叱れば、ただの感情になる。湊が動いた理由は分かっている。分かっているからこそ、後で言わなければならない。あの場で前に出ることと、戻る手順を捨てることは同じではない。
湊はそれを理解している。
理解していて、動いた。
なら、後で話すしかない。
開いた扉の向こうで、エリカが顔を上げた。
湊を見て、それから兵頭へ視線を移す。
兵頭は式典の場で九条院エリカに向けるべき礼を取ろうとして、少しだけ動作が遅れた。ネクタイは直っていない。袖口も崩れている。今の姿は、春季晩餐会の場に置くには粗い。
だが、エリカはその乱れを見て、顔を曇らせなかった。
「兵頭さん」
声は小さかった。
「ありがとうございました」
兵頭は一拍遅れて答えた。
「無事なら、それでいいです」
丁寧な返しにはならなかった。
礼を受けるより、無事かどうかが先だった。相手が九条院エリカであっても、その順番は変わらない。
エリカは少しだけ目を伏せた。
責められたと思った様子ではない。
湊に庇われたこと。
兵頭が後に残ったこと。
その二つを、今ようやく同じ出来事として受け取ったように見えた。
兵頭は視線を外した。
自分が何かを言う場面ではない。
控室の外では、警備スタッフの足音が遠ざかっていく。裏門側と外周側へ人が回る。廊下の先にいた式典局員が、榊原の合図で位置を変えた。紗良は別の執行部員を呼び、主会場へ伝える言葉を整えている。
場が動き始めていた。
兵頭は扉の脇に置かれた予備椅子を見た。
警備スタッフが戻れば、ここで通路が狭くなる。
兵頭は椅子を片手で持ち、壁際へ寄せた。
教師がそれを見た。
「兵頭さん、休んでいてください」
「ここにあると邪魔になるので」
それだけ言って、兵頭は椅子を置いた。
榊原が短く兵頭を見た。
その視線に、先ほどまでとは違うものがあった。
驚きではない。
理解でも、完全な納得でもない。
式典の表側では見えにくかったものを、今は見ている目だった。
兵頭はそれを受け流した。
今夜この場所で、止めるべきものを止め、渡すべきことを渡した。それだけでよかった。
教師が榊原と紗良へ改めて指示した。
「控室前に残る生徒は最小限に。九条院さんの様子を見るまでは、復帰時刻は出しません。学校側の調査が終わるまでは、外部スタッフの話は広げないでください」
「分かりました」
榊原が答えた。
紗良も静かに頷いた。
兵頭は控室の入口に立ったまま、廊下の奥を見た。
外周へ向かう警備スタッフの足音はもう聞こえない。主会場の拍手だけが、扉越しに薄く続いている。
春季晩餐会は、まだ続いている。
九条院エリカは部屋の中にいる。
悠木湊も、影山暦も、すぐ近くにいる。
それで、今は足りる。
怒るのは後でいい。
礼を受けるのも後でいい。
兵頭が持ち帰った事実は、榊原と紗良と教師と警備の手に移った。
危険は終わっていない。
だが、現場だけで抱える段階は終わった。




