裏門へ続く道
扉を開けた瞬間、外の空気が頬に当たった。
講堂の裏側は主会場とは別の場所だった。壁越しに拍手や人の声は残っているが、扉一枚を挟むだけで音は急に遠くなる。足元には細い舗装路が伸び、片側は講堂の外壁、もう片側は植え込みと低い柵になっていた。照明はある。だが、来賓を迎えるための明るさではない。
湊は、扉を閉めきらなかった。
講堂側の気配を残しておくためだった。
前方に三つの影が見えた。
一人は女だった。スタッフのような服装だった。
その少し後ろに、九条院エリカがいた。
さらに数歩離れて、濃紺のスーツの男が続いている。
エリカは歩いていた。
連れ去られている形ではない。肩を掴まれているわけでも、腕を引かれているわけでもない。外から見れば、案内に従っているだけのように見える。
だからこそ悪かった。
湊は歩幅だけを広げた。
足音は抑えたまま、距離を詰める。
「九条院さん」
声は思ったより低く出た。
三人が振り向いた。
エリカの目が湊を捉えた。
その瞬間だけ、彼女の表情から令嬢としての顔が剥がれていた。それは安堵だった。その次に来たのは、判断が遅れたことへの自覚だった。
もっと早く立ち止まるべきだった。
確認を求めるべきだった。
その遅れが、湊の姿を見た瞬間に形を持った。
「悠木さん」
エリカの声は小さかった。
女が一歩前へ出た。
「いまは関係者の確認中です。生徒の方は会場へお戻りください」
言葉だけは滑らかだった。
だが、準備していた説明を急いで口にしたような声だった。
男は女より遅れて口を開いた。
「関係者以外は下がってください」
男の方は落ち着いていた。
女が前に出て、男が後ろで抑える。判断を握っているのは、男の方だった。
湊はエリカだけを見た。
男に視線を渡せば、そこで会話に引き込まれる。
今、湊が欲しいのは理由ではなかった。
湊はエリカへ近づいた。手を差し出す。
「九条院さん」
短く言う。
エリカの瞳が揺れた。
普段なら、彼女はまず相手の立場を測る。自分がここで会場側へ引けば、案内した相手の顔を潰すのではないか。彼らの言い分が本当に必要だった場合、式典局に迷惑をかけるのではないか。九条院の娘として、軽率に騒いだように見えるのではないか。
その迷いが、今もほんの一拍だけ彼女を止めた。
湊は、その一拍を待たなかった。
手を伸ばし、エリカの手を取った。
細い手だった。
冷えている。
それでも、握り返す力はあった。
「行こう」
「はい」
返事は、今度はすぐだった。
男が動いた。
湊は、男の足の向きだけを見た。視線ではなく、足。近づくつもりの人間は、まず足の角度を変える。視線は誤魔化せても、足運びまで騙すのは難しい。
男はまだ偽装を捨てていない。走らない。手も大きく出さない。だが、湊とエリカの進路を潰す位置へ入ろうとしていた。
湊はエリカの手を引き、自分の側へ寄せた。
男の手が、エリカの方へ動いた。
その手が届く前に、湊は彼女の肩を抱くように引き寄せた。
身を呈して庇うというより、間合いを切る動きだった。
エリカの身体を自分の後ろへ隠すほど強くはない。だが、男の手が届く直線から外すには十分だった。
湊を押しのけない限り、男の手はエリカへ届かない。
エリカの吐息が湊の頬に微かに当たり、すぐに息を飲んだのが分かる。
「すみません」
湊はエリカだけに聞こえる声で言った。
謝る時間はなかった。
けれど、何も言わずに触れるには、彼女はあまりにも多くの礼法の中で生きている人だった。
「ちょっと、何をしているんですか」
女の顔からは作った穏やかさが崩れていた。
声が荒くなりかけている。
その途中で、男が女を目で止めた。
そして男はさらに一歩前へ出ようとして、止まった。
湊たちの後ろ、講堂側へ視線が向いていた。
「そこまでだ」
兵頭の声だった。
大きな声ではない。
それでも、狭い道に低く通る声だった。
兵頭はその見た目からは想像できないほど、静かに、すばやく湊たちと男の間に割って入った。
殴りかかる動きではなかった。肩を張り、足を置き、相手が進むなら必ず体にぶつかる位置へ立つ。ただそれだけで、細い屋外通路の流れを止めてしまった。
男の視線が、兵頭の顔から肩、腕、足元へ動いた。
兵頭は動かない。
「ここから先は通せない」
短い言葉だった。
男は反応を示さなかった。ただじっと兵頭を観察していた。
湊は兵頭の後ろ姿を見た。
兵頭は湊を見ない。目を離せば、相手が動く隙になる。そう考えているように見えた。
それでも、湊には分かった。
行け、という意味だった。
「兵頭」
湊が短く呼ぶと、兵頭はほんの少しだけ顎を動かした。
「ここは俺に任せろ」
それだけだった。
湊は頷いた。
エリカの手を取ったまま、講堂側へ向かう。
エリカは一度だけ、兵頭へ目を向けた。
「兵頭さん」
「後でいい」
兵頭は振り返らずに言った。
エリカは唇を結んだ。
言うべき礼も、謝罪も、確認も、この場では形にならなかった。それが分かるだけの判断は戻っていた。だから、彼女は湊に手を引かれるまま歩いた。
会場側のざわめきが近づく。
湊とエリカが講堂へ入る。
外に残る明かりが、舗装路に細く伸びた。
兵頭は、その気配を背中で聞いた。
残ったのは、兵頭と、男と、女だった。
女はまだ言葉を探していた。
「なにか誤解をなさっていませんか。九条院様にはこちらで確認していただく必要があります」
兵頭は女を見た。
「なら、式典局を通せ」
「急ぎの確認でした」
「急ぎなら、なおさら通せ」
返答は短い。
言葉で押し勝つつもりの声ではなかった。道を塞いだまま、必要な分だけ返す声だった。
男は黙っていた。
沈黙しながら、周囲を見ている。
講堂裏の道は狭い。植え込みの向こうには外周へ抜ける細い道があり、さらに奥へ行けば裏門へ続く。だが、今は兵頭が講堂側を塞いでいる。湊とエリカは会場側へ入った。ここで無理に進めば、目的は変わる。
ここで騒ぎとなれば、もう案内の手違いでは済まない。
名札も服装も会場の秩序に紛れるためのものだ。人が集まれば、その役には立たなくなる。
男は兵頭の体格だけを見て判断したわけではなかった。
兵頭の両足は肩幅に開かれて、重心は低く安定していた。
肩には力が入りすぎておらず、余計な緊張はない。
視線は男へと向き、逸らされることがない。
声を荒げて軽く脅しつけるだけで退く相手とは思えなかった。
押し通るなら、それなりの騒ぎになる。
背後には講堂の明かりがあり、遠くで人が動く気配もある。警備員か、式典局員か、施設側の職員か。誰であれ、人が増えれば、名札と服装で押し通す余地は小さくなる。
男の視線が、女へ向いた。
女は唇を噛んだ。
「でも」
「やめろ」
男の声は低かった。
女の口が閉じる。
男は兵頭へ向き直った。
「申し訳ありません。我々の確認違いでした。こちらの手配に行き違いがあったようです」
丁寧な言い方だった。
謝罪ではない。逃げ道だった。自分たちが悪意を持って動いたのではなく、行事中の確認がずれたのだと残すための言葉だった。
兵頭は、その言葉に乗らなかった。
「所属と名前を確認する」
男の眉が、わずかに動いた。
「担当者を確認してまいります」
男はそう言って、一歩下がった。
下がり方は自然だった。争いを避ける大人の動きに見える。だが、その一歩で、兵頭の手が届く距離から外れた。
兵頭は追わなかった。
追えば相手を捕まえられる可能性はあった。少なくとも、裏門側へ向かったことは見届けられる。
だが、その先で揉み合いになれば、今度は兵頭の方が説明を求められる。相手はまだ、確認違いの外部関係者という顔を残している。
ここで無理に追うより、外見と逃げた方向を残す。暦が見たことを伝え、式典局と警備を動かす。
その方が、今は被害を広げずに済む。
兵頭は、そう判断した。
女も男に続いて下がった。
焦りはまだ顔に残っている。けれど、男が引くと決めた以上、声を上げることはなかった。二人は講堂から離れる側へ歩き出す。足音は乱れていない。引き際を心得ていた。
角を曲がる直前、男が一度だけ振り返った。
兵頭は動かなかった。
兵頭は表情を動かさず、講堂側を背にして立っていた。
男と女の姿が、外周側の暗がりへ消える。
その先には、裏門へ続く道がある。
警備が来れば調べる場所は分かる。暦は見たことを伝える。式典局員も、兵頭が残した言葉どおりに動くはずだった。
今、兵頭がすべきことは、追いかけて捕まえることではない。
被害を広げず、次に動くための材料を残すことだった。
兵頭は一度だけ、講堂側を見た。
中の明かりが、屋外の舗装路に薄く伸びている。
その光を背にして、兵頭は立ち続けた。




