戻るまでの道
裏口の扉を越えて廊下へ戻っても、エリカの耳には、まだ外の音が残っていた。
兵頭の低い声。
女の取り繕いきれない声。
舗装路を踏む靴音。
それらは扉の向こうへ置いてきたはずなのに、胸の奥ではまだ消えていなかった。
前を歩く湊の後ろ姿を見る。
湊は走らなかった。
急がせるには十分な歩幅で、立ち止まらせない速さだった。手を引く力は強すぎない。エリカが足をもつれさせないよう、歩調をわずかに落としているのが分かった。
その配慮に気づいた瞬間、エリカは自分の手を見た。
湊の手が、まだ彼女の手を取っていた。
触れた部分を通して体温が伝わってくる。
指先が冷えているのは、自分の方だった。
夜気のせいだけではない。さきほどまで、自分は知らない相手に連れ出されかけていた。
気づいたのは、湊も同じだった。
控室へ続く角を曲がり、外扉から直接見えない位置まで来たところで、湊は足を少し緩めた。
「すみません」
短い声だった。
湊の手が離れる。
手が離れると、歩く感覚が一瞬だけ頼りなくなった。
エリカはそのことに、自分で戸惑った。
「いいえ」
返事は、普段の形に近かった。
近かっただけで、完全ではない。声の終わりが細くなったのを、自分で聞いてしまった。
湊はそれを指摘しなかった。
「このまま、主会場の入口まで行きます」
「はい」
答えてから、エリカは一拍遅れて、言うべき言葉を思い出した。
「申し訳ありません。私が、確認を怠りました」
湊の足が止まることはなかった。
ただ、わずかにこちらを見る。
「今は戻る方が先です」
責める声でも、慰める声でもなかった。
ただ、この場で必要な順番を示していた。
それが、今のエリカには難しかった。
責められた方が、まだ楽だった。
軽率だったと叱られれば、謝罪すればいい。式典局の一員として、九条院家の娘として、相応の不手際を認めればよい。
湊は、その形では受け取らなかった。
今は主会場へ向かう方が先。
それは、エリカを失敗した令嬢として裁く言葉ではなく、今の彼女を主会場へ返すための言葉だった。
「ですが、私は」
「九条院さん」
湊が名前を呼んだ。
声は静かだった。
講堂裏で呼ばれた時ほど低くはない。それでも、流されそうになる言葉を止めるだけの芯があった。
「後で考えましょう。今、ここで全部考えると、会場に入れなくなります」
エリカは唇を結んだ。
その通りだった。
考え始めれば、止まらなくなる。
なぜ、あの女について行ったのか。
なぜ、途中で式典局員を呼ばなかったのか。
控室でもない場所へ向かっていると気づいた時点で、なぜ立ち止まれなかったのか。
九条院の名を持つ自分が、なぜ相手の顔を潰さないことばかり先に測ったのか。
言い訳なら、いくつも作れた。
行事中だった。相手はスタッフに見えた。春季晩餐会の確認だと言われた。式典対応に関わる者として、急ぎの確認を無視できなかった。
どれも、間違いではない。
間違いではないからこそ、遅れた。
廊下の先から人の声が聞こえた。
主会場ではない。控室前を行き来する式典局員か、施設側の職員だろう。紙を持つ音、低く交わされる確認、どこかで開いた扉の音が、講堂の方から流れてくる。
いつもの東都院だった。
誰もが自分の役割を知っている。
その中へ戻るには、エリカも九条院エリカの顔を取り戻さなければならない。
「暦が先に気づいたんです」
湊が言った。
エリカは顔を上げた。
「影山さんが?」
「はい。九条院さんが予定と違う方へ動いたのを見て、俺に伝えてくれました。俺はそれを聞いて追いました」
湊はそれを、自分の手柄のようには言わなかった。
むしろ、当然の順番を確認するように口にした。
「私は、悠木さんが気づいてくださったのだと」
「俺も気にはしていました。でも、最初に動いたのは暦です」
エリカの中で、さきほどの出来事の形が少し変わった。
湊が突然現れ、自分を連れ戻した。
その印象だけなら、物語の中の救出のように見えたかもしれない。
そうではなかった。
暦が気づいた。
湊が動いた。
兵頭が残った。
それぞれ別の場所で、別の判断をした。
その結果として、自分は今ここを歩いている。
「影山さんに、礼を言わなければなりませんね」
「たぶん、素っ気ない返事をしますね」
湊の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「そうなのですか」
「はい。必要なことをしただけです、とか」
その言い方が自然で、エリカは一瞬だけ、湊と暦の長い距離を感じた。
説明の要らない相手。
相手の返答を、当たり前のように想像できる関係。
今までなら、それをただ幼馴染なのだと受け取っていた。
今は、少し違って聞こえる。
胸の奥が、落ち着かないまま静かに揺れた。
「兵頭さんは」
エリカは尋ねた。
名前を出した瞬間、外へ残してきた背中が浮かんだ。
小柄な体で、道を塞ぐには十分すぎた。振り返らずに「後でいい」と言った声。そこには、令嬢への礼ではなく、現場で動く人間の判断があった。
湊は、すぐに答えた。
「兵頭なら心配ないです。たぶん、俺より冷静です」
「冷静、ですか」
「はい。俺は九条院さんを連れて戻る方を選びました。兵頭は、あの場に残る方を選びました」
湊は少しだけ息を整えた。
「俺が残ったら、あそこまで落ち着いていられたか分かりません」
その言葉に、エリカは湊の横顔を見た。
彼は、自分を助けたことを誇らない。
兵頭を立てるために謙遜しているわけでもない。役割の違いをそのまま口にしている。
湊は自分だけを前に出さなかった。
暦の気づきも、兵頭の判断も、自分の動きも、同じ出来事の中に置いている。
その考え方が、エリカには眩しかった。
東都院では、名前より先に役割が見られることがある。
九条院の令嬢。
式典に立つ者。
榊原の隣に置かれる者。
接遇を任せられる者。
湊は役割を見ていないわけではない。
見た上で、その奥にいる人に向き合っていた。
だから、兵頭をただ現場要員として扱わない。
暦をただ幼馴染として隠さない。
エリカを、救われる側だけにしなかった。
エリカは息を吸った。
まだ胸は乱れている。
指先も冷たい。
それでも、歩くための力は戻り始めていた。
控室前に差しかかると、式典局員の一人がこちらを見た。
顔に驚きが出かけ、すぐに抑えられる。東都院の生徒らしい反応だった。何かがあったと気づいても、廊下の真ん中で声にはしない。
湊はその生徒へ短く視線を向けた。
相手は何かを察したように頷き、控室の奥へ足を向けた。
エリカは、その視線を受けて、背筋を伸ばした。
いつもなら自然にできることだった。
今は意識しなければ形にならない。
顎の角度。
肩の位置。
歩幅。
視線の置き方。
唇に乗せる表情。
一つずつ戻していく。
湊は隣で何も言わなかった。
励ましもしない。褒めもしない。急かしもしない。
ただ、歩調だけを合わせている。
それがありがたかった。
「歩けますか」
主会場入口へ続く明かりが見える手前で、湊が尋ねた。
エリカは小さく頷いた。
「はい」
返事の後に、自分の声を確かめる。
まだ細い。普段の九条院エリカの声ではない。
それでも、会場の扉の前までなら届く声だった。
「大丈夫です、と言い切るには、少し足りないかもしれません」
言ってから、エリカは自分の言葉に驚いた。
普段なら、こんな言い方はしない。相手に不安を渡さない形にする。大丈夫ですと答え、笑みを添え、相手の気遣いを受け取りすぎないようにする。
湊は、驚いた顔をしなかった。
「それなら、足りない分だけゆっくりで」
簡単に言った。
エリカは目を伏せた。
笑いそうになったわけではない。泣きそうになったわけでもない。
ただ、その言葉をどう受け取ればよいのか、すぐに決められなかった。
足りない分を、足りないまま許される。
そんな扱いに、慣れていなかった。
主会場入口の明かりが、廊下の床に広がっていた。
扉の向こうから、拍手が波のように届く。誰かの挨拶が終わったのかもしれない。春季晩餐会は続いている。講堂の中では、エリカがいなくなりかけた時間など、まだ表に出ていない。
その光と、背後に置いてきた夜の道が、同じ建物の中に並んでいた。
エリカは足を止めた。
湊も止まった。
入口の近くには、数人の式典局員がいた。
遠くに、風紀委員の腕章をつけた生徒の姿も見える。暦かどうかまでは分からない。
その姿を見たことで、エリカはもう一度、ここへ戻ってきたのだと実感した。
一人に救われたのではない。
複数の判断が重なって、自分はここへ帰ってきた。
その事実を受け止めても、自責は残った。
判断が遅れたことも、胸の奥に沈んでいる。
それでも、次に自分が何を見るべきかは、少しだけ分かった気がした。
次は、相手の顔を潰さないことより先に、確かめる。
急ぎだと言われた時ほど、手順を求める。
九条院の名を背負うのなら、その名を遠慮の理由にしてはいけない。
エリカは湊へ向き直った。
「悠木さん」
「はい」
「ありがとうございました」
短い礼だった。
本当はもっと言うべきことがあった。謝罪も、説明も、兵頭と暦への礼も、式典局への報告も、九条院家への連絡も。
今、湊へ渡せる言葉は、それだけだった。
湊は大げさに受け取らなかった。
「戻りましょう」
その返しが、湊らしいのだと思った。
助けたことを飾らず、礼を受け取りすぎず、次に必要な場所へ向ける。
エリカは頷いた。
主会場の明かりへ向かって、もう一歩進む。
扉のそばで、エリカは自分の表情を整えた。
完全ではない。
目元には薄い緊張が残っている。指先の冷たさも消えていない。笑みも、いつもの高さには届かない。
それでも、戻るための顔にはなった。
湊はそれを見て、何も言わなかった。
エリカが歩き出すのに合わせて、静かに歩調を合わせた。
講堂の中は、眩しいほど秩序だった光に満ちていた。
そのすぐ外側で、まだ春の夜は重く残っていた。




