表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東都院物語  作者: 橘鉄真
PR
55/61

裏門へ続く道

扉を開けた瞬間、外の空気が頬に当たった。

講堂の裏側は主会場とは別の場所だった。壁越しに拍手や人の声は残っているが、扉一枚を挟むだけで音は急に遠くなる。足元には細い舗装路が伸び、片側は講堂の外壁、もう片側は植え込みと低い柵になっていた。照明はある。だが、来賓を迎えるための明るさではない。

湊は、扉を閉めきらなかった。

講堂側の気配を残しておくためだった。

前方に三つの影が見えた。


一人は女だった。スタッフのような服装だった。

その少し後ろに、九条院エリカがいた。

さらに数歩離れて、濃紺のスーツの男が続いている。

エリカは歩いていた。

連れ去られている形ではない。肩を掴まれているわけでも、腕を引かれているわけでもない。外から見れば、案内に従っているだけのように見える。


だからこそ悪かった。

湊は歩幅だけを広げた。

足音は抑えたまま、距離を詰める。


「九条院さん」


声は思ったより低く出た。

三人が振り向いた。

エリカの目が湊を捉えた。

その瞬間だけ、彼女の表情から令嬢としての顔が剥がれていた。それは安堵だった。その次に来たのは、判断が遅れたことへの自覚だった。

もっと早く立ち止まるべきだった。

確認を求めるべきだった。

その遅れが、湊の姿を見た瞬間に形を持った。


「悠木さん」


エリカの声は小さかった。

女が一歩前へ出た。


「いまは関係者の確認中です。生徒の方は会場へお戻りください」


言葉だけは滑らかだった。

だが、準備していた説明を急いで口にしたような声だった。

男は女より遅れて口を開いた。


「関係者以外は下がってください」


男の方は落ち着いていた。

女が前に出て、男が後ろで抑える。判断を握っているのは、男の方だった。

湊はエリカだけを見た。

男に視線を渡せば、そこで会話に引き込まれる。

今、湊が欲しいのは理由ではなかった。

湊はエリカへ近づいた。手を差し出す。


「九条院さん」


短く言う。

エリカの瞳が揺れた。

普段なら、彼女はまず相手の立場を測る。自分がここで会場側へ引けば、案内した相手の顔を潰すのではないか。彼らの言い分が本当に必要だった場合、式典局に迷惑をかけるのではないか。九条院の娘として、軽率に騒いだように見えるのではないか。

その迷いが、今もほんの一拍だけ彼女を止めた。

湊は、その一拍を待たなかった。

手を伸ばし、エリカの手を取った。

細い手だった。

冷えている。

それでも、握り返す力はあった。


「行こう」

「はい」


返事は、今度はすぐだった。

男が動いた。

湊は、男の足の向きだけを見た。視線ではなく、足。近づくつもりの人間は、まず足の角度を変える。視線は誤魔化せても、足運びまで騙すのは難しい。

男はまだ偽装を捨てていない。走らない。手も大きく出さない。だが、湊とエリカの進路を潰す位置へ入ろうとしていた。

湊はエリカの手を引き、自分の側へ寄せた。


男の手が、エリカの方へ動いた。

その手が届く前に、湊は彼女の肩を抱くように引き寄せた。

身を呈して庇うというより、間合いを切る動きだった。

エリカの身体を自分の後ろへ隠すほど強くはない。だが、男の手が届く直線から外すには十分だった。

湊を押しのけない限り、男の手はエリカへ届かない。

エリカの吐息が湊の頬に微かに当たり、すぐに息を飲んだのが分かる。


「すみません」


湊はエリカだけに聞こえる声で言った。

謝る時間はなかった。

けれど、何も言わずに触れるには、彼女はあまりにも多くの礼法の中で生きている人だった。


「ちょっと、何をしているんですか」


女の顔からは作った穏やかさが崩れていた。

声が荒くなりかけている。

その途中で、男が女を目で止めた。

そして男はさらに一歩前へ出ようとして、止まった。

湊たちの後ろ、講堂側へ視線が向いていた。


「そこまでだ」


兵頭の声だった。

大きな声ではない。

それでも、狭い道に低く通る声だった。

兵頭はその見た目からは想像できないほど、静かに、すばやく湊たちと男の間に割って入った。

殴りかかる動きではなかった。肩を張り、足を置き、相手が進むなら必ず体にぶつかる位置へ立つ。ただそれだけで、細い屋外通路の流れを止めてしまった。

男の視線が、兵頭の顔から肩、腕、足元へ動いた。

兵頭は動かない。


「ここから先は通せない」


短い言葉だった。

男は反応を示さなかった。ただじっと兵頭を観察していた。

湊は兵頭の後ろ姿を見た。

兵頭は湊を見ない。目を離せば、相手が動く隙になる。そう考えているように見えた。

それでも、湊には分かった。

行け、という意味だった。


「兵頭」


湊が短く呼ぶと、兵頭はほんの少しだけ顎を動かした。


「ここは俺に任せろ」


それだけだった。

湊は頷いた。

エリカの手を取ったまま、講堂側へ向かう。

エリカは一度だけ、兵頭へ目を向けた。


「兵頭さん」

「後でいい」


兵頭は振り返らずに言った。

エリカは唇を結んだ。

言うべき礼も、謝罪も、確認も、この場では形にならなかった。それが分かるだけの判断は戻っていた。だから、彼女は湊に手を引かれるまま歩いた。

会場側のざわめきが近づく。

湊とエリカが講堂へ入る。

外に残る明かりが、舗装路に細く伸びた。

兵頭は、その気配を背中で聞いた。

残ったのは、兵頭と、男と、女だった。

女はまだ言葉を探していた。


「なにか誤解をなさっていませんか。九条院様にはこちらで確認していただく必要があります」


兵頭は女を見た。


「なら、式典局を通せ」

「急ぎの確認でした」

「急ぎなら、なおさら通せ」


返答は短い。

言葉で押し勝つつもりの声ではなかった。道を塞いだまま、必要な分だけ返す声だった。

男は黙っていた。

沈黙しながら、周囲を見ている。

講堂裏の道は狭い。植え込みの向こうには外周へ抜ける細い道があり、さらに奥へ行けば裏門へ続く。だが、今は兵頭が講堂側を塞いでいる。湊とエリカは会場側へ入った。ここで無理に進めば、目的は変わる。


ここで騒ぎとなれば、もう案内の手違いでは済まない。

名札も服装も会場の秩序に紛れるためのものだ。人が集まれば、その役には立たなくなる。

男は兵頭の体格だけを見て判断したわけではなかった。

兵頭の両足は肩幅に開かれて、重心は低く安定していた。

肩には力が入りすぎておらず、余計な緊張はない。


視線は男へと向き、逸らされることがない。

声を荒げて軽く脅しつけるだけで退く相手とは思えなかった。

押し通るなら、それなりの騒ぎになる。

背後には講堂の明かりがあり、遠くで人が動く気配もある。警備員か、式典局員か、施設側の職員か。誰であれ、人が増えれば、名札と服装で押し通す余地は小さくなる。

男の視線が、女へ向いた。

女は唇を噛んだ。


「でも」

「やめろ」


男の声は低かった。

女の口が閉じる。

男は兵頭へ向き直った。


「申し訳ありません。我々の確認違いでした。こちらの手配に行き違いがあったようです」


丁寧な言い方だった。

謝罪ではない。逃げ道だった。自分たちが悪意を持って動いたのではなく、行事中の確認がずれたのだと残すための言葉だった。

兵頭は、その言葉に乗らなかった。


「所属と名前を確認する」


男の眉が、わずかに動いた。


「担当者を確認してまいります」


男はそう言って、一歩下がった。

下がり方は自然だった。争いを避ける大人の動きに見える。だが、その一歩で、兵頭の手が届く距離から外れた。

兵頭は追わなかった。

追えば相手を捕まえられる可能性はあった。少なくとも、裏門側へ向かったことは見届けられる。

だが、その先で揉み合いになれば、今度は兵頭の方が説明を求められる。相手はまだ、確認違いの外部関係者という顔を残している。


ここで無理に追うより、外見と逃げた方向を残す。暦が見たことを伝え、式典局と警備を動かす。

その方が、今は被害を広げずに済む。

兵頭は、そう判断した。

女も男に続いて下がった。

焦りはまだ顔に残っている。けれど、男が引くと決めた以上、声を上げることはなかった。二人は講堂から離れる側へ歩き出す。足音は乱れていない。引き際を心得ていた。


角を曲がる直前、男が一度だけ振り返った。

兵頭は動かなかった。

兵頭は表情を動かさず、講堂側を背にして立っていた。

男と女の姿が、外周側の暗がりへ消える。

その先には、裏門へ続く道がある。


警備が来れば調べる場所は分かる。暦は見たことを伝える。式典局員も、兵頭が残した言葉どおりに動くはずだった。

今、兵頭がすべきことは、追いかけて捕まえることではない。

被害を広げず、次に動くための材料を残すことだった。

兵頭は一度だけ、講堂側を見た。

中の明かりが、屋外の舗装路に薄く伸びている。

その光を背にして、兵頭は立ち続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ